中原圭介

歴史を振り返ってみると、国家の繁栄にとって中間層がいかに重要であるか、よく理解できると思います。古代ギリシャにおいても、古代ローマにおいても、その後の大帝国においても、それぞれの繁栄の時代は豊かな中間層の勃興とともに誕生し、豊かな中間層の喪失に伴い、国家の分断が起こり国力を衰退させていったのです。古代ローマの事例は、私たちが生きるグローバル経済下でも貴重な教訓として生きているといえるでしょう。
まさに住宅バブル崩壊後の米国では、中間層の疲弊と経済格差の拡大によって、国家の分断ともいえるさまざまな出来事が起こっています。富裕層と呼ばれる人々とそうでない残りの人々とのあいだに、経済的な格差を起点として、そこから生じる生命の安全における格差、食の安全における格差、教育を受ける機会の格差など、その他もろもろの格差が広がってきているのです。

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  1. shinichi Post author

    古代ローマの栄枯盛衰から学ぶべき「教訓」

    中間層が没落する国は衰退の道をたどる

    中原 圭介

    https://toyokeizai.net/articles/-/163065?page=5

    https://toyokeizai.net/articles/-/163065

    世界の歴史をさかのぼってみると、かつては軍事・経済・文化で繁栄を誇った国々の多くが、中間層の疲弊・没落をきっかけにして衰退や滅亡の道をたどって行きました。そこで今回は前編(「中間層の没落」とともに国家は衰退に向かう)の古代ギリシャの事例に続く後編として、古代ローマ帝国の歴史を振り返ることによって、現代社会における「中間層の重要性」を見ていきたいと思います。

    世界の古代史のなかでも最も有名なローマ帝国の始まりは、紀元前6世紀の初め頃に、ラテン人の一氏族が現在のイタリア・ローマの地に建国した都市国家でした。当時のイタリア半島には、ラテン人の諸族の国家のほかに、北部に先住民族のエトルリア人の諸国家、南方の沿岸部にはギリシャ人の諸植民市がありました。ローマはそのうちの小さな国家のひとつにすぎなかったのです。

    中小農民の歩兵部隊が周辺国を相次ぎ征服

    それでは、なぜローマは大帝国を築くことができたのでしょうか。それは、イタリア半島の風土や気候がギリシャとほぼ同じであったからです。ローマ人はギリシャ人と同じように、貴重な特産物であるぶどう酒とオリーブ油をユーラシアの内陸部へ出荷し、その代わりに大量の穀物や貨幣を手にするようになったのです。その結果、ローマの農民はギリシャの農民と同じく、中小農民と呼ばれる富裕な農民となっただけでなく、武具〔兜(かぶと)、鎧(よろい)、盾、槍(やり)など〕を自費で賄う重装歩兵にもなりえたというわけです。

    イタリア半島にもギリシャの重装歩兵の屈強さは知れ渡るようになり、ローマでも戦争の主役は、馬を所有していた貴族による騎兵から中小農民による重装歩兵に変わっていきました。ローマは元老院や執政官の指導のもと、中小農民からなる重装歩兵部隊をうまく使いこなし、周辺のラテン人や北部のエトルリア人の国家群、南部のギリシャ人の植民市群を相次いで征服していきます。そして紀元前272年には、ギリシャ人の植民市タレントゥムを攻め落とし、イタリア半島の統一を達成します。

    イタリア半島を統一する過程では、戦争の主力である中小農民は平民として政治的な発言力を強めていきました。すでに紀元前494年には、民会で選ばれる平民の代表として護民官という役職が貴族に対抗するために設けられていましたが、さらに紀元前367年には、2名の執政官のうち1名が平民に開放されることを定めたリキニウス=セクスティウス法、紀元前287年には、民会の決議が元老院の承認を経なくても国法になることを定めたホルテンシウス法が制定されました。貴族に代わって平民がローマの政治の中心になっていったというわけです。

    都市国家ローマがイタリア半島の外に勢力図を広げることができたのは、裕福な中小農民が国の経済力と軍事力の中核を担うようになったのに加えて、ギリシャ全土より中小農民の数が非常に多かったからです。当然のことながら、裕福な中小農民はモノの買い手としてローマ経済を活性化させていましたし、税金の担い手としてローマ財政を潤沢にしていました。現代でいうところの「中間層」と呼ばれる人々が、軍事・経済・財政を下支えすることによって、ローマが大帝国に発展する礎が築かれていったのです。

    イタリア半島を統一したローマは、地中海西方を支配していた大国カルタゴと地中海の交易権をめぐって戦争を開始します。ポエニ戦争といわれるこの戦争は、紀元前264~紀元前146年まで3次にわたって100年以上も続くことになります。最終的にはローマがカルタゴを滅亡させ、地中海全域を制覇することになるのですが、ポエニ戦争でローマがカルタゴに勝利した主な要因としては、両軍の兵士の士気や志の違いが挙げられます。ローマ軍は自国の中小農民から徴用した部隊であったのに対して、カルタゴ軍は忠誠心の低い異民族による傭兵(ようへい)部隊が主力であったのです。

