久保田智広

日本語では「茶」といえば緑茶のことで、 紅茶を「茶」と省略することはできません。 一方、英語では「tea」といえば紅茶のことで、 「green tea」を「tea」と省略することはできません。 ここで、「茶」「tea」を「無徴」、「紅茶」「green tea」を 「有徴」といいます。つまり、「紅茶」「green tea」は、 「茶」「tea」にくらべて “徴(しるし)” を余分に持ってるわけです。

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  1. shinichi Post author

    有徴と無徴

    by 久保田智広

    http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/5780/yuucho.html

    日本語では、「茶」といえば緑茶のことで、 紅茶を「茶」と省略することはできません。 一方、英語では「tea」といえば紅茶のことで、 「green tea」を「tea」と省略することはできません。 ここで、「茶」「tea」を「無徴」、「紅茶」「green tea」を 「有徴」といいます。つまり、「紅茶」「green tea」は、 「茶」「tea」にくらべて“徴(しるし)”を余分に持ってるわけです。

    歴史的経緯について

    こういう事情になった歴史的経緯を考えてみると、 もともと「緑茶」「紅茶」というふたつの語があり、 より頻出する語である「緑茶」の方が短くなったのだ、 と想像することもできますし、 もともと「茶」というひとつの語があり、 新たに「紅茶」という語ができたのと同時に 「緑茶」というほとんど利用されない語ができたのだ、 と想像することもできます。それぞれについて、見てみましょう。

    「機会が多い」

    たとえば、実生活において、「緑茶」を意味する語を言う機会が 「紅茶」を意味する語を言う機会よりも多かったとしましょう。 そう、それも百倍も多かったとしましょう。 そうすると、だれかが「茶」とだけ言ったのを聞いた人は、 どう思うでしょうか。その場面にもよりますが、 その人が言いたいのはたぶん「緑茶」のことだろう、 と思うのではないでしょうか。その人が「紅茶」のことを 言っている確率は、ざっと百分の1にすぎないのですから。 つまりこの場合、ことばの上での有徴・無徴は、 それが指し示す現実世界の状況を映し出していると言えます。

    これは、より頻出する物により短い語を割り当てることで、 会話や文章全体の長さを減らす結果になっています。 これは、情報理論でいうハフマン圧縮とも似た考え方です。 (ハフマン圧縮は、事実上日本標準のファイル圧縮ソフトである LHA などで使われている技法です)。

    「先に登場」

    もうひとつの可能性として、「緑茶」という物が「紅茶」という物よりも 先に登場した、という可能性があります。「緑茶」しか存在しなかった時代に、 「緑茶」と「紅茶」を言い分ける必要なんてないので、 たんに「茶」と言えば「緑茶」を指すようになったのだ、 ということです。

    じゃあ、どっち?

    日本語における「茶」が「緑茶」を指す理由、 英語における「tea」が「紅茶」を指す理由については、 「機会が多い」と「先に登場」のふたつの説明のどちらもあてはまるように思います。 日本語圏では歴史的に「緑茶」の方が「紅茶」よりも先に存在していた でしょうし、同時に「緑茶」のほうがよく飲まれています。また同様に、 英語圏では「紅茶」のほうが先に存在し、「紅茶」のほうがよく飲まれています。

    しかし、ふたつの説明のうち片方しかあてはまらないような場合もあります。 たとえば、「筆」と「鉛筆」。歴史的にはもちろん「筆」(毛筆) のほうが先に登場しています。しかし、現在よく使われているのは「鉛筆」 のほうです。そして、「筆」(毛筆) のほうが無徴で、「鉛筆」のほうが有徴です。 つまり、「機会が多い」は当てはまらず、「先に登場」が当てはまります。

    一方、「車」という語を考えてみましょう。現在、「車」といえば「自動車」 のことであり、「大八車」や「馬車」や「牛車」ではありません。これは、 「機会が多い」が当てはまり、「先に登場」が当てはまらない例です。

    どっちでもない場合

    しかし、さきほどのふたつの説明の両方ともあてはまらないような例があります。 たとえば、「大きさ」「小ささ」。ある物が大きいか小さいか分からないときや、 大きい・小さいとは無関係にそのサイズを言いたいとき、日本語では、 その物の「大きさ」、というふうに表現しますね。「小ささ」という語は、 その物が小さいときに、どれくらい小さいかという程度を表す言葉であって、 大きくても小さくてもいい、とにかくその大きさのことだ、というときに「小ささ」 という語は使えません。英語の「big」「old」、 「old」「young」にも同じことが言えます。たとえば英語で相手の年齢を聞くとき、 「How old are you?」とは言っても「How young are you?」とは言いませんよね。

