アーネスト・サトウ

当時は一般の人々は時計を持たなかったし、また時間の厳守ということもなかったのである。二時に招かれたとしても、一時に行くこともあり、三時になることもあり、もっとおそく出かける場合もよくある

小松帯刀は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」

2 thoughts on “アーネスト・サトウ

  1. shinichi Post author

    薩摩の英雄
    幻の名宰相 小松 帯刀(こまつ たてわき)
    http://www.fukiage.co.jp/hero/komatsu.html

    小松帯刀は、1835年(天保6年)に、薩摩国下原良村(現在の鹿児島市原良町)にて、喜入(現在の鹿児島市喜入町)領主肝付家の三男として生まれました。肝付尚五郎と名付けられますが、1856年(安政3年)、尚五郎21歳の時に、薩摩国吉利(現在の鹿児島県日置市)領主であった小松家の養子となり家督を継ぎました。百姓たちの仕事を労い、若い者とは相撲大会を催し、その後の宴では無礼講で積極的に村民と話をするその姿はやがて薩摩藩全体に「名君あり」との噂を広めます。それは薩摩藩殿様島津久光にも伝わり、側近に任命されると、その政治手腕は頭角を現し、弱冠27歳で家老となります。軍事、政治などはもちろん、特に財政、教育、商工業などの分野で活躍しました。手腕や技術だけではなく、優しい人柄も、多くの人々から愛されました。

    薩摩藩28代当主島津斉彬の急逝後、その意志を継ぎ、薩摩藩の産業発展に力を尽くします。「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と志士たちに噂されるほどの活躍ぶりで、西郷隆盛や大久保利通などが自由に動き回れるよう、人望の篤い小松帯刀が藩主と彼らとのパイプ役を果たしました。また、土佐藩の浪人に過ぎなかった坂本龍馬が幕末に活動し大きな功績を残せたのも、薩摩藩家老という身分を持った親友小松帯刀の協力があったからこそと言われています。

    明治維新の大きな原動力の一因となった薩長同盟は、京都の小松邸で締結されました。「性格の実直さ」と「思考の柔軟さ」を兼ね備えた帯刀は、他勢力との交渉時に力を発揮し、功績を残したので、明治維新後も、その能力を買われて外交官副知事まで上り詰めました。

    しかし、1870年(明治3年)に36歳という若さで病死してしまいます。もしももっと小松帯刀が長生きしていたら…彼の夭逝は未だに惜しまれつつ、その偉大な功績は今も薩摩の誇りとして輝き続けています。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *