侘助椿(薄田泣菫)

「この花には捨てがたい侘があるから。」
かういつて、同じ季節の草木のなかから侘助椿を選んで、草庵の茶の花とした茶人の感覚は、確かに人並すぐれて細かなところがあつた。壁と障子とに仕切られた四畳半の小さな室は、茶人がその簡素な趣味生活の享楽を一盌の茶とともに飽喫しようとするには、努めて壁と障子との一重外に限りもなく拡がつてゐる大きな世間といふものを忘れて、すべて幻想と聯想とを、しつかりとこの小天地の別箇の生活のうちに繋いでゐなければならぬ。
 それには生活の方式がある。その方式といふのは、長い間かかつて磨かれた簡素な象徴的なもので、例へば、釜の蓋の置き場所から、茶杓の柄の持ち方に到るまで、きちんと方式が定まつてゐて、それを定められた通りに再現することによつて、方式それみづからの持つ不思議な力は、壺のやうに小さな茶室に有り余るほどゆつたりとした余裕と沈静とを与へ、そこにゐる主客いづれもの気持に律動と諧調とを生みつけ、また日ごとにめまぐるしくなりゆく現実の生活とは異つた、閑寂と侘とのひそやかな世界を皆のうちに創造しようとする。
 そのひそやかな世界では、床の間に懸つた古い禅僧の法語の軸物、あられ釜、古渡りの茶入、楽茶盌、茶杓、――といつたやうな道具が、まるで魔法使の家の小さな動物たちが、主人の老女の持つ銀色の指揮杖の動くがままに跳ねたり躍つたりするやうに、それぞれの用に役立ちながら、みんな一緒になつて茶室になくてはならない、大切な雰囲気をそこに造り上げようとする。大切な雰囲気とはいふまでもなく、閑寂と侘とのそれである。
 むかし、小堀孤蓬庵が愛玩したといふ古瀬戸の茶入「伊予簾」を、その子の権十郎が見て、
 「その形、たとへば編笠といふものに似て、物ふりてわびし。それ故に古歌をもつて、
    あふことはまばらにあめる伊予簾
       いよいよ我をわびさするかな
 我おろかなるながめにも、これをおもふに忽然としてわびしき姿あり。また寂莫たり」
といつたのも、その茶入が見るから閑寂な侘しい気持を、煙のやうに人の心に吹き込まないではおかなかつたのを嘆賞したものなのだ。
 もしか茶室の雰囲気に少しでももの足りなく感じたら、そんな場合には何をおいても床の間の抛入の侘助の花を見ることだ。自然がその内ぶところに秘めてゐる孤独感が、をりからの朝寒夜寒に凝り固まつて咲いたらしい、この花の持味は、自然の使者として、その閑寂と侘心とを草庵にもたらすのに充分なものがあらう。
 私は暗くなつた室でこんなことを思つてゐた。椿の花は小さく灰色にうるんで、闇の中に浮き残つてゐた。

3 thoughts on “侘助椿(薄田泣菫)

  1. shinichi Post author

    侘助椿

    by 薄田泣菫

    青空文庫

    https://www.aozora.gr.jp/cards/000150/card3386.html

     私は今夕暮近い一室のなかにひとり坐ってゐる。
     灰色の薄くらがりは、黒猫のやうに忍び脚でこつそりと室《へや》の片隅から片隅へと這《は》ひ寄つてゐる。その陰影が壁に添うて揺曳くする床の間の柱に、煤《すす》ばんだ花籠がかかつてゐて、厚ぼつたい黒緑《くろみどり》の葉のなかから、杯形《さかづきがた》の白い小ぶりな花が二つ三つ、微かな溜息《ためいき》をついてゐる。
     侘助《わびすけ》。侘助椿だ。―友人西川|一草亭《いっさうてい》氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏《ふ》み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。

            二

     言ひ伝へによると、侘助椿は加藤|肥後守《ひごのかみ》が朝鮮から持ち帰つて、大阪城内に移し植ゑたものださうだ。肥後守は侘助椿のほかにも、肩の羽の真つ白な鵲《かささぎ》や、虎の毛皮や、いろんな珍しい物をあちらから持ち帰つたやうに噂《うはさ》せられてゐる。現に京都|清水《きよみづ》の成就院では、石榴《ざくろ》のそれのやうな紅い小さな花をもつた椿を「本侘」と名づけて、肥後守が朝鮮から持ち帰つたのは、自分の境内にある老樹だと言つてゐる。実際世間といふものはいい加減なもので、肥後守が腕つ節の人一倍すぐれて強かつた人だけに、荷嵩《にかさ》になりさうな物だつたり、由緒がはつきり判《わか》りかねる品だつたら、その渡来の時日がぴつたり註文に合はうが、合ふまいが、そんなことには一向頓着なく、何もかもこの強者《つはもの》の肩に背負はすつもりで、
    「はて、こいつも肥後守ぢや」
    「ほい、お次もさうぢや」
    といつたふうに、みんな清正の荒くれだつた手がかかつてゐたことに決めてゐるらしい。

