村岡恵理

岩谷さんは卒業後4年ほど、就職もせず結婚もせず、宝塚の『歌劇』などに投稿を続けて浪人生活を送りますが、その時間には、読書をはじめとする膨大なインプットがありました。そしてついに宝塚出版部から編集部員として誘われますが、そこで運命が変わりました。当時の宝塚の生徒さんたちは、必ずしも裕福な家庭のお嬢さんばかりではなくて、たとえばコーちゃん(越路吹雪の愛称)と同期の音羽信子さんも、家庭に事情があった苦労人で、家族を養ったり、何かを背負っている人も多かった。戦争が激しくなればなるほど、お嬢様でお稽古事の延長みたいな感じでやっていた人たちは、もう続けられないと故郷に帰っていく。それでも舞台の夢が捨てられない人たちだけが残っていったのです。実際、戦争で、450人いたジェンヌたちが三分の一くらいになっちゃうんです。その中で残ったのが淡島千景さんや久慈あさみさんであり春日野八千代さん。コーちゃんもやめそうになるんですけれど、なんとか留まりました。岩谷さんもしかりです。そんな若い女性たちが、宝塚には羽根を寄せ合っていた。ひとりぼっちでは越えられないものが、一緒だったから夢を捨てずに越えられたんですね。越路さんは結局岩谷さんの実家にもう一人の子どものように身を寄せて、2人は戦争を経てお互いに運命共同体となっていったんです。

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3 Responses to 村岡恵理

  1. shinichi says:

    『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』著者インタビュー村岡恵理
    【KEY WORD 1】宝塚歌劇

    https://honsuki.jp/pickup/21831.html

    「君といつまでも」「男の子 女の子」などの大ヒット作詞家として、また越路吹雪の生涯のマネージャーとして、昭和を駆け抜けた異才の人、岩谷時子。
    その生涯を描く渾身のノンフィクションを発表した著者の村岡恵理さんに、『宝塚歌劇』『2足のわらじ』『加山雄三と坂東玉三郎』3つのキーワードで、本にまつわるさまざまなエピソードを伺った。

    この本を執筆されるきっかけは?

    「岩谷時子音楽文化振興財団の理事であり、東芝レコード時代にディレクターとして坂本九さんの「上を向いて歩こう」などを担当された草野浩二さんから『岩谷時子さんのことを書きませんか』と言われて、すぐに『やりたい』と思いました。

    まずは、岩谷さんが訳詞家であり作詞家、ことばの世界の人だったということです。また、私の亡くなった母が越路吹雪さんの大ファンで、岩谷さんは、その越路さんの生涯を通してのマネージャーだった方、深く考える以前に自然と心惹かれていました。越路さんを主軸にした物語や舞台は、それ以前にも、ピーターさん主演の『越路吹雪物語』など見ていましたが、つねに一歩下がって控えている岩谷時子さんという存在について、もっと知りたいと思いました」

    人物像はご存知でしたか?

    「ほとんど知らなかったに等しいです。お名前はよく聞くし、ミュージカルなどのパンフレットでも幾度となくクレジットを見かけているのに、そういえばこの人のことを良く知らない。財団が管理している、若い頃から晩年に至るまでの岩谷さんのお写真を見せていただく機会があり、その面差しというか、たたずまいにも強く惹かれました」

    女優のような美人ではないけれど、美しい方ですね。

    「芸能界って、魑魅魍魎がうようよしていそうな世界じゃないですか(笑)。それなのに、岩谷さんは年を重ねるごとにむしろ知的に静かに、どこか教職者とかシスターのような雰囲気に、顔がだんだんつくられていく。芸能界の中で、ああいった美しさを保ち続けたというのは、本当はすごく強い人なんじゃないか、と。経歴の表面だけ見ると、昭和初期に神戸女学院を卒業した才媛で、宝塚で越路さんと出会って、順調に歩いて行ったように見えるかもしれないけれど、そうではない。穏やかに見える面差しの奥には、ものすごい闘い、葛藤があり、それを乗り越えて、あの美しさになられていったのではないかと」

    今回、日記など貴重な資料をあたられて、意外だった点は?

