最近になって「生きる目的がない」、「仕事の目標が思いつかない」、「将来に希望がない」というような文章を目にすることが多くなった。そんなことについて「良い」、「悪い」とか、「誰のせい」、「何のせい」とか、いろいろな説明をする文章にもよく出会う。でも、それもこれも、「変化の加速」がもたらした過剰さによるのではないか。「目的がないのではなく、目的が持てない」、「目標がないのではなく、目標が持てない」、「希望がないのではなく、希望が持てない」というのが現実ではないか?
過剰さの成長や増殖には、不思議なくらいプロセスがない。過剰さの原因のテクノロジーを検証しても、プロセスは見えてこない。あるのは結果だけ。なんの面白みもない。驚くことに目的もない。目的は持つものではなく、AI を内蔵している情報とコミュニケーションのテクノロジーシステムからもたらされるものなのだ。過剰が目的を越えてしまったのか? そもそも目的はなかったのだろうか?
本来は、そして私たちが説明を受けてきたのは、「AI はあくまでも人間の補助であり、決めるのは人間だ」というレトリックだった。ところが実際に AI が使われている現場を覗いてみると、人間は何も決めてはいない。人間は結果を、そして結論を、AI から受け取るだけなのだ。AI が組み込まれたソフトウェアを使っているエンジニアは、なぜその結果がもたらされたのかも、なぜその結論が導き出されたのかも、知りはしない。すべて AI 任せなのだ。
どの国も、AI の開発競争に忙しく、AI の規制を始めようとはしない。言葉を変えれば、AI の進化を止めようとはしない。AI を前にして、人間は無力だ。何をしているかさえもわからないエンジニアに、何を期待するのか? 若い人たちは、そんなエンジニアになるために、10年も20年も勉強をするだろうか?
AI が人間のように意識を持つという日は、当分来ないだろう。でも、悪意のある人間が AI を利用することは、あるかもしれない。AI が軍事の分野で使われれば、恐ろしいことが起こってしまう。
ただ、ちょっと深く考えてみれば、ほんとうに恐ろしいのは、悪意のある人間ではなく、何も考えない人間だということに気づく。目的を持てずに育ち、AI から結果や結論を受け取るだけの人間が、どれだけ恐ろしいか。テクノロジーが恐ろしいのではない。テクノロジーが導き出した結果や結論に盲目的に従う人間が恐ろしいのだ。そういう人間は、すでにたくさんいる。そしてこれから増え続ける。減ることは、ない。
(sk)
第497作
Purposeless society
(The Society Series #2)