            三

     この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗《げんぞく》侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。
     それはともかくも、侘助椿は実際その名のやうに侘びてゐる。同じ椿のなかでも、厚ぽつたい青葉を焼き焦がすやうに、火焔の花びらを高々と持ち上げないではゐられない獅子咲《ししざき》のそれに比べて、侘助はまた何といふつつましさだらう。黒緑の葉蔭から隠者のやうにその小ぶりな清浄身《しやうじやうしん》をちらと見せてゐるに過ぎない。そして冷酒のやうに冷えきつた春先の日の光に酔つて、小鳥のやうにかすかに唇を顫《ふる》はしてゐる。侘助のもつ小形の杯では、波々《なみなみ》と掬《く》んだところで、それに盛られる日の雫《しずく》はほんの僅かなものに過ぎなからうが、それでも侘助は心《しん》から酔ひ足《た》つてゐる。

            四

    「この花には捨てがたい侘があるから。」
    かういつて、同じ季節の草木のなかから侘助椿を選んで、草庵の茶の花とした茶人の感覚は、確かに人並すぐれて細かなところがあつた。壁と障子とに仕切られた四畳半の小さな室は、茶人がその簡素な趣味生活の享楽を一盌《ひとわん》の茶とともに飽喫しようとするには、努めて壁と障子との一重《ひとえ》外に限りもなく拡がつてゐる大きな世間といふものを忘れて、すべて幻想と聯想《れんさう》とを、しつかりとこの小天地の別箇の生活のうちに繋《つな》いでゐなければならぬ。
     それには生活の方式がある。その方式といふのは、長い間かかつて磨かれた簡素な象徴的なもので、例へば、釜の蓋《ふた》の置き場所から、茶杓《ちやしやく》の柄の持ち方に到《いた》るまで、きちんと方式が定まつてゐて、それを定められた通りに再現することによつて、方式それみづからの持つ不思議な力は、壺《つぼ》のやうに小さな茶室に有り余るほどゆつたりとした余裕《ゆとり》と沈静《おちつき》とを与へ、そこにゐる主客いづれもの気持に律動と諧調とを生みつけ、また日ごとにめまぐるしくなりゆく現実の生活とは異《ちが》つた、閑寂と侘とのひそやかな世界を皆のうちに創造しようとする。
     そのひそやかな世界では、床の間に懸つた古い禅僧の法語の軸物、あられ釜、古渡《こわた》りの茶入《ちやいれ》、楽茶盌《らくぢやわん》、茶杓、――といつたやうな道具が、まるで魔法使の家の小さな動物たちが、主人の老女の持つ銀色の指揮杖の動くがままに跳ねたり躍つたりするやうに、それぞれの用に役立ちながら、みんな一緒になつて茶室になくてはならない、大切な雰囲気をそこに造り上げようとする。大切な雰囲気とはいふまでもなく、閑寂と侘とのそれである。
     むかし、小堀孤蓬庵が愛玩したといふ古瀬戸《こせと》の茶入「伊予簾《いよすだれ》」を、その子の権十郎が見て、
     「その形、たとへば編笠といふものに似て、物ふりてわびし。それ故に古歌をもつて、
        あふことはまばらにあめる伊予簾
           いよいよ我をわびさするかな
     我おろかなるながめにも、これをおもふに忽然《こつぜん》としてわびしき姿あり。また寂莫たり」
    といつたのも、その茶入が見るから閑寂な侘しい気持を、煙のやうに人の心に吹き込まないではおかなかつたのを嘆賞したものなのだ。

     もしか茶室の雰囲気に少しでももの足りなく感じたら、そんな場合には何をおいても床の間の抛入《なげいれ》の侘助の花を見ることだ。自然がその内ぶところに秘めてゐる孤独感が、をりからの朝寒夜寒《あささむよさむ》に凝《こ》り固まつて咲いたらしい、この花の持味は、自然の使者として、その閑寂と侘心とを草庵にもたらすのに充分なものがあらう。

     私は暗くなつた室でこんなことを思つてゐた。椿の花は小さく灰色にうるんで、闇の中に浮き残つてゐた。

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  2. shinichi Post author

    泣菫氏が近業一篇を読みて

    by 蒲原有明

    https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/files/47090_41598.html

