山本幡男

古里遠く 異國に
君若くして みまかりぬ
夢に忘れぬ たらちねの
姿を永遠に 慕ひつつ

寒風狂ふ 北の涯
君若くして 世を去りぬ
暗き戰の 犠牲に
集ひてこゝに 弔はん
 

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4 Responses to 山本幡男

  1. shinichi says:

    1947年。スペルドロフスク収容所。
    清水修造さんの追悼式で山本幡男が絶唱した七五調追悼歌二首。
    清水さんは、酔ったソ連人の運転するトラックから崖に転落して亡くなった。

  2. shinichi says:

    地に書いてうなづき合ふや日向ぼこ

  3. shinichi says:

    山本幡男

    https://ja.wikipedia.org/wiki/山本幡男

    山本幡男(1908年〈明治41年〉- 1954年〈昭和29年〉)は、第二次世界大戦終結後に旧ソビエト連邦によるシベリア抑留を経験した日本人の1人。日本への帰国が絶望的な状況下において、強制収容所(ラーゲリ)内の日本人俘虜たちに日本の文化と帰国への希望を広め、一同の精神的支柱になり続けた。自身は帰国の夢が叶わず収容所内で病死したが、死の間際に家族宛ての遺書を遺しており、同志たちがその文面を暗記することで日本の遺族へ届けたことでも知られる。島根県隠岐郡西ノ島町出身。

    シベリア抑留までの経緯

    旧制東京外国語学校(後の東京外国語大学)でロシア語を学んだが、在学中に社会主義に没頭して左翼運動に参加していたことから、1928年(昭和3年)の三・一五事件の際に逮捕されて退学処分となった。そのまま復学もしていないため、卒業はしていない。

    1936年(昭和11年)に満州にわたり、南満州鉄道内の調査機関である大連市の満鉄調査部に入社。ロシア語の語学をはじめとする実力を発揮し、『北東アジアの諸民族』(中央公論社)など、ソ連の社会、経済、軍事などに関する書を執筆して高い評価を受けた。第二次大戦末期の1944年(昭和19年)に召集令状により二等兵として入営。ロシア語に長けることから、1945年(昭和20年)にハルビン特務機関に配属された。

    第二次大戦での日本の降伏後にソ連に抑留され、スヴェルドロフスク収容所へ入れられた。満鉄調査部での北方調査やハルビン特務機関で、山本はソ連の新聞や雑誌の翻訳を行なっていたが、これらの活動がソ連に対するスパイ罪と見なされ、戦犯としてソ連の国内法により重労働25年の刑を下された。山本は軍人としては一兵卒であったが、この刑期は軍の司令官や大将にも匹敵する。これほどの重い刑となったのは、ソ連のスパイとなることを強要された山本が、それを断ったためとの説もある。以後、冬には零下数十度となる厳しい気候、粗末な食事をはじめとする劣悪な環境なもと、長年にわたって重労働を強いられることとなった。

    収容所での文化活動

    1946年(昭和21年)末、収容所内の俘虜たち数人に呼びかけ、日本文化についての勉強会(後に学習会、同志会と改名)を始めた。折しも収容所内では帰国をあきらめる俘虜たちが現れ始めており、帰国への希望を呼び戻すことが目的であった。ここで山本は『万葉集』や仏教を題材とする知識の豊かさで一同を驚かせ、わかりやすい話術で一同を楽しませた。

    その後も山本はソ連国内の監獄や収容所をたらい回しにされた末、1949年(昭和24年)にハバロフスク市内の強制労働収容所へ移された。ここで山本はそれまでの経歴から「前職者」(民主主義反対派)と見なされ、強烈な吊るし上げに遭った。翌1950年(昭和25年)に俘虜たちの帰国が始まったが、山本を含め戦犯とされた者たちは帰国を許されなかった。このことは彼らの帰国への希望を失わせるのに十分であり、山本も一度は絶望しかけていた。しかし彼は自らを支えて希望を抱き続けようと誓い、日本や日本語を忘れないよう、以前から好んでいた短歌や俳句を詠うようになった。