    ローマの中小農民による重装歩兵部隊は、かつて大国ペルシャに勝利したギリシャの重装歩兵部隊と同じように、個々の利益よりも都市国家ローマに奉仕するという献身性を発揮し、ローマの拡大・発展の原動力となっていました。しかし、歴史は繰り返すというように、ポエニ戦争の後半(とりわけ第2次ポエニ戦争の勝利後)には、ローマ本国の軍事や経済、社会を揺るがしかねない深刻な問題が起こってしまいます。

    長年にわたる戦争で中小農民が疲弊

    それは、中小農民の没落です。ポエニ戦争ではイタリア半島は戦場にこそならなかったものの、何代にもわたる長年の従軍によって中小農民は畑を耕すことができなかったため、半島全体で農地がひどく荒廃してしまったのです。多くの中小農民が蓄えの底をつき、生活のために借金を重ねた揚げ句に、貴族や騎士に安い金額で先祖代々の土地を売らざるをえませんでした。皮肉なことに、ギリシャを強国にした中小農民の没落と同じ運命をたどってしまったというわけです。

    そのような社会情勢のなかで、ローマが第2次ポエニ戦争で領土を急拡大することによって、中小農民はいっそうの苦境に直面するようになっていきます。新しい領土はローマの属州(植民地)とされ、属州の多くの農地がローマの国有地となり、戦争で捕虜となった敵兵は奴隷とされました。新たな国有地はどうなったかというと、貴族や騎士といった富裕な市民が法外な安値で借り受けて、買った奴隷に耕させるようになったのです。これを「ラティフンディウム(大土地所有制)」と呼びます。

    第2次ポエニ戦争以降、ラティフンディウムが普及してくると、属州の農地では主に果樹と穀物が生産され、奴隷労働によって生産された安価な食料が大量にローマに流入するようになりました。属州から本国ローマへの安価な食料の輸入は、ローマ内での食料価格を大幅に下落させ、長年の戦争で疲弊していた中小の自作農民にさらなる大きな打撃を与えることになります。現代の日本の小規模な農家が米国やオーストラリアの大規模農業にコストでかなわないのと同じく、イタリア半島における小規模な家族経営の農業では、大土地所有者が奴隷を大量に使役する征服地のラティフンディウムに対して、コスト的に太刀打ちできなかったのです。

    長年の従軍による農地の荒廃とラティフンディウムの普及といった二重の苦難によって、かつて裕福だった中小農民は借金の積み重ねに耐えられず、次々と土地を手放すようになっていきます。それまでローマの軍事・経済・財政の中心に位置した豊かな中間層は、無産市民か小作人に身を落としていくこととなったのです。それと併行するように、農民の土地を買収した貴族や騎士などの大土地所有者は、戦争に勝利したことで大量に流入してきた捕虜を農業奴隷として、ローマ本国でもラティフンディウムを始めるようになります。

    その結果、大土地所有をする貴族や騎士と没落した中小農民の格差が拡大し、ローマ社会は国家の分断に直面するようになり、「内乱の1世紀」と呼ばれる暗黒の時代が始まります。ローマを強国にした重装歩兵による密集隊形(ファランクス)も、ポエニ戦争の終結後には使われなくなっていきます。ローマはカルタゴを滅ぼしたことによって、地中海全体を制覇することができたのですが、その代償はあまりにも大きかったといわざるをえません。

    グラックス兄弟の改革も富裕層の抵抗で挫折

    中小農民の没落による軍事力の低下に危機感を持ったグラックス兄弟は、護民官に選ばれるやいなや、これ以上のラティフンディウムの進行に歯止めをかけるべく、貴族や騎士による国有地の借り受け面積を制限し、無産市民になった農民に土地を分け与えるという改革を行おうとします。ところが、グラックス兄弟の改革は富裕な支配者階級の猛烈な反対攻勢を受け失敗し、兄は殺され弟は自殺に追い込まれてしまいます。歴史を振り返れば、この局面こそが本当の意味での豊かなローマの最後の踏ん張りどころであったのではないでしょうか。

    いずれにしても、富裕な支配者階級は自らの富を増大させることに腐心するかたわら、農地を失った中小農民は無産市民や小作人に身を落とし、国家への不満を募らせていくようになっていきました。その揚げ句には、富裕な支配者階級と没落した市民階級のあいだで、経済的格差から閥族派と平民派に分かれて争いが勃発し、ローマは内乱の1世紀へと突入していったのです。

    内乱の1世紀の間に、「すべての市民がローマに忠誠を尽くす」という理念は失われてしまいます。すでに中小農民は没落していたので、軍隊は無産市民を集めてつくる私兵の集団へと変質してしまっていました。有力な政治家たちは自らの軍隊を持って互いに争うようになっていったのです。マリウス、スッラ、ルキウス、コルネリウスなど私兵を抱えた将軍たちは、ローマ市内での内戦を繰り返し、軍人による独裁政治の下地をつくっていきました。

