Ce véritable « portrait » du Mont-Blanc a été décrit par De la Rive lui-même comme un « tableau difficile et qui renverse toutes les règles, en ce que l’objet le plus éloigné se trouve le plus grand et le plus apparent, tandis que tous les seconds plans et les devants sont entièrement dans l’ombre, n’y ayant de lumière que sur la montagne qui occupe tout le fond ». Cette toile marque une étape importante dans l’appropriation progressive de la montagne par les peintres genevois, et plus particulièrement de la haute montagne comme objet possible de représentation. De la Rive donne ainsi la réplique artistique à son maître Horace Bénédict de Saussure, géologue et naturaliste, qui consacra sa vie à l’étude des Alpes et en particulier au massif du Mont-Blanc. La soudaine accessibilité de la haute montagne ouvre par ailleurs la voie aux romantiques qui aperçoivent dans cette nature sauvage et tourmentée un reflet de leur âme.
その他にもソシュールはアルプスの数多くの山を登破し、また峠など高地に滞在して学術的な観測を行った。モン・ブラン登頂以前の1774年にはレマン湖に近いシャブレ山塊(英語版) (massif du Chablais) のグラモン(英語版)(Grammont, 2172メートル)に登り、1776年にはモンブラン北方のモン・ビューエ(フランス語版)(Mont Buet, 3096メートル)に登頂した。 1778年にはグラモンに再登頂するとともに、グラン・サン・ベルナール峠に近いヴァルソレ氷河(英語版) (glacier de Valsorey) を調査した。 またモン・スニ峠東のロシュ・ミシェル(Roche Michel, 3423メートル)に1780年に登頂した。
モン・ブラン登頂の翌年1788年には、モン・ブラン山塊のコル・デュ・ジェアン峠(英語版)(Col du Géant, 3371メートル)において17日をかけた調査を行っている。1789年にはモンテ・ローザの東壁を観察するため、マクニャーガに近いピッツォ・ビアンコ(英語版) (Pizzo Bianco) に登頂した。またモンテ・ローザ西のテオドゥル峠(英語版)(Theodulpass, 3322メートル)をツェルマットへと初めて越えた。1792年にクライン・マッターホルン(3883メートル)へと登った際にも、この峠で3日をかけて観測を行った後、テオドゥルホルン(英語版)(Theodulhorn, 3472メートル)にも滞在している。 これらソシュールのアルプスへの7回の旅とその際の科学的観測はソシュール自身によって、『アルプス旅行記(フランス語版)』(Voyages dans les Alpes, 1779–1796) のタイトルで四折り判(英語: quarto)4巻からなる記録として1779年から1796年にかけて出版された。
1784年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に、1788年にはロンドンの王立協会フェローに、1791年にパリの科学アカデミーの準外国人会員に選出された。1799年にジュネーヴで死去した。 オラス以降もソシュール家は数多くの学者を輩出しており、娘アルベルティーヌ・ネッケル・ド・ソシュール(英語版) (Albertine Necker de Saussure) は女子教育のパイオニアであり、また息子ニコラ=テオドール・ド・ソシュールは有機化学の卓越した研究者であった。 孫アンリ・ド・ソシュール(英語版) (Henri Louis Frédéric de Saussure) もまた昆虫学者として名声を得た。著名な言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールはオラスの曾孫にあたる。
Le Mont-Blanc vu de Sallanches au coucher du soleil
1802
Pierre-Louis De la Rive
https://collections.geneve.ch/mah/oeuvre/le-mont-blanc-vu-de-sallanches-au-coucher-du-soleil/1969-0022
Ce véritable « portrait » du Mont-Blanc a été décrit par De la Rive lui-même comme un « tableau difficile et qui renverse toutes les règles, en ce que l’objet le plus éloigné se trouve le plus grand et le plus apparent, tandis que tous les seconds plans et les devants sont entièrement dans l’ombre, n’y ayant de lumière que sur la montagne qui occupe tout le fond ». Cette toile marque une étape importante dans l’appropriation progressive de la montagne par les peintres genevois, et plus particulièrement de la haute montagne comme objet possible de représentation. De la Rive donne ainsi la réplique artistique à son maître Horace Bénédict de Saussure, géologue et naturaliste, qui consacra sa vie à l’étude des Alpes et en particulier au massif du Mont-Blanc. La soudaine accessibilité de la haute montagne ouvre par ailleurs la voie aux romantiques qui aperçoivent dans cette nature sauvage et tourmentée un reflet de leur âme.
(sk)
この絵を描いた画家の雇い主(maître)が Horace Bénédict de Saussure だというのも面白いし、Horace Bénédict de Saussure の孫が構造主義で有名な Ferdinand de Saussure だというのも面白い。
フランスで革命が起きてナポレオンがイタリアを征服しているのに、モンブラン登頂。Horace Bénédict de Saussure さんはすごい。
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オラス・ド・ソシュールはジュネーヴに近いシェヌ=ブジュリーのコンシュ(フランス語版) (Conches) に生まれた。 父ニコラ・ド・ソシュール (Nicolas de Saussure, 1709–1791) は農学者であり、オラスも植物学に興味を持っていたため大学卒業後にはアルプスの山々への調査旅行を企てることとなった。 しかし18世紀の多岐の知識にわたる教育を受けた彼は、1773年以降、植物学に留まらずアルプスにおける地質学や気象学、物理現象へも興味を向けるようになった。これは特にアルプスの降雪地域での地形学として結実し、山麓のシャモニーやツェルマットのような場所へ後の旅行者の興味を呼び寄せることとなった。
一般には登山という概念さえ希薄であった当時、1760年のシャモニーへの最初の滞在で、未踏峰であったモン・ブラン(4811メートル)の初登頂に対して懸賞をつけた。1785年には彼自身がエギーユ・デュ・グーテ(フランス語版) (Aiguille du Goûter) を経るルートから登頂を試みたものの果たせずに終わっている。初登頂を行い 20 ターラーの懸賞金を得たのはシャモニーの医師ミシェル・パカール(英語版) (Michel Paccard) とそのポーターのジャック・バルマ(英語版) (Jacques Balmat) であり、グラン・ミュレ (Grands Mulets) を経たルートによって1786年に達成された。翌1787年にはソシュール自身も多数の観測機器を持って登頂を果たし、山頂で沸点や雪の温度、脈拍などを測定した。
その他にもソシュールはアルプスの数多くの山を登破し、また峠など高地に滞在して学術的な観測を行った。モン・ブラン登頂以前の1774年にはレマン湖に近いシャブレ山塊(英語版) (massif du Chablais) のグラモン(英語版)(Grammont, 2172メートル)に登り、1776年にはモンブラン北方のモン・ビューエ(フランス語版)(Mont Buet, 3096メートル)に登頂した。 1778年にはグラモンに再登頂するとともに、グラン・サン・ベルナール峠に近いヴァルソレ氷河(英語版) (glacier de Valsorey) を調査した。 またモン・スニ峠東のロシュ・ミシェル(Roche Michel, 3423メートル)に1780年に登頂した。
モン・ブラン登頂の翌年1788年には、モン・ブラン山塊のコル・デュ・ジェアン峠(英語版)(Col du Géant, 3371メートル)において17日をかけた調査を行っている。1789年にはモンテ・ローザの東壁を観察するため、マクニャーガに近いピッツォ・ビアンコ(英語版) (Pizzo Bianco) に登頂した。またモンテ・ローザ西のテオドゥル峠(英語版)(Theodulpass, 3322メートル)をツェルマットへと初めて越えた。1792年にクライン・マッターホルン(3883メートル)へと登った際にも、この峠で3日をかけて観測を行った後、テオドゥルホルン(英語版)(Theodulhorn, 3472メートル)にも滞在している。 これらソシュールのアルプスへの7回の旅とその際の科学的観測はソシュール自身によって、『アルプス旅行記(フランス語版)』(Voyages dans les Alpes, 1779–1796) のタイトルで四折り判(英語: quarto)4巻からなる記録として1779年から1796年にかけて出版された。
1784年、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に、1788年にはロンドンの王立協会フェローに、1791年にパリの科学アカデミーの準外国人会員に選出された。1799年にジュネーヴで死去した。 オラス以降もソシュール家は数多くの学者を輩出しており、娘アルベルティーヌ・ネッケル・ド・ソシュール(英語版) (Albertine Necker de Saussure) は女子教育のパイオニアであり、また息子ニコラ=テオドール・ド・ソシュールは有機化学の卓越した研究者であった。 孫アンリ・ド・ソシュール(英語版) (Henri Louis Frédéric de Saussure) もまた昆虫学者として名声を得た。著名な言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールはオラスの曾孫にあたる。
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1789年 フランス革命
1798年 フランス軍がベルンに進駐
スイスにヘルヴェティア共和国成立