Category Archives: society

尾関章

言葉の貧困は目を覆うばかりだ。ボキャブラリーが痩せ細った、と言い換えてもよい。「緊張感をもって」「スピード感をもって」「説明責任を果たしてほしい」……政治家の発言を聞いていると、同じ語句が機械的に並べられている感じがある。
有名人が不祥事を起こしたときのコメントも同様の症状を呈している。「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」――記者会見があれば、ここで深々と頭を下げる。これは、官庁や企業の幹部が身内の不祥事について謝るときも同様だ。
市井の人々も例外ではない。たとえば、大谷翔平選手がリアル二刀流の試合で勝利投手となり、打者としても本塁打2本を連発したとしよう。街を行き交う人々に感想を聞いたとき、返ってくる答えは「勇気をもらいました」「元気をありがとう」。心のありようは物品のように受け渡しできないはずだが、なぜかそう言う。
これらを一つずつ分析してみれば、それぞれに理由はある。政治家の「緊張感」や「スピード感」は、無策を取りつくろうため常套句に逃げているのだろう。有名人や官庁・企業幹部の「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」は危機管理のいわば定石で、瑕疵の範囲を限定して訴訟リスクを下げようという思惑が透けて見える。そして「勇気」や「元気」は万能型の称賛用語で、ときには敗者を称えるときにも用いられる。
ただ、言葉の貧困から見えてくる共通項もある。今、私たちが無思考の社会にいるということだ。思考停止の社会と言ってもよいが、思考を途中でやめたわけではない思考すべきところを思考せず、それを避けて通ったという感じだ。思考回避の社会とも言えないのは、思考を主体的に避けたのではなく、自覚しないまま無思考状態に陥っているからだ。私たちはいつのまにか、ものを考えないよう習慣づけられてしまったのではないか。

Jakob Modéer

Building economic, social and political systems that generate maximum well-being for the population is not only a reflection of the populations’ collective beliefs, values and norms, but clearly values and norms are important, and to some extent dictate what type of economic, social and political systems can be built and sustained within a specific society. Of course, this is so because societies are mere reflections of the people that live there. Our individual actions and collective beliefs matter, we shape and form our own social, economic and political systems.

ユートピア

押し付けられるユートピアなんていらない
そんなものは 望まない

ユートピアだけではない
完璧なものなど ほしくはない

自由がないのは
ユートピアも ディストピアも 同じ

少し壊れている自由が ほしい
そのままの君が いい

Nikolai Berdyaev

We used to pay too little attention to utopias, or even disregard them altogether, saying with regret they were impossible of realisation. Now indeed they seem to be able to be brought about far more easily than we supposed, and we are actually faced by an agonising problem of quite another kind: how can we prevent their final realisation? … Utopias are more realisable than those ‘realist politics’ that are only the carefully calculated policies of office-holders, and towards utopias we are moving. But it is possible that a new age is already beginning, in which cultured and intelligent people will dream of ways to avoid ideal states and to get back to a society that is less ‘perfect’ and more free.

Michael Blastland

 
But how many believe they’re average? Most think they’re better than that—a self-confidence known, naturally enough, as the “above-average effect” or “illusory superiority.” Like everyone else, even Norm once thought he was better than average. This is illusory for obvious reasons. For example, since only half of drivers can be in the top half, if exactly half of all drivers thought they were in the top half, they could in theory all be wrong. Even if you’re genuinely better, you might not be much better. And if above-average driving ability turns you into an above-average jerk, you might be so cocky that you become a bigger hazard.

見えない社会

周りにはビルが立ち並ぶ
新しいビルもあれば 古いビルもある
目に入ってくるビルをぜんぶ作るには 何千億円のカネが要る
つまり この社会にはそれだけのカネがあるということだ
いったい どこの誰がそんなカネを持っているのだろう
大手不動産会社の売り上げは何兆円にもなり
毎年のように開発が行われているけれど
何兆円を出すのは会社や官庁ばかりで
お金持ちの顔はちっとも見えてこない
長者番付には金額とともに知った名前が載り
私たちはそれで納得させられているけれど
私たちが知らない金持ちが たくさんいることに
私たちは うすうす感づいている

ありとあらゆるところから広告や宣伝が垂れ流しにされ
広告や宣伝なしには電車に乗ったり街を歩いたりできない
インターネット上には広告や宣伝ばかりが駆け回り
メールを開ければ広告や宣伝が大事なメールの邪魔をする
広告や宣伝に何兆円ものカネが費やされていて
それぞれにモノを売りたい人がカネを出すている
そういうことは知っているけれど
私たちの目には見えてこない人たちが
情報を好き勝手に操っていることに
私たちは うすうす感づいている

テレビには政治家が映り 官僚の書いた作文を朗読する
作文はどれもすばらしく
実際には環境に悪いのに 良くするといってみたり
実際には経済は悪いのに 良くなっているといってみたり
実も 誠意も 悲しいほど ない
私たちは官僚が ただの公務員なのを知っている
政治家に 力がないことも知っている
官僚や政治家の裏に 力のある人たちがいて
その人たちが社会を操っていることに
私たちは うすうす感づいている

そんなのはぜんぶ妄想だ
私たちには見えてこない人たちなんて どこにもいない
社会は そうやって動いている
仕組みをひとつひとつ検証して行けば それはぜんぶわかってくる
そう言われても 僕は感じる
息苦しさに満ちた目に見えない社会があることを
その社会が 目に見えない人たちに操られているのを

正しい答えや よい答えが決められている社会では
社会の意向に沿う答えだけが正解で
考えた結果 出た答えは
どんなにいい答えでも この社会では間違っている

自分のことを社会に委ねたくない
そう思って僕は深呼吸をする
見えない社会が 出て行けという
僕は ああ 出て行くよという
あばよ

そんなわけで 僕は考える自由のある場所に行く

David H. Freedman

That’s where the third-party possibilities get interesting. If the Democrats do go with a progressive, and if Trump or someone in his mold is the Republican candidate, voters will face one of the starkest electoral choices in American history: lurch further to the left than the nation has ever gone before, or further to the right.
Evidence suggests that most voters aren’t interested in either option, nor in the continuing cycles of outrage and conflict either of these extremes would likely entail. “The two major parties are more extreme than ever before,” says David Shor, head of data science with progressive nonprofit OpenLabs and a leading Democratic polling analyst. “At the same time, the percentage of people dissatisfied with the system is larger than ever.”

