スベトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエービッチ(Святла́на Алякса́ндраўна Алексіе́віч)

人はどうすれば絶望から救われるのでしょうか。
近しい人を亡くした人、絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒーの1杯でもよいでしょう。そんな、何か人間らしいことによって、人は救われるのです。

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  1. shinichi Post author

    人から獣がはい出したウクライナの戦争 アレクシエービッチの使命

    聞き手・ベルリン=根本晃

    アレクシエービッチが見たウクライナ侵攻㊤

    https://www.asahi.com/articles/ASQDT23CBQD9UHBI00Q.html

     2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエービッチさん(74)が昨年11月下旬、事実上の亡命先となっているベルリンの自宅で朝日新聞の単独インタビューに応じた。

     アレクシエービッチさんは、第2次世界大戦最大の激戦とされる独ソ戦に従軍したソ連の女性兵500人以上に取材した代表作「戦争は女の顔をしていない」などで知られる。他にもソ連のアフガン侵攻で亡くなった兵士の母親やチェルノブイリ原発事故の遺族など、常に社会や時代の犠牲となった「小さき人々」の声につぶさに耳を傾けてきた。

     「私はウクライナ人の母とベラルーシ人の父のもと、ロシア文化に育てられた」と話すアレクシエービッチさんは、世界を揺るがすロシアのウクライナ侵攻についていま、何を思うのか。1時間半にわたるインタビューの内容を、3回に分けて紹介する。

    「戦争は美しい」と語った男性 戦争は人の心を支配する

     ――ウクライナ侵攻が起きて、まず感じたことは。

     私の母はウクライナ人、父はベラルーシ人です。開戦を知った時、ただただ涙がこぼれました。私は本当にロシアが大好きで、その文化の中で育ちました。ロシアに友人も大勢いるのです。戦争が始まるなんて到底信じられませんでした。

     ――ロシア人と交流を続けているのですか。

     はい、知識人たちは皆連絡を取り合っています。一般の人たちも、可能な人たちとは。より難しいですが。

     ――「戦争は女の顔をしていない」で独ソ戦を、「亜鉛の少年たち」でアフガン侵攻を描きました。あなたにとって、ウクライナ侵攻は3度目の戦争です。共通点は何だと思いますか。

     かつて、ソ連人が自国をドイツから守りました。今のウクライナ人は、かつてのソ連人のように振る舞い、ロシアはヒトラーのようです。ウクライナの破壊された街並みも、第2次世界大戦をほうふつとさせます。村が焼かれ、人々が撃たれました。街を闊歩(かっぽ)していたロシア兵が撤退すると、いくつもの墓が残ります。墓を掘り起こした時、人々が拷問されたのだとわかるのです。

     私はかつて取材した人で、「戦争は美しい」と言った男性をよく覚えています。彼は「夜の野原で砲弾が飛んでいる姿はとても美しい。殺された人間だけじゃない。美しい瞬間があるんだ」と言うのです。のどを刺すときの(刺された人の)うめき声について、ほとんど詩的と言ってもよい表現で語りました。戦争には人間にとって様々な試練があります。人間の心を支配してしまうようなものがあるのです。

    テレビの力を私たちは甘く見ていた

     ――ロシア軍が占拠し、後に撤退したウクライナのブチャなどでは、残虐な行為が繰り返されました。

     なぜ、こうもすぐに人間の文…

    アレクシエービッチが見たウクライナ侵攻㊥

    https://www.asahi.com/articles/ASQDT23CPQDSUPQJ00C.html

     2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエービッチさん(74)が昨年11月下旬、事実上の亡命先となっているベルリンで、朝日新聞の単独インタビューに応じた。困難を強いられるウクライナの人々は、何をよりどころに生きるのか。悲惨な経験をした人々はどのように救われるのか。何がプーチン大統領を生み出したのか――。

    朝のコーヒーの1杯 そんな人間らしいことで人は救われる

     ――今、何がウクライナの人々のよりどころになっているのでしょう。

     私はベルリンで大勢のウクライナ難民と会っています。彼らは皆、まもなくウクライナが勝利すると信じています。なぜなら、国民全員が立ち上がったからです。全てのウクライナ人があらがい、故国を守っています。おそらく、これこそがいま、ウクライナ人が(絶望に)打ち勝ち、耐え抜くためのよりどころなのでしょう。

