りんごを食べないで

りんごを食べないで
もし今のままでいたいなら
もしも変わるのがいやならば

マッチをする
炎が灯る
一瞬のしあわせが訪れる
炎が消える
ふーっ
一瞬のしあわせは永遠で
マッチをすってよかったのだと
生きていた頃を振り返りながら
自分に言い聞かせる

箱を開く
煙がでる
一瞬のうちに年老いる
息が絶える
はー
乙姫との思い出は永遠となり
箱を開けてよかったのだと
竜宮城にいた頃を振り返りながら
自分に言い聞かせる

りんごを食べる
死んでしまう
王子がキスをする
愛が訪れる
うーん
純粋な愛は永遠に続くことになり
愛に出会えてよかったのだとと
継母のことを思い出しながら
自分に言い聞かせる

マッチを
マッチをすらないで
もし生きていたいなら

箱を開けないで
もし夢を見続けたいなら

りんごを食べないで
もしも少女でいたければ
もしも大人がいやならば

許して下さい
マッチを
マッチをすらないで

お願いですから
箱を
箱を開けないでください

りんごを
りんごを食べないで
そのりんごを食べないで

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3 Responses to りんごを食べないで

  1. shinichi says:

    (sk)

    第63作
    Don’t Eat the Apple

  2. shinichi says:

    (sk)

    「マッチをすらないで」のマッチ売りの少女。
    「箱を開けないで」の浦島太郎。
    りんごを食べないで」の白雪姫。
    そこには「共通するなにか」がある。

    封印を解くとか、
    約束を破るとか、
    そのままではいられない感じがたまらない。

    こういう物語が日本人の気質に合うのはなぜなのか。

    もうだいぶ前に、
    生粋のアフリカ人たちが演じる『ゴドーを待ちながら』を観たときに気づいたのだが、
    「演ずる人たち」と「観る人たち」が違えば、
    同じ劇でもまったく違うものになっしまう。

    場所が違い、時間が違えば、
    通じるものも通じなくなってしまう。
    プチブルという単語は
    今の人たちには何の意味も持たないだろうし、
    労働者階級といってもたぶんピンと来ない。
    日本人という括りでは括れないし、
    世代という括りもあまり有効ではない。

    みんながバラバラになって個人の時代が来て、
    みんなで同じテレビ番組を視たり、
    友達と同じ音楽を聴いたりするなんていうことがなくなってみて、
    憲法を改正するだとかしないとか、
    政党支持率が高いとか低いとか、
    そういうひとつひとつが意味をなくしてしまった。

    そんな新しい世の中で、
    データベースがブロックチェインにとって代わられ、
    プライバシーを守るなどということが念仏のようになり、
    セキュリティーは破られるほうが悪いとか、
    なにを失っても個人の責任だとか、
    強者の論理が弱者の論理を抑えてしまっている。
    いやな世の中だ。

    自分のかりそめの姿を垣間見たり、
    自らの実像が揺らぐのを感じたりするのは、
    感性が鋭いから。

    感性が鋭いのは、幸せなことなのか不幸せなことなのか。
    感性が豊かなほうが感性が鋭いより暮らしやすいのではないか。

    これからの脆い時代を乗り切るには感性が必要なのだと思うけど。。。

  3. shinichi says:

     別役実『マッチ売りの少女』

    http://www.misawa-ac.jp/drama/works/w_08.html


     別役実の世間の評価は、「サミュエル・ベケットの影響を受け、日本の不条理演劇を確立した」ということになるが、わたしにはどこが不条理なのかさっぱりわからない。別役の芝居はいたって条理にかなったものであるからである。
     別役は劇作家であると同時に優れた劇評家でもあるが、かれの劇評も理路整然としていて実にわかりやすい。  
     さて、近代劇はイプセンの芝居のように三方を壁に閉ざされた、いわゆる閉鎖的な空間だったが、ベケットによって、一本の木だけを舞台上に出現させることによって、劇的空間は解放されたといえる。別役もこのベケットの手法を踏襲し、舞台には必ずと言っていいほど一本の電信柱、あるいはそれに相当するような柱のようなものが立っているのが特徴である。
     
