(立ち読み)3.1 セレンディピティ


第3章 検索、入力、処理、出力
3.1 サーチ
3.1.11 セレンディピティ   (p. 164)


セレンディピティ(serendipity)という言葉がある。英辞郎を見ると、「別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能」とある。

イギリスの作家ホレス・ウォルポール( Horace Walpole )が1754年の書簡で使った造語。次々に予期せぬ発見をする「セレンディッポの3人の王子の旅」というペルシャの童話から作った言葉だ。

セレンディピティは「幸せな偶然」とか「嬉しい驚き」という感じ。探してもいないのに、偶然に、良いものとか役に立つものに出会うことをいう。2004年には、イギリスの翻訳会社が選ぶ「翻訳が難しい 10の英単語」のひとつに選ばれた。

ジュリアス・コムロー( Julius H. Comroe )は、セレンディピティのことを、「干し草の山のなかにある1本の針を探していて、それを農家の娘と一緒に見つけ出す」ようなものだと言って説明した。

アルバート・ホフマン( Albert Hofmann )は「LSDの発見は本当に偶然だった」という話は、よく聞かされる。筋肉弛緩などに効く薬を作るために菌の研究をしていたホフマンは、1938年に一度、LSDを合成している。しかし効果がなかったため、LSDのことはそこで終わり。忘れ去られるかに見えた。

ところが、LSDのことがなぜか気になったホフマンは、1943年にもう一度、LSDを合成した。その時偶然に、指に付くかなにかして、ホフマンは色と戯れる経験をする。数日後、今度は意図的にLSDを摂取。その効果を確信することになる。

このLSDの発見は、セレンディピティの例としてよく使われるが、ホフマンの「LSDは向こうからやって来た」という言葉がすべてだと思う。偶然とはいうけれど、忘れてはならないことがひとつある。ホフマンが薬を作ろうとしていたということだ。ただ普通に暮らしているなかからはLSDは生まれてこない。それがセレンディピティの本質なのかもしれない。

写真に写った被写体が、たまたま絶滅種の動物だったり、珍しい鳥だったり、今まで確認されていなかった植物だったりすると、それがセレンディピシャスリー(serendipitously)に写真に入っていたという言い方をする。でも、それだって、写真を撮らなければ、絶対に起きない。

ベルナール・ブロン( Bernard Brand )は、いつものように、図鑑を片手にレマン湖沿いの植物公園を散歩していた。陽射しを避けて入った木の下には、色鮮やかな模様を身に纏った虫がいる。ベルナールは木の根もとに座り、図鑑を広げた。図鑑は植物公園の管理事務所で買ったもので、公園内の動植物が網羅されていた。

いつもならすぐに見つかる虫の名前は、この時ばかりはどうやっても見つからなかった。仕方なく図鑑を脇に置き、遠くを見る。モンブランが白く輝いている。風が気持ちいい。

しばらくして上を見ると、木の葉は陽の光を受け、風にそよぎ、ありとあらゆる緑色を作出している。ベルナールは図鑑を手に取り、木の名前を調べた。

木の名前はすぐに見つかった。写真の脇に長い説明がある。それを読み進んで、ベルナールは「えっ」と声をあげた。「この木の下には」という最後の行に、つい先程、どんなに探しても見つからなかった虫の名前が書いてあったのだ。

見つけようとしているあいだには見つからず、探すのを諦めたり忘れたりした時に、思いがけず見つかる。誰にでも、そういうことは、よくあるんだと思う。これは厳密にはセレンディピティとは言わないのかもしれないが、本質は同じ。

サーチしている時、なにかにとらわれた感じの時には絶対に見つからず、とらわれていることから自由になった時に、あっけないほど簡単に見つかる。それが、サーチというものだと思う。なにかを探している時、探している以上のものが見つかったりもする。それを大事にしないのは、いかにももったいない。