(立ち読み)4.4 表現の自由


第4章 変化、共有、発信、プロパガンダ
4.4 プロパガンダ
4.4.8 表現の自由   (p. 311)


誘導をどんなにうまくやろうとしても、それに反対する人たちがいる。国家の誘導には反対。宗教の誘導にも反対。その他、どんな誘導にも反対する。

どんなプロパガンダにも、それに対抗する人たちがいる。聞いてくれる人がいようがいまいが、利益になろうが不利益になろうが、声を上げる。時には刑務所に入れられたり、拷問を受けたり、殺されたりもする。それでも声をあげる人が出てくるのが、人間の社会の特徴だろう。

国王に、宗教に、国家に対抗するとき、人はあまりにも無力だ。それでも対抗する。そしてその時に使うのが、言葉。掲げるのが、表現の自由。権力に対抗する人たちにとって、言葉は武器であり、表現の自由はよりどころである。当然ながら、権力は言葉を恐れ、言論の自由には条件を設け、制限を行う。「社会に悪い影響を与えるから」、「人道的見地から」、「プライバシーに関わるから」、「風評被害を防ぐために」、「国家の存亡に関わるから」などなど、理由はなんとでもなる。そして、あちらこちらにいる「けしからんおじさん」や「けしからんおばさん」が権力にとって都合の悪いことを言う人を見張る。戦争中だけでなく平時でも、権力は言論の自由を抑圧してきた。

表現の自由は、作家や芸術家にとっても重要で、自己表現にとって絶対不可欠というだけでなく、社会的そして政治的な意思決定には欠かせない民主主義の根幹をなすものでもある。

ところが、表現の自由は、時に権力の側によって使われる。権力の正当性を示すために、意識的に表現の自由が使われもする。それならまだいい。始末に負えないのが、自分たちが権力の側にいることに気付かず、権力に対抗している気分でいる人たちだ。

私たちは、「権力とされている人たちが貧しく、権力に対抗している気分でいる人たちが豊かだ」という構図を、長いあいだにわたって見せられてきた。

そのことを最初に私に気付かせてくれたのが、石賀秀行だ。フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の映画のなかでの、「デモを取り締まる貧しい警察官」と「デモに参加している豊かな学生」の対比を話してくれた。警察官は洗濯物がひるがえるアパートに戻り、子供のために食事を作る。学生は邸宅に戻ると、ソファーにどっかりと腰を下ろし、使用人が靴を脱がしてくれるのを待つ。そして私たちは、警察官のことを権力の手先だといい、学生を反権力だという。
「なんか、おかしくねぇか?」
石賀秀行はそう言って笑った。

2015年の1月に起きた「シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)」の襲撃事件の時も、似たようなことを感じた。「表現の自由」が侵害されたといって、犯行を糾弾する人。「テロとの戦い」が不十分だと言って憤慨する人。「私はシャルリー(Je suis Charlie)」というプラカードを掲げ、被害者への連帯と襲撃への抗議を示す人。「私は白人(Je suis White)」といって人種の違いをことさら強調する人。そんななか私は、その誰とも同じでないということを感じ、必要のない孤立感を抱いた。

1968年のフランスの学生運動の影響を大きく引きずる人たちは、既成のものすべてを消し去り、右も左もブッ飛ばし、権威や権力を無視し、宗教も国家も認めないで暮らしてきた。だから、天国も国境もない世界を想像しようというビートルズ(The Beatles)の「イマジン(Imagine)」は、多くの人に愛され、支持された。

ところが時が経ち、「権威をぶっとばす」という姿勢そのものが権威になってしまった。シャルリー・エブドに関わっている人も、それを読む人も、反権力を語ってはいるものの、みんないい暮らしをしている。気付かないうちに自分たちが知識階級という権威になっていたのだ。

パリのバンリュー(Banlieue)に行くと、貧しい人たちが、暴力のなかで暮らしている。そんなところで暮らしている人たちにとっては、シャルリー・エブドなんて、ちゃんちゃらおかしい。ただの権威、ただの絵空事。バンリューの若者たちがそんなふうに思うのは、自然といえば自然だ。

宗教も絡み、知識階級と下層階級が、風刺画を描く側と書かれる側に分かれ、すべてがすれ違ったまま、惨事が起きた。

シャルリー・エブドがまだハラ・キリ(Hara-Kiri)だった頃、掲げていたのは明らかに反権威だった。当時のハラ・キリは、間違いなく今のバンリューの若者たちの側にいた。

襲撃事件を知り、大事な価値を傷つけられたと思った人たちも、しばらくして、世界の指導者たちがデモの先頭に並んでいるのを見て、あれ、なんか変だぞと思った。指導者たちが集まってなにかをすると、多くの人たちがその裏を探る。人を騙すのは、もうそんなに簡単ではない。

若かった頃、一緒に遊んでいた人たちのなかに、「権力」になった人はひとりもいない。みんな地道に働いてきた。逆に、私たちに「意識が低い」と言った「反権力」の人たちはみんな偉くなり、「権力」になった。

「反権力」は、ただの「権力の予備軍」だったのだと思い知り、なんだかなあという気分になった。でもまあ、知り合いに「権力」も「反権力」もいないというのは、なんともいえず嬉しいことで、文句はない。

表現の自由を掲げずとも、好き勝手なことを言っている人は、たくさんいる。同じことを言っても、ある人は尊敬され、ある人は殺される。対立からは、なにも生まれてこない。「仲良きことは美しきかな」だ。