大前治, ウィキペディア


防空法は、1937年(昭和12年)4月5日に公布され、同年10月1日より施行された日本の法律である。戦時または事変に際し航空機の来襲(空襲)によって生じる危害を防止し、被害を軽減する事を目的として制定された。
「消防」について退去の禁止(第8条ノ3)と応急消火義務(第8条ノ5、1943年改正後は第8条ノ7)が規定された。退去の禁止を定める第8条ノ3の条文「主務大臣ハ防空上必要アルトキハ勅命ノ定ムル所ニ依リ一定ノ區域内ニ居住スル者ニ対シ期間ヲ限リ其ノ區域ヨリノ退去ヲ禁止又ハ制限スルコトヲ得」は権限付与規定であり、それ自体は直接に国民に退去禁止を命ずる規定ではない。しかし、これに基づいて1941年12月7日(真珠湾攻撃の前日)に内務大臣が発した通牒「空襲時ニ於ケル退去及事前避難ニ関スル件」は、「退去ハ一般ニ行ハシメザルコト」と定めていたので、これにより国民は全面的に退去を禁止されることとなった。

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  1. shinichi Post author

    「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした

    ~国は「原爆が落ちても大丈夫」と喧伝

    by 大前 治

    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52580

    日常に入り込む「怖くない戦争」

    日本がアメリカと戦争を始める13年前、1928年7月から政府は大規模な防空演習を各地で実施した。航空機の模擬戦闘や消火訓練など華やかな防空ショーが国民を魅了する。

    1937年3月に制定された「防空法」は、この防空訓練への参加を国民の義務とした。

    翌年11月27日、読売新聞は少年少女むけに防空訓練の特集を組み、「空襲! さぁ窓に目張りしませう」の見出しで、窓枠に新聞紙を貼ったりハンカチで鼻を押さえたりする児童の写真を掲載。

    訓練とはいえ緊迫感がなさすぎる(80年後の今も、日本政府は北朝鮮ミサイル対策の一つとして「窓の目張り」を指示している。そこにも緊迫感はない)。

    その横に、「爆弾投下を見に駆け出しては駄目」と警視庁防空課が説く心得を掲載。実際には逃げるか腰を抜かすかの二択のはずで、面白がって駆け出すはずがない。


    読売新聞1938年11月27日付


    同じ年に陸軍(東部軍司令部)が監修したポスター「落下した焼夷弾の処置」を見てほしい。屋根と天井を突き抜けてきたはずの焼夷弾が、余りにも小ぶりで弱々しい。周囲は燃えてすらいない。なるほど、空襲なんて怖くなさそうだ。


    陸軍(東部軍)監修ポスター「落下した焼夷弾の処置」(1938年)


    陸軍中佐の難波三十四は、著書『現時局下の防空』(1941年)で、1回の空襲による死傷者は東京の人口700万人のうち「1700分の1」程度だから恐れなくてよいと言い切る。だが計算すると4100人になるから決して小さい被害ではないはずだ。

    トンデモ書籍と言うなかれ。発行元は講談社(当時は大日本雄弁会講談社)である。こうした文章が当然のように幅広く読まれた時代だった。

    政府広報誌「週報」(1941年9月3日号)も、「爆弾は恐ろしいものではない」と断言し、「弾が落ちたら二度は落ちぬから、すぐに飛び出して防火にあたれ」と指示している。


    政府広報誌「週報」1941年9月3日号


    「逃げずに消火せよ」が法的義務に

    当時の国民にとって、戦争は遠い中国大陸での出来事である。テレビもネットもなく、戦地の惨状を知る者は少ない。

    日本の占領地域は拡大して祝勝ムードに湧く毎日。自分たちが空爆(空襲)の標的となる恐怖は感じない。その隙を突くように、1941年11月に防空法が改正され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定された。

    つまり「逃げるな、火を消せ」という命令だ。違反者は最大で懲役6ヵ月の処罰を受ける。日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告する1ヵ月前である。

    政府の宣伝にも緊迫感が出てくる。1941年12月19日に内務次官が発した通達「防空強化促進に関する件」は、「空襲に対し万全の備えを必要とする所以を強調し、こぞって国土防衛に参加せんとする精神の振起に資する教育の実施」を指示している。


    読売新聞1941年12月18日付(左)、同11月27日付(右)