    「意外というよりも、思っていた以上に強い女性だと感じます。太平洋戦争が始まった頃、お父様を亡くされたんですが、彼女は親戚からの縁談をすべて断って、お母様を支えて自分が一家の大黒柱になる道を選ぶんです。女性は結婚か親類に身を寄せるのが常識という時代で、それは社会状況の中で、選択肢うんぬん以前の問題でした。でも、岩谷さんは、自分の手で何か仕事をして生き抜きたい、という強い思いをあの不自由な時代に貫いて、現にそのように生きられた。

    並々ならぬ強さです。戦争というもう一つの大きな波も受けて、女性だけではなくて日本人全体が、なかなか自分の夢を追いかけられる時代ではなかったのですから」

    そのきっかけになったのが、宝塚歌劇。

    「岩谷さんのエッセイに、『幼い頃から、情操のすべてを宝塚歌劇から与えられた』という言葉があります。少女の頃から親しんだ戦前の宝塚歌劇を通じて、岩谷さんは美しいことば、美しい色彩を心に刻んで、その後そこで、仕事も得ていきます。強さと同時に、乙女ごころ的なものを生涯持ち続けるのが岩谷さんの特徴ですが、それを守ったのが宝塚なのかな、と。岩谷さんはひとりっ子だったし、孤独だった。でも宝塚でたくさんの愛情、たくさんの姉妹を得て、キャリアの基礎も築いた。人生のすべてを宝塚から受け取ったと言ってもいいでしょう」

    神戸女学院からの影響も大きかった?

    「岩谷さんは、神戸女学院が神戸から西宮市の岡田山に移ったさいに、W. メレル・ヴォーリズが設計した洋風建築の校舎(重要文化財)で学んだ第一期生でした。私も見学させていただきましたが、精神的なものを感じる、それは素晴らしい校舎です。しかもまばゆいばかりの新築の時に、本物の富裕層の令嬢たちに囲まれて岩谷さんはそこにいたのです。上質な西洋文化や、洗練された、洒落たものへの憧れに目覚めた。背景には、小林一三が築き上げた阪神間モダニズム、山の手文化がありました。岩谷さんにとって呼吸がしやすい場所だったでしょうし、憧れや、文化的な情操も培ってくれた。でも皮肉なことに、その中にあって岩谷さんのお家だけがお父様の病をきっかけに没落していく。神戸女学院での美しい生活と、現実のギャップは苦しかったはずです」

    岩谷時子はそこで諦めなかった。

    「岩谷さんは卒業後4年ほど、就職もせず結婚もせず、宝塚の『歌劇』などに投稿を続けて浪人生活を送りますが、その時間には、読書をはじめとする膨大なインプットがありました。そしてついに宝塚出版部から編集部員として誘われますが、そこで運命が変わりました。当時の宝塚の生徒さんたちは、必ずしも裕福な家庭のお嬢さんばかりではなくて、たとえばコーちゃん(越路吹雪の愛称)と同期の音羽信子さんも、家庭に事情があった苦労人で、家族を養ったり、何かを背負っている人も多かった。戦争が激しくなればなるほど、お嬢様でお稽古事の延長みたいな感じでやっていた人たちは、もう続けられないと故郷に帰っていく。それでも舞台の夢が捨てられない人たちだけが残っていったのです。実際、戦争で、450人いたジェンヌたちが三分の一くらいになっちゃうんです。その中で残ったのが淡島千景さんや久慈あさみさんであり春日野八千代さん。コーちゃんもやめそうになるんですけれど、なんとか留まりました。岩谷さんもしかりです。そんな若い女性たちが、宝塚には羽根を寄せ合っていた。ひとりぼっちでは越えられないものが、一緒だったから夢を捨てずに越えられたんですね。越路さんは結局岩谷さんの実家にもう一人の子どものように身を寄せて、2人は戦争を経てお互いに運命共同体となっていったんです」

  2. shinichi says:

