富子は新婚時代を「将軍とは名ばかりの、苦労ばかりの毎日。何事も思うようには事が運ばず、周りの人たちに振り回されるばかり」と振り返る。義政が「悪い夢と思うしかないのだろうか」と漏らすと「あの苦労、あの失敗、あの挫折が、二人には良かった」と応じる。それが義政の懐を深くしたというのである。著者が「はじめに」で書いた「のっぺりとした人ではなく」は、このときに富子が口にした表現だ。
この対談では、富子が山荘づくりの資金繰りを心配している。「山荘造営への幕府からの出費をお断りしたのは、この私ですから」。別居中とはいえ妻、しかもそれなりの権力を手にしているからこその気がかりなのだろう。これに対して、義政は「ものの値段など、あってなきがごとし」「いくらかかるのかは、正直、わからない」と雲をつかむようなことを言う。そして「私はここで、雲になることができる」と、自在に生きる境地を披歴する。
富子が「今まで私に縛られてきたのが、ここに来たら雲の心境になれたと、そうおっしゃるのですか」と突っ込むと、義政はすぐさま否定して「こなたなしでは、私は生きてはいけない」と大人の愛を告白。このあとの場面が「(中略)」とされているのも心憎い。
歴史のはぐれ者に現代の思いを託す
『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)
本読み by chance/尾関章
http://ozekibook.jugem.jp/?eid=217
大河ドラマは、どうも好きになれない。昔の人物に今の倫理を押しつけている印象が拭えないからだ。かつて書いたことをもう一度繰り返すと、武力が正当化され、人権がないがしろにされていた世情をそのまま描かず、近代市民社会の常識と折り合いをつけるべく美化しているところがある(当欄2014年12月5日付「師走に思う大江戸ミッドナイト」)。視聴者の反発を買わないための脚色かもしれないが、嘘っぽさは拭えない。
乱世の物語を血なまぐさいまま活写せよ、とは思わない。ただ、美化とは違う描き方もあるはずだ。歴史の転換点では、人間の野心、嫉妬、愛憎があからさまなかたちで表れる。その確執を巧く切りだせば、見ごたえのあるドラマになるだろう。シェイクスピア作品がそうだ。舞台劇ということで流血沙汰は様式化され、登場人物の心模様が台詞を通して見えてくる(当欄2016年11月4日付「名演出家、名優去りし年のマクベス」)。
日本史では室町の世が、そんな心理劇の芽をはらんでいる。幕府はあるが、背後に最高権威の朝廷が控えている。公家もいる。大名もいる。政治権力が一極に集中することなく、いつも揺らいでいる。渦中にいる人物が鋭敏な感受性の持ち主ならば、その思考は深みを帯びたものになるはずだ。しかも、当時は仏教の各宗派が並び立ち、茶に親しむ習慣や庭園を愛でる文化も生まれていたから、それらもものの見方に陰翳を与えたことだろう。
で、浮かびあがってくる人物の一人が、室町幕府第8代将軍足利義政(1436~1490)だ。少年期に将軍職に就き、世継ぎ問題をこじらせて応仁の乱のきっかけをつくってしまう。将軍の座を退き、歴史の主流からはぐれた人だが、その一方で芸術を愛で、わび、さびの東山文化を生んだ。この人の内面には興味が湧くではないか。きっと、多元的な思いが絡みあっていたに違いない。それをあぶり出せば、一つの作品として成立するだろう。
ただ、こうした視点に立つ歴史劇は大河ドラマには不適なのかもしれない。NHKは1994年、義政の妻日野富子を主人公にした「花の乱」を放映したが、これは視聴率が振るわなかったようだ。天下取りの派手さに乏しく、テレビ向きではなかったのだろう。
義政の心模様をじっくり味わうには、きっと本のほうがよい。で、今週は『義政』(九島伸一著、幻冬舎メディアコンサルティング)。著者は1952年生まれ。2012年まで30年間、国連職員としてスイス・ジュネーブなどで勤務した。この本は今年1月刊。
本の話に入る前に打ち明けておくと、僕は著者とは知らぬ仲でない。同じ学び舎の同じ教室にいて、同じ授業を受けた同級生だった。ただ、そうとわかってつきあいが始まったのは、卒業の約20年後だ。そのころ、僕はロンドン駐在の新聞記者。科学担当でジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機関(CERN)をしばしば訪れていたが、そこにいる日本人物理学者が「あなたと縁がありそうな人がこの町にいる」と言って紹介してくれたのだ。
レストランでワインを酌み交わしながら昔話をしていて、僕たちが学生時代、同じ空気を吸っていたらしいことに気づいた。たしかに、見かけたような記憶はある。だが、時空を共有したという実感が僕にはまったくなかった。著者も同様だったらしい。二人とも学内の滞在時間が短すぎたのだ。ただ皮肉なことに、共有すべきものを共有しなかったということで僕たちの心は響きあった。60歳超の今、メールのやりとりをする関係を構築している。