     また、別役の芝居は、登場人物は、「男1」「男2」など、固有の名前を持たず、折り目正しい標準語を繰り返し使う、幻想的で独創的な作風が特徴である。ここでは別役の初期を代表する、戦後演劇の金字塔ともいうべき『マッチ売りの少女』を取り上げる。

     大晦日の晩、子供を幼くして亡くした初老の夫婦が、「夜のお茶」の準備をしている。そこへ市役所から来たという見知らぬ女が訪れ、夫婦の実の娘だと告げる。そして、自分はかつて「マッチ売りの少女」であったと告白する。
     
     女が言う「マッチ売りの少女」とは、童話の物質的な貧しさゆえの不幸ではなく、戦後の焼跡で、マッチを売って、炎が燃えているつかの間、スカートの中を見せていた恥辱体験である、心の貧しさを指している。女はこの不幸な時代の記憶に取り憑かれている。  
     女は、善良で無害な市民の象徴である、この平和なひそやかな家庭に入り込み、理不尽にも過去の責任を執拗に追及する。  
     女、初老の老夫婦、女の影のごとき存在の弟、この四人の奇妙に詩的でおかしみに満ちた台詞の応酬のなかに、戦後の混乱した社会の記憶、屈辱的な過去への想い、そしてしたたかに生きる人間の傲慢さが、作者の醒めた目で暴かれてゆく。
     
     これがこの劇のモチーフで、圧巻は終幕部で女がビスケットを盗み食いした弟に暴力をふるい、責め立てつづけ、弟の頭を床にゴツンゴツンと打ちつけるところ。妻は耐え切れなくなって、

     やめてちょうだい。いいんです。本当にいいんです。可哀そうじゃありませんか。
     放っといて下さい。 (ますます乱暴に) お前の食べたビスケットは誰の分だったのです。お前のために今夜誰が飢えなくてはいけないのです。
     あるんですよ。いっぱいあるのです。きっと食べきれないくらい・・・・・・。
     誰の分だったんです。誰が飢えなくてはいけないんです。云いなさい。
     やめなさい。今すぐ持ってきてあげます。あんなもの、いっぱいあるんです。(とめようとして女の手をつかむ)
     はなして下さい。
     (怒って) やめるんだ。一体何のためだ。何をするんだ。  

     男のこの恫喝に、女は一転して卑屈になり、男と妻にむかって懸命に赦しを請いはじめる。

     ・・・・・・お願いです。あやまらせます。すぐあやまらせます。許してやって下さい。悪気はなかったのです。弟は、すぐあやまります。いつもはもっと素直で聞きわけの良い子なんです。
     (やや戸惑って) いいんだよ、私共はちっともかまわないんだから・・・・・・。
     あやまらせます。私の気がすみません。どうか、許してやって下さい。この子だって、もう心の中では後悔しているのです。あやまっているのです。泣いています。口に出せないだけなのです。

     あなた。
     許して下さい、お母様。私がいけなかったのです。私が悪いのです。私が、あんな卑しいことをした女だから・・・・・・。
     違うのよ、もういいの。
     いいえ、そうなんです。弟を悪く云わないで下さい。後悔はしているのです。私からもお願いします。弟は根はやさしい礼儀正しい人間なのです。普段はとても我慢強いのです。どうぞ、許してやって下さい。すぐあやまらせます。おなかがすいていたのです。ただそれだけです。それを責めるわけにはいきません。それをせめないで下さい。あやまらせます。私からもお詫びします。
     (やさしく近付き、抱きおこそうと) いいんですよ。さあもうやめましょう。よくわかりました。
     (手をとっさに振りのけ) 許して下さい、触らないで。どうか許して下さい。私が悪いのです。許して下さい。(云いながら床を逃げる)
     どうしました、あなた。(と、更に手を伸ばして・・・・・・)
     許して下さい、お母様。私はいけないことをしました。許して下さい。どうか許してやって下さい。(妻の方へ逃げる)
     どうしたの?
     どうしたんだい一体・・・・・・?
    女 許して、お父様。 (再び男から逃れ) 許して、お父様。許して下さい。マッチを、マッチをすらないで・・・・・・。(床に突伏して動かなくなる)  

     この箇所を読めば別役がいかに人間の条理を知悉した劇作家であることがわかる。「マッチ売りの少女」の深い闇と狂気が交錯する名場面である。

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