    『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』著者インタビュー
    村岡恵理【KEY WORD 2】二足のわらじ

    https://honsuki.jp/pickup/21964.html

    戦争が終わると、ようやく越路吹雪はトップとして花開きます。

    「戦中は、宝塚といえども軍服物をやらざるをえなくて、越路さんも、やっといい役が付くようになった時期に、いがぐり坊主に軍服姿で舞台に立っていた。それが戦後、急にアメリカ志向に路線変更され、越路さんは水を得た魚のように『ビギン・ザ・ビギン』や『セメントミキサー』でGHQにも大受けして、さらに『ブギウギ巴里』で持ち前のバタ臭さがさく裂して、ファンを魅了した。この頃の宝塚の舞台映像や音源が残っていないのは、残念です。唯一、映画『結婚行進曲』で上原謙さんが劇場に行くシーンの劇中劇で、帝劇の舞台でやっているのが、コーちゃんの『ビギン・ザ・ビギン』なんです。その頃はすでに宝塚を退団して女優になっていて、脚を見せた衣装で妖艶でしたね。越路さんは20代でここまで大人っぽい人だったんだな、と思いました」

    岩谷時子が若くして名マネージャーと言われた理由は何なのでしょう。

    「実は越路さん本人は、宝塚にいた頃から男役にはどこかで違和感を感じていましたし、和物の女役の仕度をしたりすると、実にきれいだったそうです。そういう意味で、東宝に移籍して日本初のミュージカル『モルガンお雪』一作で“性転換”に成功したのは、本当に運がよかった。宝塚の男役からの転身では、ついていくファンの皆さんが、スターへの愛は変わらないけれど、心のどこかで男役でなくなって残念、と感じてしまう例がないわけではありません。今でも宝塚から巣立つ人たちが新たな自己プロデュースをすることは、たやすいわけではない。岩谷さんのようなブレーンは、みんな欲しいかもしれませんね。

    その後東宝での越路さんは、ちょっと足踏みする時期もあって、一つ一つの出し物はチケットも売れるけど、あれ、成長していない。演出の菊田一夫さんとも合わないことが明白になっていきます」

    東宝で伸び悩む越路吹雪さん……マネージャー岩谷時子の正念場ですね。

    「岩谷さんは宝塚でも東宝でも、立場は一社員でしたが、自社公演以外の舞台もすごい数を見ていらした。新劇、俳優座、三島由紀夫さんが関わっていたもの、ストレートプレイを主にやっていた黎明期の劇団四季など、常に演劇界にアンテナを張っていた。映画も然りです。ご自身は海外に行ったこともなくても、視野が広くて、これを日本でやる時はコーちゃんを出したいとか、時代はこうなっていっているのに、おかしいんじゃないか、とか、マネージャーとしての方向性と視野が確かでした。

    その根本は愛ですよね。その人の魅力がより生かされるように、より成長できるように、生涯見守る。今でも宝塚のファンの方って、下級生の頃から応援を始めて、どんどんその方が成長してトップになれるよう退団するまで応援して、変わらない愛情がありますよね。岩谷さんの越路さんへの愛も、根本的にはそこに通じるのあなと思います」

    マネージャーと作詞家という2足のわらじを履き続けた理由は?

    「越路さんは、放っておくだけでは、やはりあんなに歌手として花開かなかったんじゃないかと思うんです。岩谷さんの的確なサジェスチョンと人脈があってこそ、日生劇場、浅利慶太さんとの出会いや仕事につながったような気がします。菊田一夫のもとにずっといてはいけない、浅利慶太こそが今の越路を生かせる演出家だ、という嗅覚。

    同時に岩谷さんは、越路さんと出会う前から、何かで自分自身の世界を持ちたい、というのがおありになった。ずっと影の存在で終わる人ではなかった。越路さんという最愛の、すべてを捧げたい対象は絶対でしたが、それだけでは終わらない人でした。

    それがちょうど日本のポップスの幕開けと重なって、東宝の社員でいながら訳詞を頼まれるようになり、それがいいトレーニングになり、作詞家岩谷時子が誕生するきっかけになるわけです。演歌など、大人中心だった歌謡界がウエスタンカーニバルをきっかけに若者が牽引する歌謡界の流れが生まれた。越路さんとは直接かかわりがないキャリアが花開いていく。