     ――ソ連のアフガン侵攻で亡くなった兵士の母親やチェルノブイリ原発事故の遺族など、これまでも悲惨な経験をした多くの人々にインタビューしてきました。人はどうすれば絶望から救われるのでしょうか。

     近しい人を亡くした人、絶望の淵に立っている人のよりどころとなるのは、まさに日常そのものだけなのです。例えば、孫の頭をなでること。朝のコーヒーの1杯でもよいでしょう。そんな、何か人間らしいことによって、人は救われるのです。

     ――この戦争はどのように終わると思いますか。

     私はウクライナが何らかの勝利を収める形で終わると考えています。世界が団結し、ロシアのファシズムに立ち向かうのです。ロシアのファシズムは危険で、ウクライナで止まるとは限りません。プーチンは(ソ連から脱退した)バルト3国やモルドバのことも惜しんでいます。ソ連の全ての断片を惜しんでいるのです。ウクライナが戦っているのは自らのためだけではなく、全世界のためです。

    貧困が行き着く先がファシズム 良い教育を受けられない

     ――なぜロシアはプーチン氏を生み出してしまったのでしょうか。ペレストロイカとソ連崩壊を経て、人々は自由で民主的な社会を志向したはずでした。それなのに、ベラルーシでも「欧州最後の独裁者」と呼ばれるルカシェンコ氏が30年近く大統領に君臨しています。

     常にその答えを探しています…

    アレクシエービッチが見たウクライナ侵攻㊦

    https://www.asahi.com/articles/ASQDT23CVQDSUPQJ00D.html

     2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家、スベトラーナ・アレクシエービッチさん(74)が昨年11月下旬、事実上の亡命先となっているベルリンで、朝日新聞の単独インタビューに応じた。やりとりは安倍元首相の殺害事件から日本政府の原発回帰、人工知能、人間と孤独の問題にまで及んだ。

    世界にあふれる狂気 憎しみは伝染する

     ――日本では22年、元首相が銃で殺害される事件が起きました。容疑者は、母親が新興宗教にのめり込み、家庭が崩壊したことに恨みを抱き、元首相と教団との関係を理由に事件を起こしたとされます。

     憎しみという狂気が世界であふれています。それは、伝染するようになりました。どこの国でも、紛争が起きていない国でさえも、似たようなことが起こっています。

     地下鉄の車両に乗ってきた人がいるとします。その人が何を考えているのかは分かりませんよね。外見では(危険な)人を見分けることは絶対にできません。私たちは人々の考えを知らなくてはいけない。必要なのは対話です。

     教室で乱射事件を起こしに登校する子どもと、その隣にいる普通の子どもを見分けることも不可能です。学校や警察は、子どもたちとたくさん話し合わなければなりません。

     ネット上で彼らが何を語っているのか、注意深く見つめる必要があります。子どもたちをケアする専門家がもっといるべきです。学校の役割は、とても大きい。

     ――ネットの発展とともに私たちのコミュニケーションは物理的に容易になった一方で、より多くの人々が孤独を感じている気がします。

     私たちが生きているのは孤独…

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  2. shinichi Post author

    100分 de 名著

    名著112「戦争は女の顔をしていない」

    NHK

    https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/112_sensouwa/index.html

    おもわく。

    第二次世界大戦中、もっとも過酷な戦場の一つになったといわれる「独ソ戦」。ソ連側だけでも死者は約2700万人といわれています。この戦争で特筆すべきは従軍した女性兵士が100万人を超えるということです。そんな彼女たちの苦悩や悲しみ、希望や絶望を「証言文学」という方法で克明に描ききった本が「戦争は女の顔をしていない」。2015年、「私たちの時代における苦難と勇気の記念碑」と評され、著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(1948-)がノーベル文学賞を受賞するきっかけとなった名著です。「100分de名著」では、終戦から77年目を迎える8月、「戦争は女の顔をしていない」に新たな光を当て、現代の私たちに通じるメッセージを読み解いていきます。