    11月27日の読売新聞は「傍観は立派な犯罪」の見出しで、「国民の一人一人に国土防衛の重大義務が背負わされることになった(中略)国家的義務として一人の逃避者も許されない」と訓示。

    同紙12月18日付も「一億防空の義務」と掲げて「老いも若きも、働ける者はすべて防空従事者として敵弾に体当たりの意気込みで」、「日本国民の義務として米英撃滅に邁進しよう」と号令をかけた。こうして逃げる者は「非国民」とされていく。

    勇ましくて無意味な防空訓練

    国民が参加を強制された防空訓練とは、どのようなものだったか。

    戦時の物資窮乏により、消防車や高圧ポンプは整備できない。バケツ・水・砂・むしろ・火叩き・ひしゃく・鳶口が「防空七つ道具」とされた。

    1942年11月発行の「内務省推薦 防空絵とき」は、バケツ注水の腰づかいや、2階からバケツを下ろす方法を解説。2階の人は上半身を火に晒している。


    「内務省推薦 防空絵とき」(1942年11月刊・大日本防空協会)より


    さらに同書は「火叩きの作り方」を解説。短いものは1メートルでよい、あり合わせの棒に縄を取り付けたハタキ状のもので猛火に挑めという。

    発火した焼夷弾に1メートルまで近づいて、濡れた莚(むしろ)で覆う消火方法も紹介。猛烈な火炎に近づくのは自殺行為に近いが、これが政府公式の消火方法とされた。

    後に、訓練に忠実に消火しようとした人々が劫火の犠牲となった。


    前出「内務省推薦 防空絵とき」より


    被害を拡大した「床下の防空壕」

    かつて政府は、空襲から身を守るため丈夫な防空壕を建設せよと指示していた(1940年12月24日・内務省「防空壕構築指導要領」)。

    ところが、防空法改正により避難禁止と消火義務が定められると方針転換する。1941年10月1日に内務省は「国民防空訓」を発表し、家庭用の防空壕は作らないよう指示。新聞は「勝手に防空壕を掘るな」「避難、退去は一切許さぬ」と報じた。


    大阪毎日新聞 1941年10月2日付


    さらに1942年7月3日の内務省通達「防空待避施設指導要領」は、丈夫な防空壕は不要、床下を掘るだけでよい、焼夷弾が落下したらすぐ飛び出して消火せよ、名称は「待避所」とする、と明確な方針を打ち出した。退避ではなく待避、逃げ場所ではなく出動拠点なのである。

    1942年8月に内務省が発表した手引き「防空待避所の作り方」は、待避所は家の中に作った方が「自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急消火のための出動も容易である」と述べ、床下への設置を奨励。これでは頭上の猛火に向けて床下から這い上がることは不可能である。実際に多くの人が床下で命を落とした。


    「週報」1942年8月5日号・防空待避所の作り方


    政府がおこなった2つの隠蔽

    いかに「逃げるな、火を消せ」と命令されても、空襲の恐怖が広まれば逃避者が続出する。そこで政府は2つの情報隠蔽をおこなった。

    その第一は、空襲の危険性や焼夷弾の威力の隠蔽である。政府はアメリカ製焼夷弾を不時着機から押収して爆発実験を行い、威力を確認した(1943年2月14日)。

    政府広報に載った写真からは猛烈な破壊力が一目瞭然である。だが公式発表は「2分で消火できた」という。

    あっという間に家屋が全焼した事実を隠して、「旺盛な防空精神をもって、身を挺して国土を守り抜くといふ伝統の魂」によって消火できたと発表した(「週報」1943年3月24日号)。消火の技術論は皆無で、ただの精神論でしかない。


    政府広報「写真週報」1943年3月3日号・アメリカ製焼夷弾の爆発実験


    第二は、実際に起きた空襲被害の隠蔽である。国防保安法や軍機保護法により、空襲の被害状況を話すことは処罰対象となった。報道も規制された。敵国のスパイに知られるのを防止するためというのである。

    しかし敵国は自分たちが行った空襲を知っているのだから、今さら隠すのは不可解だ。政府の狙いは、敗色濃厚であることを隠して「この戦争は正しい」、「日本は神の国だから必ず勝つ」と言い続けること。そのために、スパイではなく国民が真実を知ることを恐れたのだ。

