丸山眞男

歴史的認識は、たんに時間を超越した永遠者の観念からも、また、たんに自然的な時間の継起の知覚からも生まれない。それはいつでもどこでも、永遠と時間との交わりを通じて自覚される。日本の歴史意識の「古層」において、そうした永遠者の位置を占めて来たのは、系譜的連続における無窮性であり、そこに日本型の「永遠の今」が構成されたこと、さきに見たとおりである。この無窮性は時間にたいする超越者ではなくて、時間の線的な延長のうえに観念される点では、どこまでも真の永遠性とは異なっている。けれども、漢意・仏意・洋意に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした「古層」は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる格好の土壌となった。ところで、家系[いえ]の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁盛に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に、「いま」の感覚は、現在ではあらゆる「理念」への錨づけからとき放たれて、うつろい行く瞬間の享受としてだけ、宣命のいう「中今」への讃歌がひびきつづけているかに見える。すべてが歴史主義化された世界認識――ますます短縮する「世代」観はその一つの現われにすぎない――は、かえって非歴史的な、現在の、そのつどの絶対化をよびおこさずにはいないであろう。

2 thoughts on “丸山眞男

  1. shinichi Post author

    古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、「いま」にほかならない。われわれの歴史的オプティミズムは「いま」の尊重とワン・セットになっている。過去はそれ自体無限に遡及しうる生成であるから、それは「いま」の立地からはじめて具体的に位置づけられ、逆に「なる」と「うむ」の過程として観念された過去は不断にあらたに現在し、その意味で現在は全過去を代表する。そうして未来とはまさに、過去からのエネルギーを満載した「いま」の、「いま」からの「初発」にほかならない。未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ、なるかなる過去が歴史の規範となるわけでもない。
    「今も今も」は、たえず動きゆく瞬間瞬間を意味しながら、同時にそれが将来の永遠性の表象と結びついている点で、まことに日本的な「今の永遠」を典型的に示すものであろう。

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