多様化しない社会

ディジタル・テクノロジーは 0 か 1 かを迫る
社会には 白か黒かという短絡的な嗜好がまん延する
なにも無いか すべてかというように
どんなことについても はっきりとした選択が求められる
ディジタル・テクノロジーが 進化した社会では
どんな立場の人も 先鋭化する
政治的に右翼の人はは極右に振れ
左翼の人は極左に振れる
グレイは許されず 白か黒かを選ばされ
半分はダメで 0 か 1 しか選択肢がない
あいまいな立場が許されることはなく
あちらか こちらを選ばなければならない
保守的な新聞社のなかには 保守的な意見の人たちが集まり
リベラルな意見を認めようとしない
リベラルな新聞社のなかには リベラルな意見の人たちが集まり
保守的な意見を認めようとしない
ひとつの新聞社のなかに いろいろな意見があったほうがいいのに
違う意見は 排除され 淘汰されてしまう
そうこうするうちに意見は簡単に割れ
このことについては賛成で
あのことについては反対というように
繋がりは容易く断ち切られてしまう
内心では誰とも共鳴していないのに
違うことを怖れるあまり 他人の顔色をうかがう
疑心暗鬼の強い人は 裏切りや攻撃を恐れ
社交的でない人は 人間関係で孤立する
感情が制御がうまくなければ 人間関係がうまくいかず
注目を集めるのが好きな人は 傲慢な態度を取りがちだ
他人からの拒絶や失敗を恐れ 選択や決定を他者に任せ
秩序に従い ルールを守ろうとする
私たちはみんな ディジタル・テクノロジーのせいで
壊れてしまった
誰とも共鳴できず 感動を分かち合うこともなく
どんなすばらしい景色を前にしても
ひとりでそれを眺めている
そんな人ばかりの社会で
隣にいる君が微笑む
僕も明るく微笑む
陽が暮れてゆく

ウィキペディア

ダーティハリー症候群(Dirty Harry syndrome)は、緊張状態にある新人警察官が、自らを逞しく見せようとするあまり過度の暴力をふるってしまうことを指す俗語。以前は、ジョゼフ・ウォンボーによるワイアット・アープ症候群(Wyatt Earp syndrome)という名称が多く使われていた。
現実社会において、正義の執行者を自任し、「悪党に生きている資格はない」という判断、正義感によって、目の前の現行犯人をたとえ微罪でも射殺し、「逮捕に抵抗するからだ」と正当化してしまう。『ダーティハリー』はアメリカ映画のタイトルであり、「主人公ハリー・キャラハンが正義の名のもとに犯罪者を自ら次々と処刑してゆく」という映画の間違った印象にちなんで、この名で呼ばれるようになった。この映画の2作目では実際に症候群に侵された登場人物との対決が見られる。

中野信子

人の脳は、裏切り者や社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質である「ドーパミン」が放出されます。この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象をつねに探し求め、決して人を許せないようになるのです。
こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼ぼうと思います。この構造は、いわゆる「依存症」とほとんど同じだからです。有名人の不倫スキャンダルが報じられるたびに、「そんなことをするなんて許せない」とたたきまくり、不適切な動画が投稿されると、対象者が一般人であっても、本人やその家族の個人情報までインターネット上にさらしてしまう。企業の広告が気に入らないと、その商品とは関係のないところまで粗探しをして、あげつらう……。
「間違ったことが許せない」
「間違っている人を、徹底的に罰しなければならない」
「私は正しく相手が間違っているのだから、どんなひどい言葉をぶつけても構わない」
このような思考パターンがひとたび生じると止められなくなる状態は、恐ろしいものです。

社会の断面

 テクノロジーの進化によって生まれた社会の断面について考えてきたが、こうした断面が真っ先に現れるのは、テクノロジーの利用が進んでいる社会だ。社会体制が違った国であっても社会の断面は同じように現れるから、進んだ社会がどう対応しているかをよく見て参考にするのがいい。
 社会が変化に対応できるかどうかも大事だが、個人が変化にどうついてゆくかということにも目を向けてゆきたい。
 教育現場では、テクノロジーに囲まれて育っている子どもたちに、何も知らない大人たちが、テクノロジーを教える。そんなある意味滑稽な状況が、あたりまえのように見られる。
 会社では、テクノロジーを使うことが日常になっている部下を前にして、テクノロジーをあまり利用したことのない上司が、テクノロジーについての決定をくだす。決定の意味のなさを部下たちが指摘しても、上司には何がおかしいのかがわからない。
 変化があまりにも速いため、個人がそれについていけない。社会もついてゆけない。法律もついていけていないし、倫理はもちろんついていけていない。
 テクノロジーの進化による社会の変化を放っておけば、混乱すら生まれず、「変化の先端にいる人たちだけが変化を享受し、変化に気づかない人たちが失い続ける」というアンフェアな状態が定着してしまう。
 テクノロジーのアセスメントにもっと真剣にならないと、社会は変な方向に向かってしまう。いや、アセスしようとしまいと、変な方向に向かうことに変わりはあるまい。
 ここまで書いてきた社会の断面の兆候は、テクノロジーが進化する前から見られていた。だが、その頃と今とでは決定的に違うことがある。それは戻れるかどうか、つまり不可逆的かどうかということだ。もう戻れない。もう元のようにはならない。そう思うと、見えてきた社会の断面がずっしりと重たく感じられるのではないだろうか。

社会のバイアス

それぞれの社会のバイアスが
価値や意味の違いを生み出す

それぞれの社会では 価値や意味は
はじめから決まっているかのようだ

価値も意味も
話し合って変わるものではない

価値や意味が 社会と違う場合には
その社会から出て行くしかない

出て行くことができない場合には
社会を変えるしかない

社会が変わらない場合には
社会が変わるのを待つ

待っても変わらない場合には
諦める

諦めて
君との二人だけの社会を夢見る

Jeremy Pitt

The possibility of community bias can produce divergence over the meaning.
**
Algorithmic justice and algorithmic governance based on the principle “it is because the computer says it is” is surely neither just nor legitimate.