    アレクシエーヴィチはもともと地方紙の一記者でした。戦争を記録するのが「男の言葉」だけだったことに疑問を持ち続けた彼女は、「戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを」というやむにやまれぬ思いから、元女性兵士たちから聞き書きすることを決意、この本を書き始めました。以来、独ソ戦に従軍した女性たちに寄り添い、500人を超える人たちからの証言を聞き取り続けます。しかし、完成から2年間、「これはわが軍の兵士や国家に対する中傷だ」として検閲され出版されることはありませんでした。ようやく出版されたのは、ペレストロイカが進んだ1984年。出版されるや200万部を超えるベストセラーになり、映像化も果たします。当時、元女性兵士たちの状況は、まだメディアで断片的にしか伝えられることはなく、その全貌はほとんど知られていませんでした。そんな中での「戦争は女の顔をしていない」の出版は、戦争の記憶を忘れ去っていた人たちに「戦争のリアル」をつきつけ、大きな衝撃を与えたのです。

    この書は「戦争」を告発するだけにとどまりません。描かれた女性たちの姿からは、戦場でも女性でありたいという希求や、女性ならではの苦悩、悲しみが克明に描かれます。それに照らし出される形で、プロパガンダによる愛国心の鼓舞や男女の差別を固定化する因習によって翻弄される女性たちの厳しい状況も浮かび上がります。更には、そうした歪んだ構造を無意識裡に支えてきた市民一人ひとりの「罪」をも鋭く抉り出します。この本は、文明論的な洞察がなされた著作でもあるのです。

     番組では、ロシア文学者の沼野恭子さんを講師に招き、新しい視点から「戦争は女の顔をしていない」を解説。そこに込められた「人間の尊厳」「ジェンダーの問題」「戦争が生み出す差別」「人間の本源的な感情とは何か」といった現代に通じるテーマを読み解くとともに、「戦争とは何か」という普遍的なテーマについて考えます。

    第1回 証言文学という「かたち」

    アレクシエーヴィチがとりわけこだわったのは女たちの「小さな声」だった。「私は大きな物語を一人の人間の大きさで考えようとしている」と語る彼女は一人ひとりの苦悩に徹底して寄り添う。沈黙、いいよどみ、証言の忌避、男性たちの介入や検閲…記録を妨げるものは多々あった。彼女はそのプロセスをもありのままに記録し500人を超えるその記録はやがて「多声性」を獲得。証言同士が浄化し合い響き合うことで、魂の奥底から照らし出されるような新しい文学の「かたち」が生まれたのだ。第一回は、アレクシエーヴィチが模索しながら辿り着いた方法を通して、証言の記録がなぜ文学となりえたのかを明らかにしていく。

    第2回 ジェンダーと戦争

    過酷な戦場の中でもハイヒールを履いたりおさげ髪にする喜びを忘れないパイロットたち、行軍中の経血を川で洗い流すためには銃撃を受けることも厭わない高射砲兵、「戦争で一番恐ろしいのは死ではなく男物のパンツをはかされること」と語る射撃手…女たちの語りは男と違い生々しい「身体性」を帯びる。女子から兵士への変身は女性を捨てることを意味したが、彼女たちは決して全てを捨て去ることはできなかった。戦場でも女性でありたいという希求、それは戦争の非人間性を逆照射していく。第二回は、今まで前景化されることがなかった「ジェンダー」という視点から、戦争の過酷さや悲惨さを浮かび上がらせる。

    第3回 時代に翻弄された人々

    旧ソ連では数多くの若い女性が自ら志願して戦争に行った。その背景にはスターリンによる愛国主義の高まりがあった。あらゆる領域で男女同権の理念を高らかに歌い上げた旧ソ連では「兄弟姉妹よ!」「少年少女よ!」との掛け声のもと女性たちの愛国心も鼓舞されたのだ。だが彼女たちを待っていたのは戦後の厳しい差別だった。男と同じく銃を持って戦ったのに英雄視されたのは男だけ。そればかりか帰還した女性兵士は「戦地のあばずれ、戦争の雌犬め」と蔑視される。第三回は、プロパガンダや戦後の過酷な差別など時代に翻弄された女性たちの姿を通して、人間が国家や制度の犠牲になっていく構造を明らかにする。

    第4回 「感情の歴史」を描く

    アレクシエーヴィチはしばしば「感情の歴史」を描きたいと語る。戦争の原因や意味といった大仰なものではなく、人がどう感じたかを掬い上げたいと考えるからだ。憎悪と慈愛の共存、平時では考えられないような感情のうねり、戦争終結後も人々を苛むトラウマ…。英雄譚や大文字の歴史としてしか語られてこなった戦争は、彼女の透徹した「耳」と「手」によって、生身の身体、鮮烈な五感、豊かな感情の震えの記録として描き直される。それは、これまで決して描かれたことのない、人間の顔をしたリアルな歴史だ。第四回は、「感情の歴史」という概念を通して、私達が戦争をどう記録し語りついでいったらよいかを問い直す。

    こぼれ話。

    ふたつの「真実」

    アレクシエーヴィチの名前を知ったのは、お恥ずかしながら2015年に彼女がノーベル賞を受賞したことがきっかけでした。当時群像社という出版社から出ていた「戦争は女の顔をしていない」を手にとったのをよく覚えています。旧ソ連軍の女性兵士たちのポートレイトが折り重なるように並んだ印象的な装丁でした。

    **

    すでに序章を読んでいる段階で、戦慄と、胸を抉られるような悲しみと、人間の内なる闇の怖ろしさと…さまざまな感情がうねるように襲ってきて打ちのめされました。これまで感じたことがないような読書体験。それはここ10年の中で最も心揺さぶられた読書体験でした。

    **

    読了後もほとんど心はカオス状態で、全くもって頭の中が整理できない…すでに「100分de名著」のプロデューサーに就任して2年目でしたので、「これは番組でぜひ紹介すべき名著だ」とは直感したのですが、いったいどう紹介したらよいのか途方に暮れてしまったのでした。

    **

    その後、何度か少しずつ読みなおしを続けました。あの圧倒的な読書体験は何だったのだろう。この本の中では数少ないアレクシエーヴィチ自身の声に耳を傾けていくと、少しずつその意味がほどけてきました。「私は大きな物語を一人の人間の大きさで考えようとしている」と語る彼女は一人ひとりの苦悩に徹底して寄り添い続けます。沈黙、いいよどみ、証言の忌避、男性たちの介入や政府による検閲……記録を妨げるものは、たくさんありました。ですが、彼女は、その状況をそのまま受け止め、そのプロセスをもありのままに記録していきます。結果、500人を超えるその記録はやがて「多声性」を獲得していきました。

    **

    「声だけが私の頭の中で響いている。頭の中で合唱している。巨大な合唱。その合唱のなかでは時として言葉が聞き取れず、嗚咽しかない」……そう、アクシエーヴィチは記していますが、図らずも、私の頭の中にもこの合唱が鳴り響いていました。ただただ圧倒され、理解を拒み、にもかかわらず、魂の奥底から照らし出されるような体験。小さなひとりの人間の中で繰り広げられるかけがえない物語、憎悪と慈愛の共存、平時では考えられないような感情のうねり……戦争の原因や意味といった大仰なものではなく、人が何をどう感じたかを掬い上げた証言の数々。そこには哲学的な分析も歴史学的な考察もありません。にもかからわらず、闇深く恐ろしく、にもかかわらず抱きしめたくなるように愛おしく優しい、人間の恐るべき本質そのものを、この合唱は、理屈ぬきに私の胸に届けてくれる。この作品は、アレクシエーヴィチという稀有な人間にしかできない、多声性の結晶だと思います。

