2 thoughts on “幸野楳嶺

  1. shinichi Post author

    幸野楳嶺

    https://ja.wikipedia.org/wiki/幸野楳嶺

    幸野楳嶺(1844年 – 1895年)は、江戸時代末から明治初期の日本画家。名は直豊、幼名は角三郎、字は思順、号は楳嶺、他に鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数。

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    弘化元年3月3日(1844年4月20日)、新町四条下ルに於いて金穀貸付業を営み、市内六軒の町奉行の一であった安田四郎兵衛の第四子として生まれる。

    嘉永5年(1852年)、楳嶺九歳の頃円山派の中島来章の門に入門する。この関係は、師の来章の許しを得て塩川文麟の門に入門する明治4年(1871年)までの約二十年間続く。

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    ふつう楳嶺の特徴と言えば、代表作とされる「帝釈試三獣図」や「秋日田家図(二宮尊徳幼児図)[1]」から推察される、教育的にして知性と感情が調和したような作風を指すのが一般的である。 しかし、他の作品を見ていくと、それらから逸脱する抒情的な作品も見られ、重厚緻密とも言える。

    また、初期の頃は円山派の中島来章に約二十年もの間、師事していたこともあり、円山派の影響を多分に受けていると考えられ、単なる四条派の後継者と見なすことは出来ない。

    しかし、四条派の主流を受けついでいるのも事実で、彼の作品群にもそれが現れている。

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    楳嶺は画家というよりも教育者として名高く、貢献も大きい。楳嶺自身もそれを自覚していたようで、様々な逸話が残っている。若い楳嶺がある時、京で外れることがないと評判の観相家に、「俺は日本で一流の画家になることができるか?」と尋ねた。すると、その観相家は「気の毒だが一流の絵師にはなれない。しかし、二流の絵描きにはなる。そして、おまえさんが育てた者の中から天下一流の絵描きが必ず出る。だから弟子を育てなさい」と答えた。それを聞いた楳嶺は「自分が一流の画家となれないのは残念だが、これも天運ならば仕方がない。俺は子弟を教育して天下第一流の者をつくりだしてやろう」と決意したという。後年、弟子たちにこの逸話を話し、「俺はお前たちの踏み台なのだから、遠慮なく俺を踏み台にして、俺よりも偉い者になってくれなくては困る」と言って励ました[2]。 また、その場その場に応じ適切な指導したエピソードも多い。門人たちが女の話をしていると「その女のどこが美しかったか言ってみろ」「ただ美しいと思うだけでは絵描きになれない。どこが美しいか研究しなければいけない」と諭し、弟子が庭掃除をしていると、「そんな掃き方をしたら、緑青ではムラになるぞ。どこから初めてどう掃くか、最初に目的を決めて順序を目で測ってやれ」と注意した。火事が起こり、門人が慌てて見に行こうとすると、「写生帳を持ってきたか」「いえ、持ってまいりません」「写生帳を持たずに出てきて何になる。早く持って行ってこい」と説いた。

    厳しく徹底的に基礎教育をする代わりに、基礎が出来たら自由にさせていたようである。また、常に門弟たちを引き立たせるようにしていたようでもある。門弟が少し慢心していると絵の批評も痛烈にやるが、やや悲観している者があると拙い絵でも褒めてやり、その匙加減が絶妙だったという。

    楳嶺四天王
    楳嶺門下の高弟4名を指す。具体的には以下の4人。
    菊池芳文
    谷口香嶠
    竹内栖鳳
    都路華香

    もちろん「楳嶺四天王」以外にも弟子はいた。具体的には以下の通り。
    森川曽文
    三宅呉暁
    加藤英舟
    多田香疇
    川合玉堂
    川北霞峰
    上村松園
    田南岳璋
    五代清水六兵衛
    森本東閣 楳嶺長男
    幸野西湖 楳嶺次男

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