大矢英代

10年前の監視カメラはモノクロで画質も粗く、警備員が見るだけの存在にすぎなかった。今は違う。高画質監視カメラは、信号機や警察車両など街中のあちこちに設置され、市民の日常を見張り続けている。その点は日本も同じだ。角度の変更やズームも遠隔操作によって可能であり、アメリカでは顔認識機能によって人々の顔を自動的に読み込んで分析しているという。
警察官が着用しているボディーカメラも、大きく変化した。ボディーカメラは、警察がからむ事件や事故の現場検証のためなどとして、オバマ政権下で普及したが、監視ツールとしての機能が年々増しているという。
制服に取り付ける「ボタン型カメラ」まで開発されており、警察官はそのカメラをつねにオンにしておけば、通りすがる人たちや職務質問中の人の顔を読み取ることが可能だ。市民の気づかないうちに動画を撮影され、顔認識機能でデータ解析をされているということだ。
データベース「監視の地図」を見ると、ボディーカメラを導入している警察署は全米各地で1348カ所に上る。顔認識機能は368カ所で導入されている。
車のナンバープレート認識カメラを導入している警察署は586カ所だ。信号に取り付けられた固定式のカメラだけでなく、パトカーにもカメラが装着されている。街の安全を守るためにパトロールしているように見えるパトカーが、実は走りながら人々のデータを集めているというわけだ。
そうやって得たデータは巨大なデータバンクに集められ、人々が過去にどこに行ったか、誰を訪ねたかなどの情報が容易に割り出されているという。

奥寺淳

ある意味、中国はいま、ビッグデータを駆使した「デジタル情報社会」で世界の先端を走っている。日常生活で現金を使うことはほとんどない。決済はアリババの「アリペイ」とテンセントの「ウィーチャットペイ」に集約。スマホでの食事やコーヒーの注文、食材の配達、交通機関や携帯電話、インターネットの利用を通じて、個人の行動範囲や好みなどの情報が集められている。
支払い履歴などに問題がなければ個人の格付け点数があがり、金融機関で優遇金利をうけることもできる。一方、支払いの遅延などがあると個人の格付けが下がり、公共サービスで不利益を受ける仕組みまで導入されている。これらは、個人情報の管理をもとにした、監視社会とも表裏一体でもある。
個人情報などを集めたビッグデータは、人工知能(AI)の時代、「産業のオイル(原油)」とも言われる。中国の14億人のビッグデータを手にしたアリババやセンテントは、世界の中でも特殊な存在だ。個人情報の多目的な利用がますます厳しくなっている欧米とは異なり、便利になるならと市民も個人情報の広範な利用に寛容な傾向もある中国は、独自の発展を遂げている。

内藤篤


猥褻か? 芸術か? どころの騒ぎじゃない!! チャタレイ夫人、悪徳の栄え、愛のコリーダ…、昭和の先人たちが挑んだ芸術論としての猥褻論争も今は昔。ネット社会化により混迷するワイセツ規制は、いまや「ブツ」から人々の「思考」そのものへと、その権域の拡大を試みる。海外配信から、準児童ポルノ、非実在青少年、JKリフレまで…。「ヘア」解禁が話題となっていた1994年に刊行された旧版を、大幅な加筆と註釈によりメタ的にリノベーション。弁護士であり名画座館主でもある著者が、豊富な判例をもとに実証的に描き出す。もはや現代は「見えた」か「見えない」かではない、「見られて」いるのだ!!

デービッド・アトキンソン

強い相関関係を発見した場合、まずデータ自体を疑います。データ量は十分かどうか、恣意的なデータ選別になっていないかを確認します。
次に、因果関係を追求します。相関関係は偶然なのか。反証はできるか。
さらに因果の方向性を確認します。例えば、雨が降っているから傘をさす人が多いのか、多くの人が傘をさしているから雨が降っているのか。この例の場合、言うまでもなく前者が正しいです。当然、仮に一部の人が傘をさしていないからといって、雨が降っていないという結論にはなりません。
これらの作業の過程で、世界中で発表されている論文を検証し、学者のコンセンサスも探ります。

デイヴィッド・ライアン(David Lyon)

なぜ私たちは権力により監視には抵抗しつつも、
自ら個人情報を進んでアップし続けるのか?
SNSやビックデータによる「透明化」が私たちにもたらすものとは何か。
From 9/11 to the Snowden leaks, stories about surveillance increasingly dominate the headlines. But surveillance is not only ‘done to us’ – it is something we do in everyday life. We submit to surveillance, believing we have nothing to hide. Or we try to protect our privacy or negotiate the terms under which others have access to our data. At the same time, we participate in surveillance in order to supervise children, monitor other road users, and safeguard our property. Social media allow us to keep tabs on others, as well as on ourselves. This is the culture of surveillance.

津田大介、日比嘉高

イギリスEU離脱(Brexit)、トランプ現象、フランス大統領選挙、ロシアゲート、共謀罪、安保法制、特定秘密保護法などの強行採決、やりたい放題の閣議決定、原発問題、沖縄問題、豊洲市場問題、排外主義、語の意味をぼやかす言い換え、露悪的な「本音」の蔓延、フェイクニュース、オルタナティブ・ファクト、ヘイトスピーチ――
なぜ「嘘をついたもの勝ち」の世の中になったのか? おかしな時代の空気に、どう対抗するべきか?
2016年、Brexitとトランプ当選により、オックスフォード英語辞典の「今年の言葉」に選ばれて話題となった「Post-Truth(ポスト真実)」。ポスト真実やフェイクニュースは、ドイツやオーストラリアの辞書でも「今年の言葉」となり、事実に基づかない主張がまかり通る政治状況が世界的に広がっていることを示した。
もちろん日本も例外ではない。高い支持率を背景とし、事実に基づいた検証と民主的議論を軽視したような政権運営がなされていることは周知のとおりだ。しかし、安倍政権が終われば、日本のポスト真実の政治が終わるわけではない。「ポスト真実」とは、情報環境の激変や、事実を軽視し感情を重視する風潮、社会的な分断で新しいマイノリティが生まれていること、既存メディアの驕りなど、さまざまな現代的条件が生み出した、まさにわたしたちが生きる「今」を分析するための強力なキーワードなのだ。

小林雅一

「遺伝情報の総体」であるゲノムとは、様々な生物の設計図と言い換えることができます。
それを自由に書き換えたり、修正することができるとすれば、これまでより健康に良くて美味しい農作物や家畜、魚などを大量生産できるでしょう。あるいは、従来の医学では治すことのできなかった、深刻な病を根本的に治療することもできる。さらには私たちの背を高くしたり、顔形を美しくしたり、知能や運動能力を高めたり、病気や怪我をしにくい強靭な肉体や体質を作り上げる可能性も秘めています。

片桐雅隆

人間の社会を構成する「人間」とは誰だろうか。今まで、社会のメンバーとされてきた人間は男性や健常者であって、女性や障害者はメンバーから排除されてきたのだろうか。

また、今日、AIの進展でロボットが人間の日常生活にも浸透し、一方で、動物も人間と同じ知覚や権利をもつと見なされるようになってきた。では、ロボットや動物は人間と同じ社会のメンバーなのだろうか。

