大学生の読書生活

ギリシャの恋愛は人間の欲望を肯定した上でそれを高めていくものである。一方、キリスト教の恋愛は動物的な欲望を悪性と廃し、動物性が浄化されるのは子孫の繁栄を目的とした結婚の時のみとしている。これに対し、日本古来の恋愛は本能+感情である。露骨に言ってしまえば一緒に寝たいという欲望、それに繊細な感情の美学が加わったものが日本の恋愛なのである。
例えば「万葉集」では美しい別離の情や、恋人に久しぶりに会った喜びなどの生活感情を素材にして愛が述べられている。また、「伊勢物語」や「源氏物語」においても、恋愛はただ感情から綴られた。このように、恋愛を哲学や騎士道と結びつけたヨーロッパと違い、日本の恋愛はそれらから隔絶した世界にあり、感情の形でだけ浄化してきた。

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One Response to 大学生の読書生活

  1. shinichi says:

    新恋愛講座~西洋と日本の恋愛観~

    大学生の読書生活

    http://spiny-lobster.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-1fc4.html

    新恋愛講座/三島由紀夫/ちくま文庫

    「恋愛」は人々の誰しもが興味のある永遠のテーマであり、それ故にその観念も普遍的であるかのように思える。しかし、我々日本人が持っている恋愛観念は、元来日本にあった観念に加え、西洋、つまりギリシャとキリスト教それぞれの恋愛観が混ざったものである。
     ギリシャにおける恋愛はキリスト教が出る以前の恋愛である。プラトンは『饗宴』において、恋愛というのは美しいものに対して我々が心を惹かれることだと言っている。何故なら人間には自分の中に欠けたもの、より完全なものを求めるという意識があり、美しいものはその美しさにおいて自分に勝っており、自分に欠けたものを備えているからである。このより高い物、より美しい者、より良いものを目指すというエロス的欲望があるからこそ、その美しいものを自分のものにしたいと思い、愛が生じる。
     そしてその愛がだんだん高い程度に進むと、初めは相手の肉体だけを欲しいと思っていたのが肉体以上の精神の美しさを求めるようになる。そして精神の美しさを押し進めると、徳や心理と言うものを求めるようになり、それを永続させようという意志が人々を芸術作品や英雄的事業に向かわせる。
     プラトンの作品においてディオティマという知恵のある女性が登場する。その言葉は次のようなものである。
    「日常の個々の美しいものから出発して、最高の美を目指して絶えず上っていくことは、ちょうどはしごの階段を上るようである。そして、一つの美しい肉体から美しい職業活動へ進み、美しい職業活動から美しい学問へ進み、さらに学問から出発して、ついには本当の真理、つまり美の本質を認識するまでになる」
    こうしたギリシャ人の考え方を見るとわかるように、ギリシャ人にとって恋愛というのは学問を愛したり英雄的な行動に臨んだりすることと同じ、エロス的動機から起こっている。

    ギリシャの愛の特徴は人間の欲望をまず肯定して、そして欲望をだんだん清め、高めていくところにある。これに対し、キリスト教の考える愛は、肉欲を離れた精神的なものであると考えられている。動物的な欲望を汚いものとみなし、それを排することで本当の愛に辿りつくというものである。
    これを基本的な観念とした上で、キリスト教はそれに様々な装飾を付与してきた。その一番中心となるものが聖母崇拝である。全く男女の交わりをしないで子供を産んだ女性であるマリアへの愛、マリア崇拝がキリスト教徒の愛の基本になっている。
    それが一番明確な形で現れたのが騎士道である。騎士というものは、何も求めることのない誠実さと忠実さをもって、自分の仕える貴婦人に尽くさなければならない。騎士は神に対するが如く絶対の奉仕で、自分の誠を尽くし、命を捧げて恋愛する。このように、欲望を離れて美しいものに誠を捧げるということがキリスト教徒の恋愛の根底に存在している。キリスト教において恋愛とは、マリアに対する憧れに帰着し、自分の欲望を抑えつけて、最大の誠を捧げ、時には命を捨てることもあえてするようなものなのだ。

    ギリシャの恋愛は人間の欲望を肯定した上でそれを高めていくものである。一方、キリスト教の恋愛は動物的な欲望を悪性と廃し、動物性が浄化されるのは子孫の繁栄を目的とした結婚の時のみとしている。これに対し、日本古来の恋愛は本能+感情である。露骨に言ってしまえば一緒に寝たいという欲望、それに繊細な感情の美学が加わったものが日本の恋愛なのである。
    例えば「万葉集」では美しい別離の情や、恋人に久しぶりに会った喜びなどの生活感情を素材にして愛が述べられている。また、「伊勢物語」や「源氏物語」においても、恋愛はただ感情から綴られた。このように、恋愛を哲学や騎士道と結びつけたヨーロッパと違い、日本の恋愛はそれらから隔絶した世界にあり、感情の形でだけ浄化してきた。

    しかし、明治以降様々なヨーロッパ的観念が流入してから、現代の日本ではそれらと日本古来の恋愛観念が入り乱れていると三島は指摘する。

    「(中略)西洋の恋愛の中には、たとえ映画で通俗的に描かれたものの中にも、キリスト教的な罪の意識もあればマリア崇拝の考え方もある。そういうものによって知らず知らず、われわれは恋愛の形を思い描いているのです。そうかといっし、昔の日本人のように感情の力だけで恋愛を美化したり浄化した、それほどのひまもなければ、それほどの余裕もない。非常に忙しい人はいきなり本能的な欲望に結びつけて、それで満足してしまう。恋愛なんていうことを考えない。いくらかひまができる人は,いきなり観念的にヨーロッパ的な恋愛に結びつけて空すべりをしてしまう。ロマンチック文学は日本では十分発達しませんでしたが、しかしロマンチックな恋愛の考え方による悲劇は、決して一つや二つではなしに、いろいろな形で明治以来ずっと起ってきているのです。」(p.18)

    ここで三島は「悲劇」という言葉を使っている。ヨーロッパから流入した恋愛観念はしばしば悲劇を引き起こしてきたとしているのだ。ヨーロッパ的な恋愛観念、特にキリスト教におけるそれは人々を強く縛る。キリスト教は欲望否定の宗教であるが、それが広まった理由として、もともと本能的欲望の強い西洋人が、欲望を破滅的に開放して自らを滅ぼすことに恐怖心があったことが考えられている。
    自覚的に自らを縛ることでそこに自由を見出すという考え方は、熱心な宗教者のみならずカントなどの哲学者も持っているものである。しかし、本人が無自覚の内に日々の生活の中である観念が無意識に刷り込まれ、それに縛られ苦しんでいるとしたら、それはまさしく「悲劇」に他ならないだろう。

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