    やがて山本は、それらの俳句や随筆をまとめた同人の文芸誌『文芸』を製作し、仲間内で密かに回覧を始めた。作業用のセメント袋を切って鉛筆で書いて綴じた粗末なものであったが、日本を詠った俳句、無念のうちに収容所で死んでいった仲間たちへの想い、辛い日常の中で見つけたささやかな感動、過酷な環境下でも保ち続けている山本の人間性と感受性が皆の心を打った。『文芸』は人から人へと回覧され、次第に皆に帰国への希望を呼び起こした。俘虜たちが日本語に飢えていたことあり、やがて回覧から戻って来る頃には手垢で汚れて紙面がボロボロになっているほどだった。後に俳句を好む者たちと共に句会の開催を始めた(後述)。

    収容所側が俘虜たちの操縦の手段として文化部の設置を決定すると、山本はその部長に任命され、壁新聞作りに精力的に取り組んで国際情勢を皆に伝えた。後に収容所の文化部部長に任命された際は、俘虜たちに与えられた娯楽として月に1,2度開催された映画鑑賞会で同時通訳を務め、巧みな話術で皆からの笑い声を呼んだ。山本に触発された仲間の1人が同人誌を始めると、山本は装幀作業、挿絵や詩、小説の寄稿などで協力した。

    1951年(昭和26年)以降に演劇好きの俘虜たちが劇団を旗揚げすると、山本は脚本担当の1人となり、ソ連側を刺激しないような脚色で、それでいて独特のユニークな脚本で観客の喝采を浴びた。上演に際してソ連側が脚本の検閲を行う際には、ロシア語の弁舌を振るって上演の承諾を得た。また同様に収容所の娯楽として好まれた草野球では、学生時代の野球部のスコア係の経験をいかしてアナウンサー役を引き受け、当意即妙なアナウンスで皆を沸かせ、試合の盛り上げに一役買った。

    アムール句会

    ハバロフスク強制労働収容所の第21分所へ移された後の1950年、山本は俘虜数人で集まって俳句を作り合うようになった。後にこの集まりは句会として、作業場から見えるアムール川にちなんで「アムール句会」と名付けられた。

    当初は収容所内の片隅で雑談を装って催し、地面に棒で、または凍土に釘で字を刻むのみであった。やがて人数が増えるにつれて、作業用のセメント袋を切って短冊を作り、ウマの尾の毛やロープをほぐしたもので筆を作り、ストーブの灰や煤煙を水に溶かして墨汁の代用とし、といった具合に体裁が整えられた。

    俳句のみならず、山本は日本の古典、落語、さらにはカントやヘーゲルといったドイツの哲学者について語るなどの博識さで、一同を楽しませた。前述の演劇などもしばしば俳句の題材となった。文化部の設置後は、アムール句会は文化部の一環となり、俳句は食堂の壁に貼り出され、山本が添えた赴きのある寸評もあいまって、俳句とは縁のない俘虜たちにも好評を得た。

    収容所内では戦後数年を経ても日本軍の上下関係が幅をきかせていたが、山本はこれを最も嫌い、アムール句会では皆の呼び名を俳号で通した。このためにアムール句会は階級も肩書きも関係ない穏やかな集いとなり、日本軍の元上官から下級兵、民間人にいたるまで様々な人々が集まった。

    俘虜たちは、アムール句会では重労働の辛さを忘れることができ、普段の収容所の厳しい雰囲気が嘘のような別世界であった。その上、苦境の中でも自然を愛する余裕すら生まれ、労働中も次の句会で発表する俳句を考える楽しみが生まれるなど、一同は次第に句会の楽しさにのめり込んだ。帰国への希望を失いそうになる俘虜を山本は常に励まし、これにより自殺を思い留まる者もいた。