「人間とは何か」、「誰が社会のメンバーか」が今日ほど問われている時代はない。

壊れてゆく社会

 外国人に暴力を振るう日本の入管収容施設の職員たち、黒人に暴力を振るうアメリカの警官たち、女性に暴力を振るうアフガニスタンの男たち、自国民に暴力を振るうミャンマーの軍人たち。そういう人たちのことをおかしな人だと言う人は少ない。ところが、見た目や行動が違うというだけで、おかしな人だと言われれてしまう。
 人間には「普通」とか「標準」というものがあって、そこから外れている人たちを長いあいだにわたって「異常」とか「障害」という枠に閉じ込めて来た。
 テクノロジーの進化が「普通」を変えてしまうと、今までの「異常」が「普通」になり、今までの「普通」が「異常」になるというようなことが起きてしまう。
 実際、学校のなかでは「普通」と「異常」の逆転が起きていて、先生にとっての「異常」が生徒にとっての「普通」であり、先生にとっての「普通」が生徒にとっての「異常」だというようなことが、日常的に見られている。
 長い時間、下を向いて、画面を眺め続けているというのは、スマートフォンが登場する以前には間違いなく「異常」だったのだが、今ではそれが「普通」になってしまい、そうしない生徒は「異常」だと言われる。
 メッセージにすぐに反応して返信する生徒は、今までならば「異常」だったのだが、今ではそれが「普通」になっていて、30秒以内に返事をしない生徒は「異常」だと言われてしまう。
 生徒はあっという間に大人になる。学校で起きていることは、やがて社会で起きる。まず、学校のなかで生徒たちが壊れ、次に、社会のなかで大人たちが壊れてゆく。
 引きこもりの多くがコンピュータと共に引きこもったということに象徴されるように、多くの「異常」はテクノロジーの進化に起因している。
 バーチャルとリアルのあいだの壁が壊れつつある今、社会もまた壊れつつある。証拠は捏造され、画像を見ても映像を見ても、もうそれがほんとうに起きたかどうかは誰にもわからない。バーチャルがリアルのなかに入り込んでしまうと、バーチャルとリアルの切り分けさえ無意味になる。
 テクノロジーで進化したラブドールを相手にセックスする若い男は、間違いなく壊れている。テクノロジーで進化した外見を手に入れてラブドールのようになってしまった若い女も、間違いなく壊れている。そう感じるのは「異常」なのだろうか?
 「異常」が多数になり「普通」が少数になった時、それまで「普通」だった人たちは「異常」と呼ばれ、それまで「異常」だった人たちは「普通」と呼ばれる。そんな変化のなかで、多くの人たちが適応できず、壊れてゆく。
 テクノロジーが人間を壊してゆくのか、人間がテクノロジーを壊してゆくのか、それすらもわかりはしない。

暴走を止められない社会

 テクノロジーの進化が進んだ結果、テクノロジーを利用している人たちが、自分たちが使っているテクノロジーを止められないという困った状況があちらこちらに生まれている。人間の浅薄さが生んだテクノロジーの悲劇である。
 経済原理を優先させた人たちがテクノロジーを持つと、地球環境をあっという間に破壊してしまう。どんなものも乱獲し、そしてとり尽くし、ただでさえ少なくなってきている魚の漁獲量はゼロになり、希少動物は絶滅する。石や木や水といった「とり尽くしてはいけないもの」までもとり尽くした時、人間は終わる。
 人間のすることだから、今までの「普通」であれば、とり尽くす前にやめる。石炭がなくなる前に石炭の採掘をやめ、石油がなくなる前に石油の採掘をやめる。ところが AI に代表されるテクノロジーは、とり尽くすのをやめない。ニューノーマルのなかで、限度を知ることなく、とって、とって、とり尽くす。テクノロジーはまた、さまざまなものをあっという間に劣化させる。土を劣化させ、水を劣化させ、空気を劣化させる。
人間が作り出したテクノロジーの悲劇は、休むことができないことと、何も元に戻すことができないことだ。休みなくとり尽くしたものも、休みなく劣化させたものも、何ひとつ、とり戻すことができない。
この国が悪いとかあの国が悪いとか言っているうちに、そしてまた、あの会社が悪いとかこの会社が悪いとか言っているうちに、テクノロジーの進化は加速度的に進んでしまい、もう誰にも「進化するようにプログラムされたテクノロジー」を止めることはできない。
 最後の希望は地球の力だ。地球のエコシステムのほうが、人間のテクノロジーよりも強いと思いたい。地球のエコシステムが牙を剥き、人間のテクノロジーを破壊するのを夢見る。ただ、そんなことが起きた時には、人間は終わっている。
人間が終わらないためにも、地球環境の破壊を防ぐためにも、まずテクノロジーを人間の手に取り戻さなければと思う。そして、テクノロジーを使って何をしようとしているのか、もう一度深く考えなければと思う。

疲れ果てた社会

 テクノロジーの進化についていけば、人間は楽しく生きることを忘れ、仕事の枠組みの中で能力を最大限に発揮する社会の機能になってしまい、過剰な疲労でいっぱいになってしまう。
 テクノロジーの進化に後れを取れば、進化した社会に後れを取り、進化した社会と同じようなアウトプットをテクノロジーなしに出さねばならなくなり、疲れ果ててしまう。
テクノロジーの進化についていっても、ついていかなくても、いずれにしても疲れ果てる。どちらにしても社会は能力社会になってゆく。
 能力社会での疲労は孤独だ。孤独は、人と人を離れ離れにし、孤立させる。孤立した人たちはコミュニケートできずに、インターネット上のバーチャルな社会に存在を求める。その結果、孤立した人たちは疲れ果てる。
SNS の「いいね」で安心をし、閲覧数に一喜一憂し、疲れ果てる。インターネット上で見せる自分と実際の自分との乖離で自己嫌悪に陥り、疲れ果てる。
 カネに魅せられた人たちが、1分1秒を惜しんでインターネット上で売り買いをし、疲れ果てる。
 テクノロジーの進化がビュロクラシーに合うわけもなく、官僚組織は時代に取り残され、テクノロジーを取り入れられずに衰退してゆく。テクノロジーの進化に合わない会社組織も衰退してゆく。テクノロジーの恩恵にあずかることができない官僚組織や会社組織のなかで、人は絶望し、疲れ果てる。
 テクノロジーの進化に触れて、人は疲れ果てる。そして、社会もまた、疲れ果てる。

安定のない社会

 弁護士事務所が多くの時間を費やしてきた「判例の調査や関連法律・条文の洗い出し」は AI の得意分野であり、契約書や裁判所への提出書類のドラフトの作成が IT システムの得意分野であることがわかってくると、弁護士事務所へのテクノロジーの浸透が急激に進み、先進国では法曹分野でブロックチェーンを使う動きまで多く出てくるようになった。
 医療分野での AI の利用は他の分野より進んでいて、外科手術のなかには多くの AI の利用が見られ、よく知られている画像システムや診断システムのなかには AI が内蔵され、薬の情報や病院経営のデータベースはブロックチェーンに置き換えられ始めている。
大学も変化の外に留まることはできない。世界的に興味が集まる最新の講義をオンラインで聴くことができるというのに、なぜ自分の大学の授業だというだけの理由で興味を持てない講義を聴かなければならないのかという土木な疑問に大学関係者は誰も答えられないでいる。
 テクノロジーによる社会の変化が、弁護士や医者、大学教授といった職業にさえ影響を及ぼしかねない。特定の職業に就けば身分が安定する、あるいはいい大学を出て大企業や官僚になれば地位が守られるという緩やかな身分社会が、根底から覆され始めているのだ。
 新聞・放送・出版のような分野では「安定した」という言葉はもう過去のものになっているし、自動車産業の明日を信じる人は、自動車産業のなかにはもういない。製造も販売も大きく形を変え、安定を好む人たちには、とても嫌な社会が到来している。
 別の言い方をすれば「不安定でも構わないという人たちには、いい社会が到来した」ということなのだが、なかなかそうは言いきれない。不安定な社会で酷い目にあうのは、弱者だからだ。
 安定のない社会では、弱者をどう救済していくかが問われる。弱者をどうするかということが、政治や行政の一番の課題になってゆくのではないか。
 安定のない社会では、個人はどうしたらいいのか? 好きなことに的を絞ればいいのだろうか? 興味のあることにのめり込めばいいのか?
 これからの社会に安定はないと感じている若者たちは、ステータスを競い合うこともなければ、高級車に憧れることもない。いい時がやってきてもその後に悪い時がやってくるかもしてないし、悪い時がやってきてもその後にいい時がやってくるかもしてない。そう思えば、他人と比べることに意味はなくなる。
 あるテクノロジーの進化によって生まれた職業が、何年かすると別のテクノロジーの進化によって消えてゆく。その繰り返しを眺めていると、ひとつの職業で一生を終えることができる時代へのノスタルジーが湧いてくる。「経験がどうの」「知識がどうの」といって偉そうにしていた人は、もうどこにもいない。
 新しい知識を吸収し、経験値を高めていくことは、年齢を重ねるにつれて難しくなってゆく。スポーツ選手が若い人に追い抜かれて引退していくように、芸術家が若い人に追いやられて仕事を減らしていくように、みんなが若い人に席を譲る時代がきているのかもしれない。
 席を譲ったあと、どう生きてゆくのか。それは個人の課題であって、社会の課題ではない。

AI に影響された社会

 人間は見ることを学び、考えることを学び、話すことを学ぶ。AI も見ることを学び、考えることを学び、話すことを学ぶ。同じことをしているようだが、目指すところは違う。
 人間が見ることを学ぶというのは、「目に落ち着きを持ち、見られるものが自ら現れるのを待つ」ということに尽きる。見ることに集中し、深く考え、深く思い、長いまなざしで見ることができるようになればいい。
 それに対し、AI が見ることを学ぶ場合には、ディープラーニングという言葉とは裏腹に、浅い。インプットにすぐ反応し、最良と思われる方法で処理する。ためらうことも躊躇することもなく、手を休めたり佇んだりすることもない。疲れることもなく、否定することもない。ひたすらインプットを受け入れ続ける。
 人間には「何も考えない」とか「何もしない」という選択がある。サボることもできるし、出来ないと判断して止めることができる。ところが AI には「止めずに、し続ける」という選択しかない。ひたすら何かをし続けて、ひたすら肯定し続けるのだ。
 人間は答えがないという状況に慣れている。答えがあったとしてもその答えに自信が持てず、不安になる。ところが AI には、答えがないという状況は訪れない。いつも最良の答えが見つかり、揺らぎがない。
 AI を仕事にするなどして長いあいだ AI に触れていると、AI の影響を強く受けて、AI のような人間になってしまう。中断を嫌い、いつも忙しくしていて、どんなインプットにも反応してしまう。AI と同じことをしてしまうのだ。
 でも人間が AI と同じことをしても AI のようにはいかない。AI のように速く処理できないし、休みなしで処理し続けているうちに、判断は鈍り、疲れ果ててしまう。AI はインプットにすぐに反応し最良の方法で処理に向かうが、人間がインプットにすぐに反応すると必ずといっていいほどミスをする。
 人間には、能力を生かし続け、成果を生み出し続けることはできない。人間が AI のように否定しないで処理し続けていれば、疲れ果て、燃え尽きてしまう。新しいものに惹かれ、速さに惹かれ、見慣れないものに惹かれ、出来ないことに惹かれ、働き続けているうちに、壊れてしまう。
 人間は休みたくなるように出来ている。遊びたくなるように出来ている。逃げ出したくなるように出来ている。AI はどこまでも論理的で合理的だが、人間は非論理的で非合理的だ。人間が AI に影響され、AI のようになってゆけば、悲劇が待っている。

