中勘助

 これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖のなかに蟠まったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北にかわる境めに崖を駈けおりて水を汲んでくるほどのあいだそれまでの騒しさにひきかえて落葉松のしんを噛む蠧の音もきこえるばかり静な無風の状態がつづく。
 この島守の無事であることを湖の彼方の人びとにつげるものはおりおり食物を運んでくれる「本陣」のほかには毎夜ともす燈明の光と風の誘ってゆく歌の声ばかりである。この人は昔村が街道筋にあたって繁昌した頃の御本陣のあととりだが、時勢の変遷や度かさなる村の災厄のため落魄して今はここでも小さいほうの数に入る一軒の家のあるじにすぎないけれど通り名だけはもとのまま「本陣」と呼ばれている。本陣は村じゅうでいちばん人がいいといわれるとおりおそらく国じゅうでも最も善良な人のひとりであろう。その善良朴直のゆえに私は心からこの人を愛する。性来、特に現在甚だ人間嫌いになった私にとってもこの人が島へくることは一尾の鱒が游いできたような喜びを与える。

2 thoughts on “中勘助

  1. shinichi Post author

    島守

    by 中勘助

    「犬 附島守」岩波書店
    1924(大正13)年5月10日

    https://www.aozora.gr.jp/cards/001799/files/56848_58175.html

     これは芙蓉の花の形をしてるという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしてすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖のなかに蟠まったこの島さえがよくも根こぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる。ただ思うさま吹きつくした南風が北にかわる境めに崖を駈けおりて水を汲んでくるほどのあいだそれまでの騒しさにひきかえて落葉松のしんを噛む蠧の音もきこえるばかり静な無風の状態がつづく。
     この島守の無事であることを湖の彼方の人びとにつげるものはおりおり食物を運んでくれる「本陣」のほかには毎夜ともす燈明の光と風の誘ってゆく歌の声ばかりである。この人は昔村が街道筋にあたって繁昌した頃の御本陣のあととりだが、時勢の変遷や度かさなる村の災厄のため落魄して今はここでも小さいほうの数に入る一軒の家のあるじにすぎないけれど通り名だけはもとのまま「本陣」と呼ばれている。本陣は村じゅうでいちばん人がいいといわれるとおりおそらく国じゅうでも最も善良な人のひとりであろう。その善良朴直のゆえに私は心からこの人を愛する。性来、特に現在甚だ人間嫌いになった私にとってもこの人が島へくることは一尾の鱒が游いできたような喜びを与える。――追記。その後いちど逢ってしみじみ昔話でもしたいと思いつつおりを得ずに幾十年かたつうちに本陣は亡くなった。残念なことをした。家も新築されてあとが栄えてると人づてにきいて喜んでたのだったが。
     たまさかに参詣の旅人をのせてくる村の人は芝蝦や烏貝といっしょにこの寒村のつまらぬ名物のひとつとして私の話をするのであろう。彼らは影法師のうつるのも忘れてそっと障子の孔から覘いたり、または森のなかを歩いてるところを見つけて変化ものの正体でも見あらわすようにじろじろと見まわしたりする。多くの者は私の不興げな顔を見て目くばせをし囁きあってそこそこに帰ってゆくが、なかには好奇心にかられ煙草の火をかり宮の名をたずねなどするのにかこつけておずおず話しかけるのもある。彼らの問いは鼠の道のようにきまっている。こんな島のなかにいてなにをするのか、寂しくはないか、恐しくはないか……これらの問いに対して私はなんと答えたらよいであろうか。住むべき家もないゆえ鴨のように迷ってきてこの島に宿をもとめたのである。寂しいといえば都会の喧噪のうちにすこしの理解もない人びとの群にまじってるよりも寂しいことがあろうか。ここは湖の離れ島である。さりながら日月は追いあう水島のごとくにして朝夕に島を照して忘れることはない。私はこれらの木や、鳥や、虫や、魚やと友となり、兄弟となって美しい姉妹の神を送り迎えている。私は今ひとりになって世のさかしらな人びとに愚かな己の姿を見る苦しみからのがれ、またいかに人間はつまらぬ交渉をつづけんがために無益に煩わされてるかを知った。世のあさましいことは見つくしまたしつくした。今はただ暫しなりとも清浄な安息を得たいと思う。旅人よ、私はおんみらがかしましいだみ声をもってこの寂寞を破ることをおそれるばかりである。
     島にひとりいれば心ゆくばかり静かである。読書と冥想のひまにはわが穴を嗅ぎまわる獣のように島のうちを逍いあるく。その芙蓉の花の花びらに虻のとまったほどのこの島にも雨につけ風につけなにかの新しいことがないでもない。栗の枝が吹き折られたこと、鳥が蜆の殻を落していったこと……それらは島の歴史に残るべき大きな出来事である。またおりふし夢野の神はしのびやかにきて冷かな私の眠りをいろいろの絵筆に彩ってゆく。それらのことを私は日にちこまごまと日記につけておく。これはこの島に隠れて島守の織る曼陀羅である。

    。。。

     十七日
     恐しい白根颪がふく。朝早く本陣が荷造りにきて一つ一つ舟へ運びおろす。きょうは風が強いから舟を小島が崎の入江につないできたという。鳥居のところへおり汀の杭につないだ舟にのって後の掃除をしてる本陣を待つ。島の木は咆えに咆え、日光に溢れた雲が奔馬のように飛んでゆく。
     舟をだす。讃むべきかな、島はもみじして鴛鴦のごとくにみえる。この島は国のはじめのころはたぶん一羽の鴛鴦だったのであろう。彼は禍津日の神の妬みにふれてただひとりの恋人をうしない嘆きのあまりにかような島となってしまった。それゆえ幾千年の後の世の今になっても秋がきてその子の子らがあの入江にわたってくると恩愛のきずなにひかれて美しい昔の姿をあらわすのである。
     岬をまわるやいなや大きな浪がつづけざまにくるのを舟をかわしかわし湖畔についた。

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