大内衆衛

言葉が痩せていく、コミュニケーションにおける言語の位置が移ろい、変化していく。
インターネット的空間では対話のように見えて対話ではないものが蔓延する。だれもが参加できる空間であるがゆえに、あらゆる議論が並列化され、言論はすべて相対化されてしまう。言葉の持つ意味内容は空転する。重要なのは伝達される内容ではなく、繋がっていることそれ自体だからだ。
技術の発展は開放と自由をもたらす。私たちは暗黙のうちにそう信じて込んでいる。そして、恩恵を被っている間は尚更、産業技術に支えられた豊かな現実の危うさを人々は疑いはしないだろう。だが、偶然にも今日的環境の外側に飛び出した時、人は本来の感覚を取り戻すことがある。もちろんそれは不安と背中合わせの体験だ。

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  1. shinichi Post author

    情報・通信技術の進展と主体の消失 -今日のコミュニケーションを巡る問題-

    by 大内衆衛
    医学部4年
    第3回 弘前大学学生『言語力』大賞 コンテスト受賞作品

    http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/guidetop/gengoryoku/3rd/gengo3_ouchi.pdf

    言葉が痩せていく、コミュニケーションにおける言語の位置(あるいは重み)が移ろい、変化していく。言語を語る主体の身体もまた希薄化していく。そうした認識を私は日々強めている。これは思い過しであろうか?あるいは事実なのであろうか。安易な世代論に与するつもりはない。それでも、何かを手がかりに一つの時代を読み解いてみたい、そんな衝動に私は駆られる。これから展開するのは、その細やかな試みである。

    例えば社会学者の宮台真司氏は1995 年の出来事をどのように受け止めたかで(その時、その出来事を受けとめ得る能力を持ち合わせていたかどうかで)、世代が分かれるという。1995 年の時点で18 歳ならば、現在30 歳。そこに分水嶺があると言う。言わずもがな、1995年の出来事とは阪神・淡路大震災そしてオウムの事件である。

    また、大学で教鞭を執る宮台氏は何年か前から学生の脆弱さが目に余るようになったと指摘する。ゼミにおいて、レジュメの瑕疵を指摘しただけで、以後来なくなってしまう、そうした学生が増えているというのだ。このエピソードは世代間におけるコミュニケーションの齟齬または隔たりを意味し、その時の学生とは知り得ぬ他者の前で怖気づく子供のような存在である。では、その世代とはどのような世代なのか。その時代を画するのは如何なるものであろうか。

    ここで私は、情報・通信技術を手がかりに、この今という時代について考えてみたい。そして同時に、今日若者間で執り行われているコミュニケーションについて考えてみたい。無論それは現代を語る上での一つの切り口にすぎない。

    携帯電話やインターネットが人口に広く膾炙したのは恐らく新世紀前夜、つまり2000年あたりのことである。(携帯電話への移行期にはポケットベルなるものも存在していた)当時青年期中期(15~18 歳)にあった彼ら、彼女らは現在22~25 歳。それより下の世代は異性と親密になり、また他者を鏡として見出し、自己同一性を確立する最も重要な時期に予め携帯電話やインターネット環境が用意されていたことになる。その世代を、携帯的コミュニケーションのみを生きてきた世代、さしあたりそう名付けてもよい。この新世代の出現は一体何を意味するのか。

    携帯電話というツールは利便性と通信における個人の都合を最大限に追究したものだ。不快なノイズは一方的に捨象できる。好ましくない相手には無視を決め込み、それでも満足できなければ受信拒否、着信拒否なる機能で忘却の彼方に追いやればよい。コミュニケーションの背後で外部社会は遠方に退いていく。個人的感情を肯定すればするほど責任の感覚は鈍化していく。バーチャルな感覚の拡大は、社会性を帯びた存在として生きるリアリティを喪失させる。電話越しの対話より、相手の顔の見えないメールでのやり取りの方が益々重宝される。それもまた当然のことだ。メールほど責任の感覚を回避するのに都合の良いものはない。

    一方でインターネット的空間は対話のように見えて対話ではないものが蔓延する、永遠の独白の世界である。だれもが参加できる空間であるがゆえに、あらゆる議論が並列化され、言論はすべて相対化されてしまう。言葉の持つ意味内容は空転し、全てが陳腐化する。重要なのは伝達される内容なのではなく、繋がっていることそれ自体だからだ。携帯電話と同じく責任が免責される(免責されると感じられてしまう)構造がここにもある。

    技術の発展は開放と自由をもたらす。私たちは暗黙のうちにそう信じて込んでいる。そして、恩恵を被っている間は尚更、産業技術に支えられた豊かな現実の危うさを人々は疑いはしないだろう。だが、偶然にも今日的環境の外側に飛び出した時、人は本来の感覚を取り戻すことがある。もちろんそれは不安と背中合わせの体験だ。