グローバルでない社会の断面

 テクノロジーの進化がグローバルであるため、テクノロジーによる変化もグローバルになる。そういう考えから、テクノロジーによる変化の影響を、いろいろな社会の断面として捉えて書いてきた。ただよく観察していると、「いくらテクノロジーが進化しようと、社会の変化はグローバルではない」というケースが、思いのほかたくさん見えてきた。そんな広がりが限定的なケースのことを、少しだけ書いておきたい。
 日本ではパチンコ屋が栄えていたが、平成7年の18,244店をピークに減少の一途をたどり、平成から令和になるころには 10,000店を割り込み、今では 9.000店を割り込んでしまった。最盛期には 500万台近くあったパチンコ台の数も、今では 250万台を割り込み、減少傾向は止まらない。それでも、平日の開店時に合わせてパチンコ屋の前に並ぶ人の列は相変わらず長く、パチンコ台の前に座る人の数は一向に減らないように見える。でもよく見ると、若い人がいない。若い人たちはネットカフェなどに入り、高性能な PC を前にして座り心地のよい椅子に座り、ゲームを楽しんでいる。コミックを読んだり、アニメを見たり、VR(バーチャルリアリティ;仮想現実)を楽しんでいたりもする。テクノロジーの進化によって、パチンコ屋はネットカフェに置き換わり、日本固有のパチンコの遺伝子はゲームの遺伝子に変異して受け継がれた。確かに見た目の感じは変わったけれど、日本の社会の本質は何も変わっていない。
 パチンコがゲームに置き変わったというのは日本という国固有のことだが、国という枠を離れても、同じグループに属する人は、同じアプリに興味を示す。たとえばイスラム教徒は、イスラム教徒の多い国にいようと少ない国にいようと、イスラム教のアプリを使ってメッカの方角や礼拝の時間を知る。でも、そういったアプリがどう進化しようがどんな機能が追加されようが、イスラム教徒以外の人たちは何の興味も示さない。テクノロジーが進化し、宗教のプラクティスはずいぶん便利になった。でも、宗教の本質は何も変わらない。
 本質が変わらなければ、社会に変化は起きない。グローバルではないことを寄せ集めても、何も見えてこない。

金儲けしにくい社会

 テクノロジーは儲かる。アメリカの Alphabet(Google)、Apple、Meta(Facebook)、Amazon、Microsoft などに目を向けてみれば、その意味は明らかだろう。IBM、インテル、シスコシステムズ、オラクルなどの古くからあるテクノロジー企業も安定した業績を残していて、テクノロジーがカネになるのは間違いない。
 そして中国のいわゆるチャイナテックを見てみると、カネになるという言葉の意味がもっとはっきりしてくる。IoT関連産業や AI関連産業は年20~30%、フィンテックは年60%の成長率を見せ、会社単位で見ても、字节跳动、百度、腾讯、阿里巴巴、华为技术、小米、京東などの業績はどれも右肩上がりが続いている。
 テクノロジー企業が資金を手にすると、会社の将来のために、資金を自社開発に投入したものだった。今の状況は少し違って、資金は他の有望なスタートアップへの投資に向けられる。成功した企業には最新のテクノロジーをキャッチアップすることは無理だから、スタートアップへの投資は理に適っていると言われている。
 もっともスタートアップの殆どは失敗に終わる。アメリカに限っても、テクノロジー企業の70%が失敗し、ハードウェア企業に限れば 97%が破綻に追い込まれている。中国の事情も、そうは違わない。なくなってしまう会社に投資しても儲かりはしない。それでも投資をするのは、成功した時の儲けが大きいからだ。
 テクノロジーはカネになると言われているが、テクノロジーだから金儲けにつながるというわけではない。テクノロジーと金儲けは分けて考えたほうがよいのだが、投資しなければ大きく儲けることもない。宝くじを買っている人が、買わなければ当たらないと言っているのと、何ら変わりがない。
 テクノロジーで金儲けをするのは難しい。金儲けができない理由のひとつは、パブリックセクターにある。税金のほかにもスタンダードだとかサーティフィケートだとかいっておカネを持ってゆく。それが重しになってしまう。もうひとつの理由は、金儲けが目的になってしまっていること。金儲けが目的になると、金儲けはできない。

余計な知識の要らない知識社会

 インターネット検索については、過大評価や過小評価が交錯し、なかなか正当な評価が見つからない。原因は単純で、誰が評価するかで評価が大きく違ってくるからだ。ユーザーの情報検索能力によって評価が高くなったり低くなったりする。情報検索能力は個人差がとても大きく、検索する人の能力が高ければインターネット検索は素晴らしい道具になり、能力が低ければ役に立たない道具になる。インターネット検索は、そういう道具だった。
 ところが、インターネット検索が AI やビッグデータに結びつくと、状況は大きく変わる。情報検索能力がなくても、素晴らしい検索ができるようになった。そして、知識というものについての考え方も大きく変わった。
「知識は共有できるのか?」とか「知識は管理できるのか?」というような疑問が、長いあいだ真剣に議論されてきた。知識の共有や知識の管理は、組織にとっては切実な問題で、組織の存続を左右する重要な問題だったのだ。
ところが、検索システムに AI が活用され、検索が進化した結果、そのような疑問はあまりなされなくなってきた。今では「知識の共有をどう行うか?」「知識の管理はどう行うか?」という疑問があたりまえになっている。これは大きな変化と言っていい。
知識は相変わらず不完全で、現実の問題の多くは不完全な理解の中で解決しなければならない。そのなかで、知識の共有ができ、知識の管理ができ、しかも問題の解決に有効な AI がある。知識についてのこの新しい状況を利用すれば、とても大きな力を持つことができる。知識と AI をうまく融合させれば、とんでもない量の質の高い知識を手に入れることができるのだ。
 AI と競争しても仕方のない分野は AI に任せてしまったほうがいいという考え方が浸透し、余計な知識は持たなくていいという共通認識が生まれてきた。AI には把握できない分野の知識や、AI と人間のインターフェイスがどうしてもうまくとれない分野の知識は、人間が持つしかないという考え方だ。
 AI をはじめとするテクノロジーは、データ・情報・知識を扱うのは得意だが、意見・思考・感想というようなものを扱うのはあまり得意ではないと言われてきた。意見・思考・感想などが外部からの情報に反応し、いとも容易く変化してしまうからだが、AI はそういうことも予測できるようになってきた。
 社会に同調するだけで、自分で考えなくなるのは、社会に隷属すること。そう考えてみても、AI と検索システムとに誘導されている自分が見えてきて、自分の考えだと信じていたことがすべて誘導された結果に思えてしまうと、果たして私は何を考えただろうという疑問でいっぱいになる。。
 実体の見えない知識社会で自分なりに考えてゆくというのは、思いのほか難しいようだ。