    岩谷時子音楽文化振興財団の理事・草野浩二さんによれば「作詞ということであれば、どんなに急な仕事でも、岩谷さんは断らなかった」と。それは、歌手のレコーディング曲に限らず、CM曲とか、ドラマの挿入歌のように、その時限りで残らない「消えもん」と業界用語で言われるようなものであっても、「いいわよ」と引き受けていたそうです。まるで『夕鶴』ですよね。当時の岩谷さんの日記を見ると、身体はガタガタだし、睡眠時間は取れない、それでも明け方まで歯を食いしばって歌詞を作っているんです。周囲はといえば、こちらも売れっ子たち、たとえばいずみたくさん、中村八大さん、永六輔さん、同時代の作詞家作曲家たちは、誰もが尋常じゃない仕事の仕方で、ひと晩で十曲書いたとかもザラ。その人たちの中で紅一点の岩谷さんも、負けじとお仕事されていた。

    おそらく貧乏で親戚に頼らなければならなかった娘時代が、岩谷さんにとっては本当に屈辱的だったのだと思います。誰かに依存すれば、自由も奪われると知っていて、その強迫観念は生涯消えなかったのでは。

    そして何より、産み出した曲がヒットする喜びには、麻薬のような魅力があったのかもしれません。業界全体がすべてそのペースでさまざまな記録を塗り替えていくなかで、遅れをとるわけにはいかなかったでしょうね。沸きたって、燃えていた時代ですよね」

  3. shinichi says:

    『ラストダンスは私に 岩谷時子物語』著者インタビュー
    村岡恵理【KEY WORD 3】加山雄三と坂東玉三郎

    https://honsuki.jp/pickup/21970.html

    ともにヒットを連発した加山雄三・岩谷時子の絆は、特別ですね。

    「加山雄三さんは、当時映画俳優としても売れっ子、私生活ではヨットを操り、泉のようにメロディが湧いてくる。乗りに乗っていたから、ピアノやギターで口ずさんでいるテープが、岩谷さんのもとに、どんどん送られてくる(笑)。岩谷さんはそれに負けじと格闘する。当時の加山さんは東宝のそれこそ宝物のような存在ですから、評判を傷つけるわけにはいかない。気も使ったはずだし、全霊を傾けて仕事をしたと思います。

    それが伝わっていたからこそナベプロが途中で加山さんを今度は安井かずみさんと組ませてみようとしたときに、加山さんは「いや、今後も岩谷さんで」断わられた。当時としては珍しいことです。

    岩谷さんのほうも、人気の絶頂にいながら、どこか芸能界について醒めた視点も持っていて、芸能人を超えた自然や宇宙といった大きな視点を持っている加山さんがすごく好きだったみたいです。越路さんも加山さんもそうですが、岩谷さんは「この人が好き」と思うと、とても深いところで結びつく。するとメロディに対して、何か底から湧き上がってくるようなぴったりとした言葉が岩谷さんの中に下りてくる。

    愛せるかということが、とても大事。だから、好き嫌いは実ははっきりしていたのかもしれません」

    その意味では、越路吹雪の夫でもあった作曲家の内藤法美とは確執がありました。

    「大人同士として一緒に仕事していたしお互い認め合うところもあったでしょうけれど、2人は違いすぎました。特に、コーちゃんの愛しかたという意味では。彼女の才能を伸ばしたい岩谷さんと、彼女をひたすら心地よくさせたい内藤さんとでは、合うのは難しかったでしょう」

    越路夫妻との確執の中で、坂東玉三郎との交流は、美しいですね。

    「越路さんとは、この頃はすでに筋金入りの友情で、2人の関係が揺らぐことはないけれど、越路夫妻の経済観念のなさとか『もう疲れた、舞台なんかやめたい』とつねに不満たらたらのコーちゃんに、思わず『ろくでなし!』と言いたくなる場面もあったでしょう。そんななかで何のしがらみも感じずに、ふわりと柔らかな気持ちで応援できる若き才能あふれる玉三郎さんが慕ってくれて、岩谷さんはどれだけ慰められたことか。それでついつい、「玉三郎さんがね……」と越路さんの前でも知らず知らず口に出して怒らせてしまったりする。逆に言えば、越路さんとはそれを口に出せるような関係だったとも言えるんですが。それに、越路さんの死の絶望から立ち直るうえでも、玉三郎さんの力は大きかった。岩谷さんが愛した人たちは、誰もかれもスペシャル級のスターだけに、一度好きになると、岩谷さんはとことん寛容。恋する乙女みたいな可愛らしさがあるし、何かしてあげるのが大好き。宝塚ファンが、大好きなスターに差し入れしたくなるのと一緒で、岩谷さんはそういう一ファンに戻れるような乙女心を持ち続けた人でもありました」

    村岡さんのお好きな岩谷作品ベスト3は?