    1952年(昭和27年)には俘虜たちの何人かが脱走を試みたことで、収容所の監視体制が強化され、様々な文化活動や同好会も禁止された上、アムール句会も解散を命じられたが、それでも一同は収容所内の片隅に集まり、密かに句会を催し続けた。開催数は200回以上にのぼり、最終的には収容者最後の帰国の船内まで開催され続けた。

    病魔〜最期

    1953年(昭和28年)5月、山本は喉の痛みを訴え、収容所内の病院に入院。もともと体が丈夫でなかったことに加え、収容所の悪環境や栄養失調が祟り、病状は悪化の一途を辿った。翌1954年2月に設備の整ったハバロフスク市内の中央病院へ転院するが、喉頭癌性肉腫、それも末期のがんで手遅れと診断され、翌日には収容所へ戻された。

    同1954年7月、病状がすでに絶望的となった頃に仲間たちに勧められ、日本の母、妻子に宛てて遺書を書き残した。翌月の8月25日、収容所内の病室で死去。没年齢45歳。仲間たちは作業中の時間帯だったため、誰にも看取られることのない孤独な最期であった。

    遺書

    山本を慕う仲間たちは、帰国への希望を与えてくれた彼への恩返しとして、彼の遺書を日本の遺族のもとへ届けることを熱望した。しかし収容所では、日本語を書き残すことはスパイ容疑と見なされており、ほぼ不可能であった。帰国時に隠し持っていても、所持品検査で発見されれば収容所へ逆戻りとなり、帰国の希望は完全に断たれてしまう。事実、帰国の機会を得たにもかかわらず、隠し持っていた日本語の書物を没収されて、収容所に逆戻りした者や、重労働25年の刑を受けた者もいた。山本自身もそれを理解していたと見えて、全文を暗記して日本の家族のもとに伝えるよう、仲間たち宛てに遺書に書き添えられていた。

    告別式の後、アムール句会の出席者を始めとして、山本と親しい者、信頼のおける者、体力のある者、記憶力に長ける者が分担して遺書を暗記することになった。一同はそれぞれ、遺書の一部を紙片に書き写して隠し持ち、作業中に監視の目を盗みつつその文面を暗唱して頭に叩きこむ方法をとった。作業後も貴重な睡眠時間を削って暗記に費やし、その記憶を遺書の写しと照合しながら、山本からの依頼通り、一字一句洩らさない完璧な暗記を目指した。帰国は何年先、何十年先になるかもわからない、気の遠くなる作業であった。

    1955年(昭和30年)には、俘虜たちが初めて団結して収容所側に対抗する「ハバロフスク事件」が勃発。俘虜たちはハンガー・ストライキを決行したが、空腹で頭の動きが虚ろになる中でも、山本の遺書の暗記担当者たちは遺書の内容を復唱していた。同年に日本宛てに山本の死を報せる電報が送られ、日本に残された妻である山本モジミのもとに届けられた。

    翌1956年(昭和31年)4月頃には、ハバロフスク事件を経て収容所内の環境がかなり改善されたが、同事件の影響で俘虜たちは明らかに衰弱し、記憶力も低下。日本語を言い間違えることも多くなった。極寒の環境下での重労働と栄養失調も記憶力の低下に拍車をかけ、故郷や家族の名を忘れる者も続出。さらに遺書の暗記担当者の何人かは、隠し持っていた遺書の写しが発見されて没収され、暗記内容の照合も不可能となったが、それでもなお彼らは自らの記憶力と戦い続けていた。日本では戦後の復興が進み、すでに「もはや戦後ではない」が流行語となった時代であった。

    そして山本の死から2年以上後、終戦から11年目にあたる同年12月に日ソ共同宣言が発効され、シベリア抑留者の最後の帰国が実現した。日本を目指す引き揚げ船の興安丸の船内で、7年以上続いたアムール句会の最後の句会が開かれた。