実のない社会

 テクノロジーに導かれた社会では、誠実さが通じない。AI には、まごころがわからない。誠実さもまごころもない社会には、実がない。
 生きるのは良いこと、死ぬのは悪いことというあまりにも安易な価値観がまん延し、その結果、死を迎えた人が死なず、寝たきり老人が増える。
 そんな価値観で生きる人たちにバイオテクノロジーの進化は理由もなく受け入れられて、細胞や遺伝子を操作することまでが素晴らしい進歩とみなされる。細胞や遺伝子を弄ぶことがどんなに危険か。気づいたとしても何もできない。つくづく、無力であることを感じる。
 最近では、脳のエンハンスメントと言って、ドーピングまがいのこと(というか、ドーピングそのもの)を堂々とする人たちが現れた。エンハンスしないほうが無責任だという論理さえ生まれてしまった。外科の手術の前にエンハンスしたほうが(つまりドーピング剤を使ったほうが)手術がうまくいく。ミスが減り、より多くの患者を救えるというわけだ。
 問題なのは、エンハンスメントなどということを公然と口にする人たちが多くなったことだ。テクノロジーの発達によってメンタリティが変わってきたというしかない。スポーツのドーピングにしても、衣服にしても、器具にしても、「どこまでが良くて、どこからが悪い」という線がなかなか引けない。
 エンハンスメントがより進んで、人を作り変えるようになってもいいのだろうか? 先端医療によって生まれた人造人間のような存在を、私たちは仲間として受け入れてしまっていいのだろうか? 素晴らしい業績を上げれば、スポーツが上手ければ、強ければ、それでいいのだろうか?
 より長く生きたい、より健康に生きたいという願望に支えられ、バイオテクノロジーの進化もあって、命に関する先端医療は加速度的に進歩している。そして気がつけば、多くの研究者や医療従事者が「人の命を作り変える」という神の領域に立ち入っている。
 倫理的に許されるかどうか真剣に考えることなく、人々の願望だけを優先し、命の意味も考えず、臓器を作り、入れ替える人たちを見ると、怒りすらこみあげて来る。
 ゲノム編集のように人が持っている性質を変えたり、遺伝子組換えのように人が持っていない性質を加えたりすることが、自分たちに許されると考えていること自体が不思議だ。
 地球上の生き物を人間の都合のいいように変えてしまったり、人間に都合のいい生き物を作ったりすれば、いったいどうなるのか。考えただけでも恐ろしい。
 でも、もう、バイオテクノロジーの進化は誰にも止められない。バイオテクノロジーがこれ以上ダークなものになっていかないように、世界中に通用するような倫理の確立が望まれるが、その兆しはまったくと言っていいほどない。

あっという間に消えてゆく社会

 テクノロジーの進化によって消えてゆくものがある。新聞が消え、テレビやラジオが消え、インターネット上のニュースもあっという間に消えてゆくのだろう。
 新聞を定期購読し新聞というメディアを信じている世代が、新聞など見向きもしない世代に置き換わった時、多くの新聞社は存在していない。
 インターネットでドラマやスポーツに慣れてしまった人には、止めたり戻ったりができないテレビを見ることは苦痛でしかない。
 インターネット上のメディアも、通信速度が速くなりデバイスが進化することで変容が加速していて、よりダイナミックでインタラクティブなメディアが出てくるのは時間の問題だ。
 社会が未成熟だった頃には、「知識人が多く集まったメディアが、無知蒙昧な大衆を教え導き、世論を形成する」というモデルが成り立っていた。社会の木鐸などと言われ、ジャーナリストたちにはそれなりの自負があった。
 インターネットのおかげで、社会の担い手たちにも、それぞれに、それなりの集合知が出来上がっていて、専門に関してはジャーナリストたちの集合知をはるかに上回っている。
 事実を伝えるのはネガティブな影響が多いからといって、事実ではなく真実を伝えようとか、正義を伝えようなどと思い上がってしまったジャーナリストたちを、社会はもう必要としていない。専門のことについては、ジャーナリストではなく専門家の言っていることを聞きたいと思うのはごく自然のことだろう。
 インターネット上には情報が溢れかえっている。ニュースひとつとっても、その量は人の手には負えない。次から次へと置き換わるニュースの信頼性をチェックすることは、もう誰にもできない。世界中のニュースをカバーしている人は、ひとりもいない。
 どんなことに興味を持ったとしても、次々に押し寄せて来る情報のせいで、興味は持続しない。せっかく地球温暖化に興味を持った若者がいても、次の瞬間にはセルティックの古橋亨梧選手のことに興味が移ってしまう。
 テクノロジーの進化もあって、製品のモデル番号は毎年のように変わり、古いモデル番号の製品は安くしても売れない。
 なにもかもがアッという間に変わる社会では、コンセンサスはとれない。みんなが饒舌なのに、議論が収束しない。何が重要で何が重要でないかというような基本的なことすら、コンセンサスはとれない。どんな社会が望まれるのか、社会はどのような方向に向かえばいいのか。誰にもわからない。
 地球温暖化とか、海洋汚染、水質汚染、大気汚染、森林破壊などといった人間にとって最重要の地球環境についてでさえ、コンセンサスは生まれない。地球温暖化の科学的なデータを前にしても、地球温暖化はでっち上げだという人は多い。汚染や環境破壊についても、事実が意見によってねじ曲げられる。
 テクノロジーが進化しビッグデータが大きな影響を与える社会では、人は真実を必要としていない。誰もが信じたいことを信じる。
信じさせたいデータをビッグデータのなかに充満させておけば、やがてそれが社会の民意になる。まっとうな意見とくだらない意見の違いがわからないテクノロジーが選び取るデータは、大勢を占めるくだらない意見ばかり。まっとうな意見の出る幕はない。
 コンセンサスのない社会で生きてゆくのは、そして、すべてのことがあっという間に消えてゆく社会に適応していくのは、そう容易いことではない。

コピー・ペーストの情報社会

 著作権の考え方は、インターネットの普及とともに大きく変わってきた。インターネット上では、CC(クリエイティブ・コモンズ)の考え方が、つまりコンテンツの2次利用が、当たり前になってきている。
 CC は CC という非営利組織とそのプロジェクトの総称で、CCライセンス(著作権ルール;コンテンツを提供する側が「この条件を守れば私の作品を自由に使って構わない」という意思表示をするためのツール)を提供している。
 CCライセンスを利用することで、作者は著作権を保持したまま作品を自由に流通させることができ、使用者はライセンス条件の範囲内で再配布やリミックスなどをすることができる。
 従来の著作権によって対価を得るという考え方では、情報が広がってゆかない。CCでコンテンツを公開し開放すれば、情報は世界に広がってゆく。
 実際にコンテンツを CCライセンスで公開してみると、コンテンツは許諾を求めてくることなく何か国語にも翻訳され、コピーされ、きちんとこちらへのリンクが張られている。結果として自分の記事や写真はいろいろなメディアにコピー・ペーストされ、名前や URL も載る。いいことばかりなのだ。
 そんなわけで、今日もコピー・ペーストの情報が世界中を駆け巡る。コピー・ペーストを侮ってはいけない。