    閥族派と平民派の争いに呼応するように、征服した各地でも奴隷の反乱が起こり、ついにはローマ本国でも「スパルタクスの反乱」と呼ばれる剣奴の大反乱が起こります。ローマでは見世物として猛獣と戦う剣奴という奴隷が養成されていましたが、剣奴養成所を脱走したスパルタクスのもとに多くの逃亡奴隷が加わり、12万人もの大勢力となり反乱を起こしたのです。ローマはこの反乱を鎮めるまで、2年もかかりました。

    最終的に内乱の1世紀は、オクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラの連合軍を破り、地中海世界を統一することで終わりを迎えました。オクタヴィアヌスは紀元前27年に元老院から「アウグストゥス」の称号を与えられ、ローマは共和政から帝政へと移行します。皇帝から皇帝へ支配権を移譲するという帝政のシステムは、「政治の指導者は自由な選挙によって選ばれるべきだ」とする共和政の考え方とは、まったく相容れない政体であります。それにもかかわらず、ローマの人々に帝政への移行が受け入れられたのは、富裕な支配者階級も、無産市民も貧民も、相次ぐ内乱を経験しすぎて「もう争いはたくさんだ」と考えるようになっていたからです。

    格差拡大で軍事力、経済力とも弱体化

    その後、2世紀にもわたって続いた「ローマの平和」は、逆説的ながらも内乱の1世紀に対する強い反動として実現した平和であったといえるでしょう。しかしながら、そのローマの平和を通して、ローマ帝国領内では絶望的なほど格差が拡大し、軍事力や経済力の弱体化に歯止めがかからなくなっていきます。中小農民の没落によって重装歩兵部隊は組織できなくなったため、帝国は兵力をしだいに傭兵に頼るようになっていきます。国家への忠誠を誇りに戦った重装歩兵と職業として戦う傭兵では、士気や戦力の差は歴然であり、国防力は弱体化の一途をたどっていったのです。そのうえで、無産市民の生活を保障するために税金が湯水のように使われたので、財政の悪化から経済力の衰退までもが始まっていたというわけです。

    ヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる大帝国を築いたローマでは、その繁栄の基盤となったのは、紛れもなく素朴で頑健で裕福な中小農民でした。ですから、ローマが国家として最も活力があった時期は、カルタゴと戦ったポエニ戦争の前半まで(とりわけ第2次ポエニ戦争に勝利するまで)といわれています。ローマ人はもともと中小農民を中心とする独立心旺盛な人々で、「自分たちの国は自分たちで守る」という心構えと連帯感を持っていました。そうした気質があってこそ、士気の高い強固な市民軍と「市民は法の前に平等の権利を持つ」という共和政を生む大きな要因となったのです。

    ローマは飽くなき領土の拡大を目指して戦争に明け暮れ、食料生産を属州の奴隷労働に頼るようになったことで、豊かな中小農民は凋落の憂き目に遭い、無産市民となった農民は華美と飽食におぼれ、「兵役は市民の義務であり誇りである」という観念も失われていってしまいます。180年にマルクス・アウレリウス帝が死去して五賢帝の時代が終わりを告げると、ローマでは内戦と異民族の侵入が繰り返されるようになります。繁栄の土台であった豊かな中間層が喪失し、軍隊の主力をゲルマン人など異民族の傭兵に頼るようになったとき、ローマは確実に衰退・滅亡への道に近づいていったのでした。

    このように歴史を振り返ってみると、国家の繁栄にとって中間層がいかに重要であるか、よく理解できると思います。古代ギリシャにおいても、古代ローマにおいても、その後の大帝国においても、それぞれの繁栄の時代は豊かな中間層の勃興とともに誕生し、豊かな中間層の喪失に伴い、国家の分断が起こり国力を衰退させていったのです。古代ローマの事例は、私たちが生きるグローバル経済下でも貴重な教訓として生きているといえるでしょう。

    現代の「グラックス兄弟」は何をすべきか

    まさに住宅バブル崩壊後の米国では、中間層の疲弊と経済格差の拡大によって、国家の分断ともいえるさまざまな出来事が起こっています。富裕層と呼ばれる人々とそうでない残りの人々とのあいだに、経済的な格差を起点として、そこから生じる生命の安全における格差、食の安全における格差、教育を受ける機会の格差など、その他もろもろの格差が広がってきているのです。

    これらの格差を止めるためには、現代のグラックス兄弟のような政治家が現れる必要があります。グラックス兄弟は富裕層への過度な利益の偏りを修正し、中間層の復活を試みようとしましたが、これは現代でいえば、過度な株主資本主義への傾倒を改めることではないのでしょうか。すなわち、巨額の不労所得(株式譲渡益や配当)を稼ぎだす富裕層には多少の税率の引き上げをお願いするのは当然として、過剰な節税に躍起になっているグローバル企業にも正当な税金を支払ってもらうようにするのが、格差の拡大を緩和する最大の処方箋になるのではないかと思うのです。

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