    また、さっき挙げた例で言えば、日本語圏に存在する数からいえば 「自転車」のほうが「自動車」よりも多いと思われ、また、「自転車」も 「自動車」と同様に頻繁に使われているはずなのに、「車」という語で 「自転車」を意味するような使用法はできません。

    性別について

    さて、「有徴」「無徴」の対が数多く出てくるのが、性別がからむことばです。 男性と女性は、歴史的にどちらが先に登場したなんてことはないので、 現在の社会をなんらかの形で映し出しているのだと言えるでしょう (旧約聖書では男性が先にできたことになってますが、ぼくは信じていません:-)。

    男性が無徴の場合

    たとえば、有名どころでいえば、英語の「man (男・人)」と「woman (女)」。 ことばに現れる性差別だ、としてよく批判の対象となる例ですね。 「~man」を語尾に持つ言葉も、「chairman (議長)」「fireman (消防士)」など、 かつてはたくさんありましたが、最近は「chairperson」とか、 単に「chair」という語に置き換わっています。また、 「~ess」を語尾に持つ語もたくさんあります。

    職業を表す語については、昔、これらの職業について女性が珍しかった (あるいは、現在でも珍しい)、という状況の反映であると考えることができます。

    日本語でも、べつに男性であることを言う必要がない場面で 「男」という語が使われることがよくあります。たとえば、 「世界最強の男」というような使い方で。まあ、 たしかにその場面ではその人は男なので、うそではないのですが、 「男」という語を「人」という意味で使っているように思われます。

    女性が無徴の場合

    逆に、女性の方が無徴であるようなことばもあります。英語の「bride (花嫁)」と 「bridegroom (花婿)」とか、日本語では「やもめ」「男やもめ」というぐあいに。

    女性が無徴であるような語、つまり、女性のほうが優勢であるような語には、 結婚などに関係するような語が多いように思われます。

    「差別」という問題と絡めて

    ここでは、「差別」という、あいまいで、かつ、厳密な定義をしようとすると たちまち議論が紛糾してしまうようなキーワードをできるだけ避ける形で、 議論を進めてみたいと思います。

    結論からいうと、ぼくは「chairman」→「chairperson」「chair」 の言い替えに賛成です。しかし、「chairman」ということばが女性を「差別」 するものだ、という考えには、完全には同意しません。

    この「chairman」ということばは、まず、差別云々よりも、 実際に女性が議長になった場合にきわめて違和感があるので居心地が悪い、 ということがあると思います。

    一方、そうでないときには、 このことばは女性の存在を忘れさせる効果を生むと思います。 そして、「忘れる」ことを「差別」と呼ぶなら、「chairman」 ということばは差別を呼び起こすことばだと言えるでしょう。

    ここで、「差別語」ということばについて。 漢語について一般的に言えることですが、 「差別」と「語」がどういう関係にあるのか、 「差別語」と言っただけでは分かりません。要するに、 日本語でいう助詞・助動詞に当たる部分が欠落しているのです。 「差別語」とは、「言うことがそのまま差別であるような語」なのか、 「差別の感情を表現するための語」なのか、 「聞いた人に差別する心を芽生えさせるような語」なのか、 というようなことが全く分からないのです。
    たとえば、なにかの議長を選出するとき、「女性は議長に向かない」 と考える人は差別的な考えの持ち主だとふつうは考えられますが、 では、女性が議長になることなんて思ってもみない、念頭にない人は、 差別的と呼ぶべきでしょうか。 積極的に女性を蔑視しているわけではないですが、 議長の選出に及ぼす効果から言うと、 両者にはあまり差がないかもしれません。

    同じような問題は、英語の「man」や日本語の「男」についても言えることです。 たとえば、古い話になりますが、「核戦争が起こり、 私は地球最後の男となった。しかし、誰かが扉をたたく音がする。なぜだろう。 ただし、風の音とかではないし、私が地球最後の男であることは間違いがない」 というクイズが、始まって間もない頃の「マジカル頭脳パワー」の問題にありました。 答えは「地球最後の女」だったのですが、驚いたことに、 誰一人として正解しなかったのです。

    何年前のことでしょうねえ。ってことは、ぼくはこの話のアイディアを、 そんなに昔から暖めてた、ってことになるんでしょうか。

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