    「岩谷さんは、旅人だったと思うんです。そのせいか、旅や、さすらいを感じる曲が心に残っています。

    本の中で言いますと、岩谷時子名義で書いた初めての作品、山口淑子さん主演の映画『上海の女』の主題歌「ふるさとのない女」。

    そして、加山雄三さんのために書かれた「旅人よ」。旅人は岩谷さん自身でもあり、最愛のお父様のイメージでもあるのかな、と思います。岩谷さんの血の中にある、故郷を捨ててきた、生涯旅人だったということを象徴しているような歌だと思います。

    最後は、越路さんが亡くなられた後に書かれたものだと思いますが、本のいちばんラストでご紹介した「道」ですね。あの詩は、岩谷さんそのもの。孤独であり、孤独を愛し、歩き続けた。

    私自身、50歳で岩谷さんと向きあったことはものすごく意味があることだと思います。

    長時間労働やハラスメントも当たり前の時代に、すごいヒット曲を書きながら、片方で何年にもわたって認知症を発症されたお母様のお世話をされていた。せっかく建てたお家は、日記によれば散らかり放題だったそうですし、たくさん稼いだ印税を使う暇もなかった。辛苦の多い人生ともいえるけれど、それでも仕事をし続けて、愛する人のために精一杯生きた。時にはしたたかだったかもしれないけれど、それは愛する人を守るためだったでしょう。ひるがえって考えた時、岩谷さんの体や心を本気で心配した人がどれだけいただろうと思ってしまうんですよね……。

    今回、岩谷さんと接点のある方々にお話を伺ったなかで、皆さんが「岩谷さんはいつも穏やかで微笑んでいらした」とおっしゃるんです。微笑みの下には、色々なものが渦巻いていただろうし、もしかしたら全身で泣いていたかもしれないけれど、それでも相手に「嫌なもの」を残していないすごさ。レディであり続けた岩谷さんは、ワーキングウーマンの鏡だと思うんです。岩谷さんのようにはとても生きられないけれど、レディであり続ける努力は、していきたいと切に思います」

    最近、村岡さんご自身の『宝塚熱』も高まっているそうですね。

    「今回の本を書くにあたって、資料を読み込み手に入る限りの映画を見て、頭の中でつなぎ合わせて、それでも、お会いしたことのない、同時代の人ではない岩谷さんや主要な登場人物が自然に映像として私の中で動き始めるまでには数年かかりました。

    過去の芸能への架け橋として、じつは中学・高校時代の友人が、大きな助けになってくれました。特に、服部克久さんと岸田今日子さん、昭和の演劇界、音楽業界の巨匠2人のお嬢様たちです。お2人ともに演劇をものすごく見ていて、しかも宝塚をこよなく愛している。そんな親友たちが間近にいたので、何かにつけ、助けていただきました。彼女たちと一緒に宝塚を見に行き、宝塚の良さも再認識することが出来て、それはとても有難かったです。余談ですが、母校の東洋英和は文化祭が宝塚風なんです(笑)。音楽部、演劇部、英語劇部それぞれがお芝居をするんですが、毎年宝塚のように男役が誕生して、盛り上がるんです。今年は「レ・ミゼラブル」もあるようです。

    最近、宝塚歌劇に出かけると、「恵理!」と誰かしら元同級生に呼び止められることも増えました。更年期を迎え、日常にときめきがなくなって宝塚熱が再燃する同級生が多い(笑)。若い女の子たちが、舞台の隅々まで一生懸命やっている姿には、すごく心が浄化されますよ」

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