井上達夫

新しい千年紀の到来をことほぐ気分に私はなれない。はなばなしく未来を語る書物は山とあるのに、わざわざこんな陰気な本の扉を開いたあなたも、パレードに背を向けて佇立する人なのだろう。祝祭の多幸感(ユーフォリア)に酔えないのはなぜか。西暦の偶発的な節目にすぎぬものに、時代の大転換を見る欧米中心主義的歴史認識の軽薄さから距離をとりたいという気持ちも一因ではある。しかし、それだけではない。輝かしい未来を語るには、私たちの現実はあまりに貧困ではないか。そんな思いが私を捕らえている。

6 thoughts on “井上達夫

  1. shinichi Post author

    関係の貧困象徴 (e.g., 象徴天皇制)

    生活水準の高さは、飽くまで量の 豊かさである。この量の豊かさで実現できる生活の質の貧しさ、ゆとりのなさに、いま や多くの人々が、疑問や苛立ちをもっている。
    ところが、その質的な豊かさは、同質的な豊さで ある。のっぺりとしたステロタイプの豊さである。甘くておいしいが、どこを切っても同じ顔が出 てくる金太郎飴の豊かさである。何か大切なものが、ここには欠けている。
    何が足りないのか。質の豊かさは あっても、異質なものが競合し共生する関係の豊かさが、そこにはないのである。

    共同性の貧困 (e.g., 会社主義)

    個人権の基礎には個の尊厳の感覚があるが、自己自身の存在に尊厳を見出せない者は他者の尊厳を感じることもできない。また自分という一個の人間をかけがえのない存在として尊重することを知っている者こそが、他者をかけがえのない存在として尊重できるのである。会社に全身全霊をもって献身する企業戦士ほど他者にも同様な犠牲を課すことを当然とみなし、かかる犠牲を拒否する同僚を「我がまま」、「甘い」、「負け犬」等々と糾弾して恥じない。自分の個人権を放棄する者は他者の個人権も無視し、人間が他の人間をいたわるという本来の共同性を忘却してしまう。自己の個人権の集団的圧迫に抵抗することは、他者を人格として尊重するという基本的な共同性を保持するための責務ですらある。

    合意の貧困 (e.g., 戦後民主主義のコンセンサス原理)

    インターネットなど情報通信技術の飛躍的進歩は、人々のコミュニケーションの輪を開放し拡大する強力な手段を提供している。しかし、それはあくまで道具に過ぎず、使い方によっては、特定の趣味、価値観、信仰、ライフスタイル等を共有する人々が自分たちの内部でだけ濃密に交流することにより特異で独善的な世界解釈に自閉し、自分たちとは異なる他者への関心・配慮を失い、他者からの批判に耳をふさぐという、仕切られたコミュニケーションを促進する危険もある。

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  2. shinichi Post author

    リベラリズムの基本理念は、異質で多様な自律的人格の共生である。それは個人の自由を尊重す るが、自由な個人の関係の対等化と自由の社会的条件の公平な保障を要請する平等の理念をも重視 し、自由と平等を基底にすえた共生理念によって統合する。「自由主義」という通例の訳語を私が使 わない理由はここにある。リベラリズムは政治権力の存在理由を、このような共生の確保に求め、 まさに、そのことによって、この共生の確保のために政治権力を制約する必要をも強調する。リベ ラリズムは 。。。 多数者が獲得する民主的権力の専制化に対する制度的抑制にも、重大な関心を もつ。

    「リベラリズム」という言葉に私がこだわるのは、寛容論の伝統に立脚して独断的合理主義の倨傲という啓蒙の負の遺産 を正すことにより、批判的自己変革という啓蒙の正の遺産を再生させることが、日本を含む現代世 界の荒涼たる精神の凍土に鍬を打ち入れるために必要だと考えたからである。

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  3. shinichi Post author

    天皇が象徴する「日本的なるもの」によって結ばれた同質社会の心地よさに安住する方を選んで いるのは、私たち民衆自身ではないのか。「彼ら」の責任以前に、「私た ち」自身の責任を問うべきではないのか。

    市民社会は民主主義を、市民社会の共生理念の制約に 服することを条件に選ぶが、民主主義は市民社会をいつも選ぶとは限らない。市民社会を選ばない 民主主義を民主主義でないと言ってしまうとき、知的にも実践的にも失うものはきわめて大きい。

    戦後日本の民主主義は市民社会の理念の貫徹よりも、天皇を選んだ。私たちはこの 事実を直視しなければならない。

    (大阪の日本村と呼ばれ る菅原町では)祝日のたびに、家々の玄関先に、日の丸の旗が一斉にひるがえる。この町では自治会活動が活発で、自治会長は日の丸の掲揚を強制したことはない。参 加民主主義の実現の場として、地域の問題を住民主導で解決する新たなコミュニティの発展をめざ す人々の多くは、この日本村を前近代的共同体秩序の残滓とみなし、自分たちがめざす現代的 な、新しいコミュニティから区別するだろう。しかし、伝統的な隣保的互助組織だという理 由で、菅原町の自治を、参加民主主義とは無縁として一蹴できるだろうか。

    民主勢力を自任する人々は、元号法制化は 戦後日本の民主化に対する反動以外の何物でもないと考えただろう。しかし、法制化の推進力と なったのは、自民党の消極的姿勢に業を煮やした神社勢力その他の親天皇勢力によって組織された、 下からの大衆運動である。つまり、草の根の保守運動であり、地方議会を次々に制して中央に 圧力をかけるという方法で、求める立法を実現させたこの運動については、国民的基盤の広汎性と 下からの力の能動性・主導性という点で、その民主的性格についての正当に評価されるべきである。
    民主勢力を自任する人々が、下からの大衆運動をバネとする民主的政治過程が生んだ立法を、そ の内容が自己の政治的選好に反するという理由で反民主的とみなすなら、論理的自殺を犯すことに なるだろう。
    はっきりしているのは、法制化推進派が動員することに成功した下からの力に対抗で きるだけの下からの力を、反対派はつくり出すことができなかったということである。

    このようにいうことによって、天皇の存在、およびそれを支えている 日本社会の現状を私は美化したいのではない。むしろ、天皇制の問題を批判的に考察するための思 考枠組として、民主主義がもつ限界を確認したいのである。
    天皇が参加民主主義とも、相性よろし く結婚できるとしても、この結婚は、日本という社会にとって、本当に幸福なものなのだろうか。 天皇への多数者の支持や能動的同一化の陰で、根本的に大切なもの、民主的正統性の名において奪 われてはならないものが、犠牲にされているのではないだろうか。犠牲にされていると私は思う。
    民主主義は政治社会の重要な構成要素である。しかし、根源的な原理ではない。天皇制の 評価は、このような、<民主主義よりも根源的なもの>に依拠してなされるべきである。

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