     穉態を免れず、進める蹤を認めずと言はるる新詩壇も、ここに歳華改りて、おしなべてが浴する新光を共にせむとするか、くさぐさの篇什一々に数へあげむは煩はしけれど、めづらしき歌ごゑ殊に妙たへなるは、秀才泣菫氏が近作、「公孫樹下にたちて」と題せる一篇なるべし。はしがきによりて窺へば、氏が黄塵の繁務を避けて、美作の晩秋たまさかに骨肉の語らひ甘かりし折の逍遙に、この一連珠玉の傑品あり。「ああ日は彼方」と調べそめし開語すでになみならぬ勢整ひて、戦ひの場にはに臨める古勇士の一投足に似たり。やがて一篇の主題たる公孫樹の雄姿を描きては
      ここには長きその影を
      肩に浴びたる銀杏の樹
      天つ柱か高らかに
      青きみ空に聳えたる
      謂はば白羽の神の子が
      陣に立てるに似たりけり
    とありて、白日荘麗の観おもはず俗念一掃の清興を仰がしむ。
     遽かに雲影みだれ飛ぶ美作の高原、黒尾峠を吹きめぐるは那義山の谿にこもれる初嵐といふなるに
      「死」の如冷えし手をあげて
      来りて幹に攻めよれば
      見よ金色の肩ゆらぎ
      卑しきものの逆らひに
      犠牲となる葉を見よと
      嘲笑するどよめきに
      あらこぼるるよ乱るるよ
      千枝悉く傾けて
      嵐にそそぐ美しさ
      雄々しさ清さ勇ましさ
    げにも金色の肩のゆらぎには、うち誦する折の聯想いちはやく胸に浮びて、激越高調の琴声に刀、槍の響を伝へ、軍神電撃の令犯し難き叙事詩の境をまのあたりにするが如し。
    大空はしる雲の白き額うつぶすと言ひては、下の邦なる争ひの急なるを愁ひ、大樹も梢あらはに黄葉落尽のさまを譬へて素足真白き女の神の引照比喩頗る精彩あり。第三節に移りては詩想とみに凝り、多少の感慨主張は鋒鋩を露はし来りて、憤激の辞気は千歳癒えざる霊木の背の創に染み、とはに新らしき闘ひにしも慣れよ、その撓まぬ心のおごりこそわが世の栄なれ、幸なれと、急調に奏で了るあたり、奔湍のほとばしり壮なりとも称ふべきか。島崎藤村氏が落梅集には「常盤樹」の歌ありて、「常盤樹の枯れざるは百千の草の落つるより痛ましきかな」の悲壮声深く、恰も狭霧とざす大海のどよもしに似たりとおぼゆるに、またここには
      銀杏よ汝常盤樹の
      神の恵みの緑葉を
      霜に誇るに比べては
      何等自然の健児ぞ
    の鉄案洵に摧き難かり。つづいて奇警の句、
      われら願はく小狗の
      乳の滴りに媚ぶる如
      心弱くも平和の
      小さき名をば呼ばざらむ
    に至りては、声調措辞、泣菫氏が特技を観るべし。
     私かにおもふに、全篇晶潔透明の趣なく、雅醇のむねに欠くるところありと雖も、こは恐らく泣菫氏が敢てなさざる末技なるべきか。毎詩必ず豊麗はこれあり、ややもすれば詞致雑揉に過ぎ、多彩の筆路、時として流滑の調を失ふと言ふは、評家の定議なれども、この篇の如きは、「ゆく春」集中「石彫獅子の賦」と類を同うし、強て彫琢を用ゐずして才藻富贍の裡、自から素朴の香高きもの。されどいつも感憤の大声ことごとしげなるには、ゆかしみ薄きここちす。嶺南の詩人レオバルヂが落葉のうたと言ふを読むに、きのふの秋風、けふの野分、われや卑しき槲の落葉の、深き岡部の森より野草しぼむほとりに吹き送られぬ。今また何処に徂かむ、風の誘ひのまにまに恐れなく悩みなくてあらまし、いづれもおなじさだめの行方に随はむ、かしこ薔薇の枯葉飄りゆくよ、またかしこ桂の落葉と、簡素にして幽趣掬するに余りあるこれ等の詩句には、幾代竭きざる情こもれりとおぼしく、わづらひ多き此世に命さだめなき身を寄せて、捉らへ難き歓楽を慕ひつくすあはれは
      ああ名と恋と歓楽の
      夢の脆きにまがふ世に
    など説くにも勝りたらずや、いかに。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    「薄田泣菫」は《すすきだ きゅうきん》と読む。これを読める人は、もうあまりいない。

    たぶん、薄田泣菫や蒲原有明の作品を楽しむ人も、もうほとんどいない。。。のだろう。

    私も今日まで、その名前さえ知らなかった。

     

    時は流れ、すべては忘れ去られる。

    人間の所業など、所詮そんなものなのだろう。

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