    翌1957年(昭和32年)1月、遺書の暗記担当者の1人が、当時埼玉県在住であった山本モジミのもとを訪ね、暗記をもとに代筆により再現した遺書の一部を届けた。これによりモジミは、遺書にまつわる一連の経緯を知ることになった。これを皮切りに同年のうちに計6人が、ある者は直接モジミのもとを訪ね、ある者は郵送や小包で、復元した遺書を届けた。山本が収容所で作った俳句や詩も、合せて彼らによりモジミに届けられた。

    1961年(昭和36年)、戦後初のシベリア墓参に、モジミは代表者の1人として山本の遺書を携えて参加。初めての夫の墓参りで、仲間たちに託された遺書が無事に自分のもとに届いていることを報告した。そして山本の死から30年以上経った1987年(昭和62年)夏、最後の遺書がモジミのもとに郵送された。奇しくも山本の三十三回忌の盆に当たる日であった。

    暗記以外でも届けられた遺書

    山本の遺書は暗記で日本へ届けられたというエピソードがしばしば紹介されるが、実際には暗記以外の手段も用いられている。一例として暗記担当者のうちの何人かは帰国時、遺書の写しを衣服に隠して身に付けたり、遺書の写しを丸めたものに糸を巻きつけて糸巻に偽装して所持品検査をやり過ごすなどして、収容所へ逆戻りになることを覚悟で日本へ持ち帰ることに成功している。

    また、1955年に社会党訪ソ団7名がハバロフスクの収容所を訪れた際、俘虜の1人が山本の遺書の写しを、訪ソ団員の1人である当時の衆議院議員・戸叶里子に託しており、戸叶は帰国の翌日に山本モジミにこれを届けた。暗記担当者の中に戸叶に接した者はおらず、山本は遺書を確実に日本へ届けるためにあらゆる手段をとったと見られている。この事実は、山本を綴ったことで知られる後述の書籍『収容所から来た遺書』では伏せられているために知名度が低いものの、その原典である『ラーゲリからの遺書配達人』(『文藝春秋』掲載)には述べられており、山本の次男である山本厚生の著書『ひと裁ち折りと山本厚生の世界』、後述するテレビ番組『奇跡体験!アンビリバボー』でも触れられている。また当時の『朝日新聞』『毎日新聞』でも報道されており、暗記担当者の1人は帰国直後、先に帰国したシベリア抑留の同志から、すでに遺書が日本へ届いていることを聞かされたという。それでも収容所での苦境の中、遺書を暗記することが彼らの生きる支えとなっていたことは確かである。

    日本の復興後

    1986年(昭和61年)に角川書店と読売新聞社が共同で「昭和の遺書」を募集した際、山本モジミが夫からの遺書を投稿。同企画の編集を務めたノンフィクション作家の辺見じゅんがこれに目に留めたことをきっかけに、翌1987年、山本らの収容所での生活と遺書の経緯を綴った中編作品『ラーゲリからの遺書配達人』を雑誌『文藝春秋』で発表。これが約2年を経て書籍化され、1989年(平成元年)に『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』として刊行。同年の講談社ノンフィクション賞を受賞し、翌1990年(平成2年)には大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。2019年(令和元年)5月には、フランス文学者の宮下志朗が「平成時代の本のベスト5」の1つとして本書を選んでいる。

  4. shinichi says:

    (sk)

    苛酷な状況のなかで、純粋になり、高潔になっていった人たちは、確かに運が悪かった。けれども、その不運さゆえに、不幸さゆえに、純粋さと高潔さは際立つ。その人たちがたどり着いた高みは、誰にもたどり着けないところだったと思う。

    中央官庁の高い地位に上り詰め、嘘をついたり、ごまかしたりしながら生きている人たちは、運がよく、幸せではあっても、不純で汚さばかりが際立つ。その人たちがたどり着いたところは、見かけだけのさもしいばかりの場所なのではないだろうか。

    苛酷な状況でも汚く立ち回った人たちもいて、それは汚い人生を生きた。

    中央官庁にも純粋で高潔な人たちがいることを信じたいが、たぶん一人もいない。

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