知らない国の子守歌

口づけは暖かく、本当のような気がした。私はベッドのうえ、隣にあの人が座っている。もうきみを連れて行かなくてもいいんだね、優しい声は、柔かで落ち着いていた。

なぜそんなこと言うの、私の声は震えている。もう行かなくては、そう言って後ろを向いたあの人に、私は大きな声で言った、待って、もう一度だけでいいから、私を連れて行って。

まえに見た夢と同じ、あの人が私を抱え、空に浮かぶ。海が見える、白い波が砕けている。砂漠が見える、雪が降っている。随分遠いところまで来た、いったいどこまで行くのだろう。

湖が見える。岸辺で女がこちらを見ている。あれは宿のおかみよね。さあ、誰かな、わからないな。見えないの?見えない、きみのこと以外はなにも見えない。私はあの人を抱きしめる。

水辺に降りることはできないの?どこがいい?あそこの入り江がいいわ。風が湖のほうから吹いている。さざ波が次から次へと押し寄せる。私は湖に踏み出す。水に濡れ、子供のように走る。あの人が私を見つめている。

小船が岸に繋がれている。飛べない鳥たちが羽をふるわせ、水面を滑る。私はあの人と小船に乗る、沖に漕ぎ出す。湖の透きとおった水。見つめあう二人、小船のなか。

気が付くと海、潮の香り。口づけまでが海の味。漕ぎ続ける、ずっと。どこに行くの?どこがいい?抱きあえば、小船は二人の寝台。山が見えてくる、川はどんどん狭くなる。

小船を棄てた私たちは、川に沿って山に分け入る。ひかりの滝をくぐる時、あの人が手を差し伸べる。私はあの人にからみつく、よろこびの水飛沫が風に舞う。

暖かな白い雪が、私たちを狂わせる。茶色い土も緑の草も、真っ白なひかりのなかで色を失う。あの人だけが私を包み、周りの景色が消えて行く。なにも見えなくなる。

もう行かなければならない。あの人が言う。待って、私は大きな声で言う。待って、行かないで。私をおいて行かないで。あの人はなにも言わず、空に飛び、消えて行った。

口づけの記憶はなかった。あの人の記憶もぼんやりとしている。風の感じもない、潮の香りもしない。いつものベッドなのに、なにかが違う。もう空を飛ぶことはないのかもしれない。

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