    終戦まで、空襲被害は軽微だ、敵機を多数撃墜した、という大本営発表が流された。

    「写真週報」1942年8月5日号・防諜強化運動の標語を掲示


    疎開も禁止

    地方へ移住する「疎開」も厳しく制限された。

    1944年3月3日の閣議決定「一般疎開促進要綱」は、防空目的で自宅を強制撤去(建物疎開)された者や高齢者・幼児・病人などを疎開の対象者と認め、それ以外は後回しにした。閣議決定や通達により学童以外の疎開は制限され続けた。

    新聞にも、「君は疎開該当者か 帝都の護りを忘れた転出に釘」、「疎開足止め」、「一般疎開は当分中止」という記事が掲載され、国民は空襲の危険が迫る都市に縛られた。


    左から朝日新聞1945年5月5日付、毎日新聞戦時版1944年12月13日付、読売報知1944年12月12日付


    死んでもバケツを離しませんでした

    1942年6月のミッドウェー海戦で敗退した日本軍は、ずるずると戦争の泥沼に突入する。政府発表は相変わらず「勝った、勝った」と繰り返すが、食糧難と物資窮乏にあえぐ市民には悲壮感が漂う。政府の防空指導も決死の様相を帯びてきた。

    1943年8月に内務省が頒布した小冊子「時局防空必携」は、冒頭に「私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持場を守ります」、「私達は命令に服従し、勝手な行動を慎みます」という防空必勝の誓いを掲載。全国の町内会(隣組)へ大量配布された。


    内務省発行の小冊子「時局防空必携」昭和18年改訂版


    新聞記事の様相も変わった。空襲が頻発し、「焼夷弾手掴み 初期防火の神髄」という真偽不明の武勇伝や、「手袋の威力 焼夷弾も熱くない」という防空総本部指導課長のトンデモ談話が紹介されるようになった。実際に起きた惨状を知りながらの国策宣伝であり罪深い。


    読売報知1944年7月9日付(左)、朝日新聞1944年12月1日付(右)


    1945年3月10日の東京大空襲で10万人が亡くなっても政府方針は不変だった。3月15日の新聞は「夜間暴爆 あすへの戦訓 / 初期消火と水」(読売報知)、「初期消火と延焼防止 最後まで頑張れ」(朝日新聞)と重々しい。

    さらに「死の手に離さぬバケツ 火よりも強し社長一家敢闘の跡」(読売報知1945年3月14日付)と防火活動による死を美化し、「消火を忘れた不埒(ふらち)者」(読売報知 同年4月16日付)、「防火を怠れば処分」(読売報知 同年4月28日)という恫喝めいた記事が続いた。


    1945年の記事。読売報知3月15日付(左上)、朝日新聞3月15日付(右上)、読売報知 4月28日付(左下)、同4月16日付(中下)、同3月14日付(右下)


    1945年8月6日・9日に原子爆弾が投下されても、防空法による避難禁止と消火義務は維持された。

    防空総本部が発表した原子爆弾への対策は、「軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない」、「新型爆弾もさほど怖れることはない」、さらに「破壊された建物から火を発することがあるから初期防火に注意する」という。建物が破壊される惨状でも消火活動をさせるのだ。

    原爆が落ちても「防空体制変更いらぬ」、「熱線には初期防火」と各紙が報じた後、国民は8月15日に終戦を迎えた。


    朝日新聞1945年8月14日付(左)、読売報知1945年8月10日付(左)


    防空法と情報統制の恐怖

    「逃げずに火を消せ」という防空法と、「空襲は怖くない」という情報統制。この2つが一体となって、国民を戦争に動員する体制が作られていった。

    「怖くない戦争」が日常生活に受け入れられ、気がついたときには戦争に反対することも逃げることもできなくなっていた。そんな社会を二度と作らないために、私たちが過去から学ぶべきことは多いはずだ。


    陸軍監修ポスター(昭和13年)


    私は大阪空襲訴訟の弁護団の一員として戦時中の国策の問題点を調査した。青森市では、「7月28日までに戻らない避難者は防空法で罰する」と布告され、まさに期限の日に戻ってきた市民を空襲が襲った。

    その体験者のインタビューや、200点以上の写真・ポスター・図版を著書『逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法』にまとめた。ぜひ手に取っていただき、戦争のリアルさを感じ取っていただきたい。


    逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法

    by 大前 治


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