著者は退職後、本の執筆にいそしんでいる。『情報』(幻冬舎メディアコンサルティング、2015年)と『知識』(思水舎、2017年)では、それぞれ表題の大テーマをめぐって真正面から持論を展開したが、第3作の本書では突然、変化球を投げてきた。
なによりも、歴史上の人物の対談集という体裁をとったことに工夫がある。著者は「はじめに」で「すべてから自由になった義政は、まだ常御所(つねのごしょ)しかできていない東山山荘に移り住んだ。その義政に九人の客を迎えさせ、話をさせる」と宣言して、「なにもかもがうまくいったのっぺりとした人ではなく、なにもうまくいかなかった深みのある人が描ければいい」(「のっぺり」に傍点)と書く。まさに心模様の再現だ。
ちなみにこの「東山山荘」が、その後、造営を続けて今の銀閣寺となったのである。
「九人の客」のなかには、義政の異母弟で、義政に嫡男がいなければ政権を継いだはずの義視がいる。義政の妻だが、すでに別居状態だった日野富子がいる。猿楽師がいる。禅僧がいる。茶人や立花作者や庭師もいる。応仁の乱後の1483年、これらの面々が次々と山荘を訪ねてくる。義政は数え48歳、とうに政権は手放している。本文にト書きなし。客人と向きあい、ただひたすら語りあう。著者はそれを淡々と現代語で書きとどめている。
著者は「おわりに」で告白する。「書きながら、何度も、不思議な思いに捉われた。会話が勝手に進んでいくのだ。私の思惑を超え、義政が、そして客が、自分の思いを言葉にする」。自動筆記の感覚か。その結果、「室町時代の人々の感じ方や考え方は、今の時代に生きる私たちのものとそうは違わない」と確信したという。現代を歴史に押しつけていると言えなくはないが、そのことで現代人の思考は間違いなく活性化されている。
では、対談の一端をのぞいてみよう。異母弟の義視には謝罪の言葉がある。「今日は、まず私に謝らせてくれ」「なにがです」「還俗させてしまったこと。あれですっかり、貴殿の人生を狂わせてしまった」。これは、仏門に入っていたのを俗世に引き戻して後継者にしようとしたことを指している。そうしておいて政権を譲らなかったのだから謝るのは当然だ。対談のころ、義視は美濃の地に逃亡の身で、僧のいでたちで密かに上京したらしい。
義政は、その弟に「将軍になど、なるものではない」と言う。勝手な言い草にも聞こえるが、将軍を辞めたら「比べることがなくなった」「競う気持ちがなくなった」と言っているのを読むと、妙に納得する。「怒ることがなくなり、悔やむことがなくなり、悩むことがなくなり、人を責めることがなくなり、罪悪感から解放され、自分を責めることがなくなり、恐れがなくなった」。僕のような退職世代には、この感慨がすとんと腑に落ちる。
富子とのやりとりも絶妙だ。富子は新婚時代を「将軍とは名ばかりの、苦労ばかりの毎日。何事も思うようには事が運ばず、周りの人たちに振り回されるばかり」と振り返る。義政が「悪い夢と思うしかないのだろうか」と漏らすと「あの苦労、あの失敗、あの挫折が、二人には良かった」と応じる。それが義政の懐を深くしたというのである。著者が「はじめに」で書いた「のっぺりとした人ではなく」は、このときに富子が口にした表現だ。
この対談では、富子が山荘づくりの資金繰りを心配している。「山荘造営への幕府からの出費をお断りしたのは、この私ですから」。別居中とはいえ妻、しかもそれなりの権力を手にしているからこその気がかりなのだろう。これに対して、義政は「ものの値段など、あってなきがごとし」「いくらかかるのかは、正直、わからない」と雲をつかむようなことを言う。そして「私はここで、雲になることができる」と、自在に生きる境地を披歴する。
富子が「今まで私に縛られてきたのが、ここに来たら雲の心境になれたと、そうおっしゃるのですか」と突っ込むと、義政はすぐさま否定して「こなたなしでは、私は生きてはいけない」と大人の愛を告白。このあとの場面が「(中略)」とされているのも心憎い。
この本にあるのは、私的事情に結びついた会話ばかりではない。義政は猿楽師を相手に「虚構」と「現実」について語り、禅僧や茶人らとのやりとりでは「美」を話題にする。ただ見落とせないのは、対談する二人の言い分に差異をしのび込ませていることだ。このときの義政は当時としては老人のはずだが、それでも他人の主張に耳を傾ける。その姿勢は、著者自身の懐の深さを映しているに違いない。義政は、九島伸一の分身とみてよい。
きっと内なる対話があるからこそ、歴史上の人物の言葉を自動筆記できたのだ。
(sk)
こんな書評を書いていただけるなんて。。。
出版して良かったと、心からそう思った。