本当の嘘

その写真を撮った時には
確かに誰かがそこにいて
みんなのなかで笑っていた
ところが残された写真からは
その人が切り取られていて
それが誰だったのかも
そこがどこだったのかも
まったく思い出すことができない
確かなのはそこに誰かがいて
笑っていたということ
記憶では誰かと一緒で
写真のなかにはその人がいない
そう
僕が覚えていることと写真とが違う

行ったことのない街を
僕がひとりで歩いている
実際としか思えない映像には
日付と時刻がしるされていて
一昨日の午後1時すぎに
花屋を覗いている僕がいる
そんな街には行っていないと
言っても誰も信じない
そこにいるのは間違いなく僕で
一昨日に履いていた靴を履き
一昨日に着ていた服を着ている
映像のなかに映っている街を
僕はほんとうに知らない
そう
僕がしていないことが映像になっている

写真も映像も事実とは違う
いくらでも編集できることを
忘れてはならない
写真も映像もからだに直接訴える
だから事実でないことも
事実と思われてしまう
信頼性があるとされ
記憶や証言よりも
重要だとされる

人に刷り込みたいメッセージを
見えない1コマの画像にしたり
聞こえない小さな音にして
映像のなかに混ぜ込んで
人に影響を与えることを
サブリミナル効果といって
使ってはいけないとされてきた
でも映像は編集され
サブリミナルよりもっと直接的に
人を騙すよりもっと悪辣に
私たちに影響を与える

普通では絶対に気づかれない編集で
何が本当で何が嘘なのかわからなくなった映像が
私たちのまわりに溢れている
ある時はドキュメンタリーという本当として嘘が
ある時はゲームという嘘として本当が
私たちを惑わせる
何も信じることができないなかで
君にとっての本当と 僕にとっての本当が混じって
嘘の本当になり
君にとっての嘘と 僕にとっての嘘とが混じって
本当の嘘になる
そして
僕は君だけを信じる

それでいい

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