    例えば、海外に出かけた時、あるいは電波の届かない場所へ赴いた時のことを想像してみよう。そわそわして落ち着かない。聞こえるはずのない着信音を聞いたり、ポケットの中で感じるはずのないバイブレーションを触知したりする。携帯電話を取り出して、着信やメールの受信を確認してみてもそこには何も見当たらない。そうしたことを繰り返しながらしばらくすると、外部臓器のように体と一体化した携帯電話の存在をふと忘れる瞬間が訪れる。そして束の間、束縛から解き放たれた何とも言いようのない開放感に包まれる。その時初めて、人は携帯電話に縛られたどこか不自由な日常を知ることになる。

    驚くべきことに、周囲の人々と話をしていると、こうした経験を有する者は少なくない。とりわけ、若年者でその傾向が顕著だ。ここで私の皮膚感覚と煌びやかな世界の背後に横たわる綻びの一側面が重なる。

    私は携帯電話を(あるいはインターネットも同時に)放擲せよと言いたいのではない。新たな情報・通信技術を手に入れることによって、私たちが失ったものに対して自覚的であれと言いたいのだ。

    主体とは責任の主体である。主体の希薄化は責任の鈍化とパラレルである。暴論を承知で言えば、携帯電話によってなされるコミュニケーションは(取り分け携帯電話のメールによるコミュニケーションにおいては)、ほとんど従来の意味でのコミュニケーションの体を為していない。主体が担保された二者間のコミュニケーションというより、それは寧ろ、匿名者の間で行われる暗号の遣り取りに似ている。そこでは何らかのメッセージが伝播されるのであろうが、情報発信者の顔は見えず、身体性や社会性が伝達行為そのものから抜け落ちてしまう。底の抜けた状態で為されるコミュニケーションというわけだ。

    コミュニケーションの内容が問題なのではない。人々はリアルな身体を晒すことを恐れ、空疎な言葉のやり取りに終始し、人との繋がりこそが重視される。それが携帯的世界の実態なのではないか。

    メディア理論の祖マーシャル・マクルーハンは情報技術あるいはメディアの進展とは身体の拡張であると主張した。携帯電話も同様に人の身体(耳や目あるいは口)が拡張されたものである。それと同時に彼はこう付け加えることも忘れなかった。身体の拡張は必然的な帰結として身体の消失あるいは切断を招くと。

    マクルーハンが予見した通り、人の身体及びコミュニケーションの主体は引き裂かれた状態にある。職場など他者と直接交わるような空間では今日ほどコミュニケーション能力が要求される時代はない。それにも拘らず、日常生活においては、携帯電話やインターネットといった他者を介在させない自閉的なコミュニケーションの殻に人は籠もったままでいる。不幸であるとしか言いようがない。こうした状況が社会病理の深い根となって広く蔓延している。そして現実と仮想世界との落差が大きければ大きいほど、人は苦悩し伝達不全を嘆き、時として引き籠り、うつ状態に陥りもするだろう。

    精神科医である内海健氏によれば、今日うつ病は爆発的な増加をみせているという。20年前には10 万人程度であった患者数はいまでは100 万人を超えようとする勢いだ。更に、内海氏の指摘で興味深い点はうつ病という病態それ自体の変容である。従来のうつ病は医師の理解を撥ね付けるようなものであったが、一旦回復過程に入ると首尾よく収束に向かった。しかし、今日の事例の多くがストレスや対人関係、過労によるものとされ、一方で思いのほか回復が長引くのだという。こうした事実は人々のコミュニケーション空間の変容あるいは情報・通信技術的環境の変化とどれだけ同期しているであろうか。実社会の変貌を背景にして、現今の過量服薬やリストカットなどの自傷行為の多さも、私には他者と繋がっていない(繋がっていないかもしれない)不安からくるものに思えてならない。

    精神分析的思考に従えば、子宮の中で保護された胎児の状態、その胎児化への断念、そして、その断念に基づいた母なる存在の喪失によって初めて人の精神活動は始まる。その欠如を埋め合わせるのは言語による活動の結果である。言語を介してなされる、新たな欲望の置き換えや移行が一つの系列を作る。その系列が人の個性及び主体となる。

    一方で言語的世界への飛躍の失墜は母なる世界への固着を意味する。それは子宮的環境に保護された自らのイメージの保存であり、これがナルシシズムと呼ばれるものだ。

    こうした議論に照らした時、外部社会への通路を閉ざし、仲間内の動物的繋がりにのみ終始した状態とは何を意味するのか。言語的世界からの逃避、あるいは主体の希薄化とは、まさに幼児化、そしてナルシシズムに満ち満ちた退行的世界への沈潜を示唆しているように私には思えるのである。

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