    **

    私をただただ圧倒したこの作品を魅力的に解説するためにどのような補助線を引けばよいのか、多くの視聴者の方に手にとってもらえるようなきっかけをどう作っていけばよいのか。悩みに悩んでいたさなかに出会ったのが、今回講師をしてくださった沼野恭子さんでした。東京外国語大学で毎年行われていた翻訳文学について深く考察するシンポジウムで、あるときは司会を見事にこなし、発表者としても胸のすくような小気味の良い分析で聴衆を魅了していた沼野さん。実は、ノーベル賞受賞直後に、アレクシエーヴィチを東京外国語大学に招聘するのに一役買った一人だと、ある研究者からお聞きし、調べてみると、直接アレクシエーヴィチにもインタビューされたことがあるといいます。

    **

    訳者であり日本へのアレクシエーヴィチ紹介の立役者である三浦みどりさんがご存命中であれば、三浦さんにもお話をお聞きしたかったところですが、いろいろな資料を読むにつけ、今、現役で活躍中の方では、解説は沼野さんしかいないと直観したのでした。

    **

    大森の喫茶店で、最初にお会いした際には、すでに詳細な資料も作ってくださっていて驚きました。番組で紹介した「母なる祖国が呼んでいる」のポスターの図版もすでに資料に掲載されていました。たくさん出してくださった論点を少しでも多く盛り込みたいと私のほうで整理させていただいたのが今回放送した四回分のテーマです。期せずしてですが、「プロパガンダ」の問題と「差別」の問題という二つの論点を組み合わせたことで、まさに戦争前と戦争後という一連の時代の変化の中で翻弄された人々の姿が浮き彫りになりました。沼野さんが準備してくださった詳細な分析があってのことと深く感謝します。

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    全てのシーンが胸に刻まれていて、語りたいことは数多くあるのですが、一つだけ深く印象に残ったことを紹介したいと思います。沼野さんは、第四回目のラストで、この作品から一番学ぶべきことは、「他者の声に耳を傾けること」「それを我が事として引き受けること」の二つであり、今の日本社会で少し軽んじられつつあることだという主旨のことを語ってくださいました。

    **

    「戦争は女の顔をしていない」の中で語られる多くのエピソードも、「戦争は残酷だな」と他人事のように感じるだけでは足りないと思います。例えば、第三回で紹介したニーナさんのエピソード。戦場で袋をほどいてスカートにしたことや大尉をおじさんと呼んでしまったこと、恋の話等々…お茶を飲みながら、時に笑い、時に泣きながら語ってくれたかけがえない証言を記録したアレクシエーヴィチ。出来上がった原稿を彼女に送った後に送り返されたのは、「愛国的な仕事」についての公式報告書と、アレクシエーヴィチの文章がほとんど残っていない、ずたずたに削られた原稿でした。

    **

    一人の人間には二つの真実があると語るアレクシエーヴィチはこう続けます。「心の奥底に追いやられているそのひとの真実と、現代の時代の精神の染みついた、新聞の匂いのする他人の真実が。第一の真実は二つ目の圧力に耐えきれない」と。

    **

    ニーナさんの姿は、私たち自身の姿です。誰が彼女のことを責められるでしょうか? 上司や周囲の同調圧力に屈して、自分が心の奥底で信じていることを捻じ曲げた経験は誰にでもあるはずです。私自身にもあります。権力への忖度や世間への迎合によって、心ならずも自らの信条を覆い隠し、「新聞の匂いのする他人の真実」に生きざるをえず、苦しんでいる人たちも多いかもしれません。

    **

    戦争という過酷な状況にいる人々の体験と私たちの体験とでは、比べるべくもありませんが、私は、「戦争は女の顔をしていない」で書かれていることを、他人事ではなく「我が事」として引き受けたいと思います。そのことをみんながやめてしまったとき、再び戦争は近づいてくる。そう思います

    **

    最後に、ベラルーシでの民主化運動への関わりについても、しっかりとリサーチして大事な番組の構成要素として組み立ててくれたディレクター陣に深い感謝を捧げつつ、そのさなかで今も闘い続けているアレクシエーヴィチの言葉をひいて、このコラムを締めくくらせていただきます。新型コロナ禍にある私たちの現実にも深く突き刺さる言葉です。

    **

    「人の命は物事を測るものさしであってはならないのです」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

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