二条院讃岐

わか袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし

3 thoughts on “二条院讃岐

  1. shinichi Post author

    二条院讃岐

    https://ja.wikipedia.org/wiki/二条院讃岐

    二条院讃岐(1141年頃 – 1217年以降)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐、中宮讃岐とも称される。

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    二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕、1159年(平治元年、19歳頃)以降度々内裏和歌会(「内の御会」)に出席し、内裏歌壇での評価を得た。この時期の歌が、俊恵『歌苑抄』に代表作として言及されている。

    この後、二十代半ばから四十代後半にかけての讃岐の動静については、大きく分けて二説あり、両説の隔たりは大きい。

    • 先行研究説(『尊卑分脈』の系図注記に基づく説):二条院に最後まで仕え、崩御後に藤原重頼と結婚、重光・有頼らの母となった。1190年(建久元年)頃、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子に再出仕。
    • 新(伊佐迪子)説(主に『玉葉』等の記録に基づく説):1163年(長寛元年)頃内裏女房を退き、1165年(永萬元年)頃から皇嘉門院に出仕。この間、歌林苑での活動を継続。1174年(承安4年)より九条兼実家女房。兼実の同居妻となる。1187年(文治2年)より同家「北政所」と称する。1190年同家の姫君任子が後鳥羽天皇の中宮として入内、讃岐は中宮女房としてではなく、引続き九条家を切盛りしている。

    1172年(承安2年、32歳頃)に『歌仙落書』で高く評価される等、歌壇とのつながりは保っていたようだが、1200年(正治2年、60歳頃)の初度百首で数十年ぶりに歌壇への本格復帰を果たした。この頃には既に出家している。晩年には父頼政の所領であった若狭国宮川保の地頭職を継いでいる他、伊勢国の所領をめぐる訴訟で高齢を押して鎌倉出訴の旅に出る等の事跡もある。これらを縫って歌人としての活動は継続し、1216年(建保4年、76歳頃)の『内裏歌合』まで健在だったことが確認できる。『千載和歌集』以降の勅撰集、『続詞花集』・『今撰集』等の私撰集、家集『二条院讃岐集』等に作品を残している。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    私の衣の袖は、潮が引いた時にさえ海の中に沈んでいて見えない沖の石のように、せつない恋の涙でずっと濡れていて、人は知らないだろうが、乾く暇もない。

    どの解説にもそんな現代語訳がついていて、ご丁寧なことに「人は知らない密かな恋心を語る心情には心打たれるものがある」などという説明が加えられている。

    私は一滴だって流した涙を忘れないし、待たされれば待たされるほど、つれなくされればつれなくされるほど、この苦しみは強くなっていく

    なんていう解釈もある。

    ほんとうにそうだろうか? 二条院讃岐という人の人生を考える時、恋とか、それに伴う悲しみとかを歌ったものとは、どうしても思えない。人生とか、それに伴う理不尽とか、そんなものを歌ったようにしか思えないのだ。

    二条院讃岐の人生は、誰にも想像できないくらい、つらいものだったに違いない。恋の苦しみなんて、親の失脚、庇護者の死亡などによるつらさに比べたら、なんでもなかったのではないか。

    二条院讃岐が生活の安定を恋で得ようとするような女性だったのならともかく、私には彼女がもっと違った生き方をした女性にしか見えてこない。

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  3. shinichi Post author

    袖を濡らす涙

    小倉百人一首あ・ら・かるた

    https://www.rakuten.ne.jp/gold/ogurasansou/karuta/249.html

    今回は涙の和歌の話題です。

    ■袖を濡らす涙

    百人一首で涙を詠んでいるのは二人の僧侶歌人、
    道因(どういん 八十二)と西行(さいぎょう 八十六)です。

    実際はほかにも五人が涙を詠んでいるのですが、
    涙という文字は使わず「袖」で涙を表現しています。

    音に聞く高師の浜のあだなみは かけじや袖のぬれもこそすれ
    (七十二 祐子内親王家紀伊)

    あの有名な高師の浜のあだ波のような
    浮気なあなたにかかわりたくないわ
    袖が濡れてしまいますから

    祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)は
    涙で袖が濡れると詠んでいます。
    「袖を濡らす」は泣くこと、涙を流すことを示します。

    恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそをしけれ
    (六十五 相模)

    つれない人を恨む涙に袖が濡れて乾くひまもないのに
    そのうえ恋のうわさでわたしの名が朽ちていくのが惜しいのです

    相模(さがみ)は濡れた袖が乾かないといいます。
    では乾かない袖は、どうすればよいのでしょう。

    契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは
    (四十二 清原元輔)

    誓いましたよね 涙に濡れた袖を絞りながら
    末の松山を波が越すことがないように
    ふたりの思いも変わることはないと

    元輔(もとすけ)は袖をしぼっています。
    この歌にも涙という言葉はありませんが、
    袖は涙と結びつく言葉(=縁語)なので、
    書かなくともよいのです。

    ■袖はついに海になる

    袖をしぼるほどの涙…と言われても
    想像がつかないかもしれませんが、
    和歌にはそれ以上の表現が出てきます。

    きみ恋ふる涙のかゝる袖の浦は いはほなりともくちぞしぬべき
    (拾遺和歌集 恋 よみ人知らず)

    あなたを思う涙で濡れているわたしの袖は浦(=海辺)となり
    波がかかって岩でさえも朽ちてしまうでしょう

    袖の浦は出羽(=山形)にある歌枕の地。
    涙で袖が浦になったと言うためにこれを持ち出し、
    打ち寄せる波に浸蝕されて岩も削られていくというのです。
    岩はやせ細っていく自分自身のことなのでしょうか。

    さらに一歩進んだ(?)のが
    室町時代の歌僧、正徹(しょうてつ)です。

    逢ふことは波をたゝへて年ふれど あする世もなき袖の海かな
    (草根集 恋 正徹)

    会うことがないまま涙に満ちて年を経て
    もはや浅くなることもないほど 袖は海になっていることだ

    「あす」は「浅くなる」「涸れる」「褪せる」の意。
    「波」は「無み」、つまり「無いので」との掛詞です。
    また「波」「たゝふ」「あす」「海」はそれぞれ縁語でつながり、
    ずいぶん複雑な構造です。

    それにしても、袖はとうとう海になってしまいました。
    どれほど涙を溜めたというのでしょう。
    時代を経るにしたがって
    スケールが大きくなっているのもおもしろいですね。

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