池田晶子

Ikeda人が死ぬということは当り前のことです。あまりにも当り前のことなので、近代以降の科学的な「知性の働き」は死の存在を前提に、死体を解剖して死を理解しようとします。しかし、死体を解剖しても死そのものは理解できません。一方、この死ぬという当り前のことを、これは何なんだろうと懐疑する精神の働きがあります。それが「理性の働き」です。理性は死という存在の謎に気づき、懐疑し、考え始めます。そして、その存在の不思議を前に愕然とし、その謎をただ謎として認めるようになります。この時、懐疑が純粋に信となるのです。
私たちは、当り前のことは当り前であるがゆえに「分かる」「知っている」と思い込んでしまいます。しかし、私たちが生まれ、生き、そして死んでいくという、その当り前のことのその意味はやはり謎です。そのような謎―私の存在、宇宙の存在、人生の意味などの謎はたくさんあり、それは分からない謎です。そしてそのような謎に正面から取り組み懐疑した時に、私たちは実は何も知らないのだと知るわけです。
このように私たちは真に考えれば考えるほど、自分の無知に気づきます。そして無知に気がつけば気づくほど世界の謎に気づき、その謎に対して謙虚になっていきます。そしてその時、純粋に信じるということを知るのでしょう。この様に「考える」ということと「信じる」ということは、同じ精神の働きの表裏なのです。

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  1. shinichi Post author

    信じることと考えること

    by 池田晶子

    http://www.chisan.or.jp/chisan/center/report/28.html

    様々な意味をもつ「信」

     本日は「信じることと考えること」というとても難しいテーマを頂きました。私は考えることを仕事としていますが、このテーマはまさに私が日々考えていることの核心であり、人間にとっての最大の難問なのではないかと思います。

     私たちがなにげなく使っているこの「信じる」という言葉はとても難しい言葉です。例えば「私は彼を信じている」という場合には、彼を「信用している」という意味で使います。また「仏や神を信じる」という時には「信仰」という意味、教祖を信じるといった場合には「盲信」「狂信」となり得るでしょうし、幽霊を信じるという時には「迷信」という意味にもなります。現代では特に、宗教的な信仰を持たない人は、「信」と聞くと、「盲信」「狂信」「迷信」を想起して、あやしいものに感じるようです。

     しかし一方で、教祖や幽霊をあやしく思う人も、国家や正義、自分が自分であることは信じています。それぞれの人がそれぞれの信じ方で、ありとあらゆるものを信じているわけです。このように「信じる」ということばは様々な意味合いと難しさを持っています。

    我在る ゆえに我信じる

     「信じる」ということばの反対は「疑う」ですが、その「疑い」の代表的哲学者であるデカルトは信をどう扱ったのでしょうか。「私とは何であるか。考える者である。考える者とは何であるか。すなわち、疑い、理解し、肯定し、否定し、意思し、意思しない、想像し、感覚する者である」。これはデカルトが精神の働きについて述べた文章ですが、ここで彼はその働きの第一に「疑うこと」を挙げています。しかし疑いの反対には「理解」を挙げ、「信」がでてきません。なぜでしょう。ひょっとして彼は、先にみた「信じる」ことの様々な意味合いと難しさを知っていて、わざとこの精神の働きから「信」を除いたのではないでしょうか。そして彼はこの「信」を除いた精神の働きを最大限に駆使してあらゆる存在を疑い、ついにあらゆる存在を疑っている自分だけは疑うことはできない、と気づくわけです。

     そしてここで面白い現象が起こります。あらゆる存在を疑っている自分だけは疑うことはできない、と気づいた時、彼はまた、疑っている自分だけは信じることができると気づいたのです。面白いですね。しかし、これが本来の信じるということなのでしょう。神や国家はまだ疑う余地がありますが、そう疑っている自分は疑う余地がありません。疑いぬいたその先に信が生まれるという、何とも逆説的な現象ですが、このように、疑う精神のみが真に信じることができ、同時に、信じる精神のみが正しく疑うことができるのです。

    「考えること」と「悩むこと」

     では疑いの前提となる「考えること」とはどのようなことなのでしょう。一般的に「思う」ことは誰でもしているので、「思う」ことや「悩む」「迷う」ということと、「考える」ということが混同されて、デカルトのように「懐疑」するという、「考える」ことの本来の意味が忘れられているようです。

     本来の「考える」ということは、ある事柄の本質を知るために考えるということで、その事柄に関して「どうしよう」とあれこれ悩むことではありません。例えば多くの人が死について、「死んだらどうしよう」「死ぬとどうなるのだろう」と、「考える」と言います。しかし、これは死について悩んでいるのであって、考えているのではありません。「死んだらどうしよう」と悩むためには、まず「死」について知っていなければなりません。しかし、人は他者の死をみて、それが死であると知っていると当り前に思い、まったく「懐疑」しようとはしません。

    「知性」と「理性」

     人が死ぬということは当り前のことです。あまりにも当り前のことなので、近代以降の科学的な「知性の働き」は死の存在を前提に、死体を解剖して死を理解しようとします。しかし、死体を解剖しても死そのものは理解できません。一方、この死ぬという当り前のことを、これは何なんだろうと懐疑する精神の働きがあります。それが「理性の働き」です。理性は死という存在の謎に気づき、懐疑し、考え始めます。そして、その存在の不思議を前に愕然とし、その謎をただ謎として認めるようになります。この時、懐疑が純粋に信となるのです。

    「知らない」ことを「知る」こと

     私たちは、当り前のことは当り前であるがゆえに「分かる」「知っている」と思い込んでしまいます。しかし、私たちが生まれ、生き、そして死んでいくという、その当り前のことのその意味はやはり謎です。そのような謎―私の存在、宇宙の存在、人生の意味などの謎はたくさんあり、それは分からない謎です。そしてそのような謎に正面から取り組み懐疑した時に、私たちは実は何も知らないのだと知るわけです。

     このように私たちは真に考えれば考えるほど、自分の無知に気づきます。そして無知に気がつけば気づくほど世界の謎に気づき、その謎に対して謙虚になっていきます。そしてその時、純粋に信じるということを知るのでしょう。この様に「考える」ということと「信じる」ということは、同じ精神の働きの表裏なのです。

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