田家康

1459年から1461年にかけて、今度は長い干ばつと台風の到来によるっ凶作が続き、長禄・寛正の飢饉となる。1460年(長禄四)に京都で「頃年早風水災、天下凶荒、疫癘飢年、天下人民死亡者三分之二」、越中で「天下飢饉、疾病餓死者死亡不知数、人種失三分之二云々」、1462年に奈良で「依災早餓死数千人、又依病事死去不知其数」、越前で「河口庄から百姓がいうに、昨年から七月まえの間、餓死者9268人、逃亡者757人」等、全国でかなりの数の記録が残っている。

3 thoughts on “田家康

  1. shinichi Post author

    日本災害史

    死の総合研究所

    http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199204.html

    1461年 寛正の大飢饉
    数年来の異常気象で全国に飢饉が拡大し、京都では死者は1月から8万2千人に達した。死体は市中にあふれ、鴨川は水もながれず死臭がおおった。禅僧雲泉大極の『碧山日録』に、「洛北の一僧が木片の卒搭婆を8万4千作り、死体に一つ一つ置いていったところ、2ケ月で残り2千になった」とある。つまり8万2千という死亡者の数字はここから来ているのである。3月には餓死者は1日300人から700人で、五条の橋の下には1千から2千人の死体が埋められた。

    Reply
  2. shinichi Post author

    (sk)

    足利義政(1436年-1490年)が生きたのは、まさに異常気象と餓死、そして混乱の時代だった。

    義政が室町幕府第8代将軍に就任(1449年)した頃から世界中がざわざわしだし、1452年から1453年にかけて、バヌアツの海底火山クワエが複数回にわたって大噴火。北半球の夏のない異常気象が始まった。

    異常気象で大雨と旱魃が交互に訪れ、災害と飢饉が世界的な規模で発生し、水害・農作物の被害・虫害・疫病が世界各地で記録されている。日本でも長禄・寛正の飢饉(1459年—1461年)は「世上三分の二餓死」などという表現で今に伝えられている。

    1461年には畿内の台風により加茂川が氾濫。人口10万人の京都で8万2千人の死者が出たというから尋常でない。

    農作物の被害はより深刻で、1459年頃から年貢を納める側の飢饉が深刻化。生産者の多くが死亡すると、今度は年貢を受け取る側に影響が及び、長禄・寛正の飢饉が終わったはずの1462年には奈良で多くの人たちが餓死している。

    当然のことながら、紛争が世界中で勃発。1453年にはコンスタンティノープルが陥落。日本でも紛争は絶えず、それが1467年からの応仁の乱につながっていく。

    誰が世を治めていたとしても、異常気象はやって来たのだし、水害や農作物の被害、虫害、疫病、飢饉、紛争などは防げなかっただろう。混乱は必然なのであって、義政を無能呼ばわりするのは適当でない。

    Reply

Leave a Reply to shinichi Cancel reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *