江國香織

言葉は記号のようだった。記号だからこそ、あんなに気安く口から滑りでたのだ。大切なことは何一つ言いだせないままに。

One thought on “江國香織

  1. shinichi Post author

    冷静と情熱のあいだ

    by 江國香織

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    眠れない夜、私は、人恋しさと愛情とを混同してしまわないように、細心の注意を払って物事を考えなければならない。

    部屋の中でもきちんとヒールのある靴をはき、膝を揃えて腰掛けるフィデリカ。

    『アオイ』 フェデリカの部屋は不思議だ。部屋全体がフェデリカのよう。 『はい?』 煙草をはさんだ指先には、きょうもご主人に贈られた猫目石の指輪がはめられている。 『人の居場所なんてね、誰かの胸の中にしかないのよ』 フェデリカは、私の顔をみずにそう言った。半ばひとりごとのように。

    言葉は記号のようだった。記号だからこそ、あんなに気安く口から滑りでたのだ。大切なことは何一つ言いだせないままに。

    遠い日、絵画に対するこのひとの情熱やひたむきさに、私は半ば愛を半ば嫉妬を、そしてたぶん淋しさをおぼえた。 会えてよかったよ、と、順正は言った。愛してる、と言うのとそっくりの響きで。

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