ねじれた管理社会

 インターネット以前に、人は刑務所の延長のような管理社会が訪れることを危惧した。危惧は現実となり、工場は生産性向上のために管理され、学校は学力向上に向けて管理された。病院では病人が規則で管理され、介護施設では事故を防ぐという名目で管理が強化された。
 支配したものが権力を持ち、権力のある者が管理する。管理される者は自由を失い、まるで奴隷のようになってしまう。管理社会には「管理者」と「管理される弱者」という、極めてシンプルなモデルが存在していた。
 ところがインターネットが世界中を覆い、AI が身近なものになってみると、シンプルなモデルは最早なんの役にも立たないということがわかってきた。ブロックチェーンに代表されるように、AI を含めた最新のテクノロジーは、事実にしか意味を見つけようとしない。
 誰でもが「不正に改ざんされることのないブロックチェーン」を確認することができるということからわかるように、社会はどんどんトランスペアレントになってゆく。AI が論理的なことから、合理的な判断が広がってゆく。IoT端末が街中に溢れることで、街が安全になってゆく。
 テクノロジーによって生まれた管理社会は、誰にとってもいいものに見えた。テクノロジーによって誰もが自由を得られるはずだった。ところが実際の社会は残酷なくらいねじれた方向に向かっている。
 人がお互いを管理するだけでなく、テクノロジーも管理に加わる。軍事力、警察権力、税務権力といった権力や、会社組織や医療法人といった力のある組織は、毎日のように新しく生まれるテクノロジーを最大限に利用し、管理を強める。
 テクノロジーの進化によって管理能力が弱まると思われた権力や組織は、財力と法律とを最大限に使って管理能力を強め、管理の度合いを増す。
 疑心暗鬼になった人たちは、見られているのではないだろうかとか、わかられているはずだといった想像から、より強く管理されてしまう。
 トランスペアレントな社会になって、見張られるはずだった権力は秘密のなかに隠れ、すべての自由は根絶する。自分から進んで管理されようとする人たちは、ねじれた管理社会に安らぎを感じ、感謝さえする。
 情報とコミュニケーションのテクノロジーが進化して、情報とコミュニケーションが多くなり続けても、社会は良くならない。情報とコミュニケーションが社会に光を当てて明るい状態にするというのは、今となっては、ただの理想でしかない。
 インターネット上を駆け巡る情報とコミュニケーションは、想像や憶測を交えることで実際に起きたことよりもはるかに面白くなり、事実より存在感があり生き生きとしている。それと比較して、実際に起きたことは何の面白さも持ってはいない。
 多すぎる情報とコミュニケーションは、事実を歪めることはあっても、事実を伝えることはない。真理から遠ざかるばかりで、真理に近づくことはない。ゴタ混ぜの情報とコミュニケーションが暗闇に光をもたらすことはない。
 ねじれた管理社会は、自由がないという一点をもってしても、今までのどんな社会より暗い。

繋がりと共有の社会

 検索エンジンや SNS は使えば使うほど、自分と似通った興味を持った人たちや自分と同じような意見を持った人たちを引き寄せ、インターネットのなかに自分に近い人たちのコミュニティーを作り上げる。そのコミュニティーのなかでは自分に似た人にしか出会わない。異なった興味を持っている人や違う意見を持っている人は、外部の人として遮断され、出会うことはない。
 健全な社会では、いちばん適した答えを得るために、クリティカルシンキング(批判的思考)が欠かせない。批判がなく否定性が存在しない社会が、間違った方向に走り出すのは、歴史が証明している。
 検索エンジンや SNS が作り出しているのは、まさにこの間違った方向に走り出す社会だ。批判も否定性もない「大きな仲良しクラブ」のような社会は、危うい。
 ディジタルの「大きな仲良しクラブ」がメンバーに提供するのは、メンバーが好む社会の断面だ。好むものだけのインターネットは、好まざる人がひとりもいない快適な空間だ。地理的に遠い人もメンバー同士であればとても近い。そして親密だ。それに対して外部の人はとても遠い。
 親密さがすべての社会では、何をしたかよりも、どれだけ親しいかが重要だ。なにをしても「大好きな仲良しクラブ」のメンバーは無条件に賛成してくれる。何をしたかで評価されず、人柄やイメージで評価されるとなると、メンバーは自らを良く見せることに躍起になり、人気という実態のないものを得ようとして SNS にさらに没頭する。
 インターネットのコミュニティーのなかで、人は誰も自分の実態を見せたりはしない。装飾し、話を盛っている。その分、ひとりひとりは酷く孤独だ。検索エンジンや SNS が登場する前から孤独だったリーダーたちは、検索エンジンや SNS と共にさらに孤独の度を増している。孤独になればなるほど「大好きな仲良しクラブ」の必要性は増す。
 こうして嗜好の似た人たちの結びつきが強固になってゆく。

テクノロジーの進化による社会の変化

 テクノロジーの進化が加速して、社会が大きく変わってゆく。私たちは、情報とネットワークのテクノロジーが進化して、社会のルールや対人関係が変わるのを見て来た。変化はとても大きく、急激な速さで押し寄せてくる。それなのにどんな変化も日常のなかに隠れてしまい、誰もがその変化にあっという間に慣れてしまう。そのためか、変化が意識されることは、あまりない。
 スマートフォンと呼ばれる「通話・通信機能を持った超小型コンピュータ」を誰もが使うようになると、連絡方法やコミュニケーションの方法が大きく変わり、買い物の方法や予約の方法も大きく変わった。
「Google」や「百度」などのインターネット検索が社会に浸透し、情報のあり方が変わり、知識の意味が変わってしまった。暗記やメモに意味がなくなり、古い情報があっという間に淘汰されてしまう。
 何十億もの人たちが SNS(Social networking service;ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使い、他人と繋がる。繋がり方はかつて存在しなかったもので、地理的な制約がないこともあって、思ってもみなかったほど大きく広がる。その結果、社会は分断する。
 IoT(Internet of Things;モノのインターネット)という総称で呼ばれるインターネットに繋がったカメラやセンサーが世界中にバラまかれ、人びとの行動が記録される。IoT端末の数は、人の数を超え、増え続けている。それにつれて社会の監視能力も高まり続けている。
 ビッグデータというと、いまだに「アバウトなもの」とか「個人情報は含まれない」というような印象を持つ人が多いが、実際はとんでもない量の質の高いデータが集積され、日常的に売り買いされることで広まり、多様な目的で使われている。ビッグデータの社会への影響は驚くほど大きい。
 ビッグデータの対極にあるのが、ブロックチェーンだ。長いあいだデータベースに記録されてきたデータがブロックチェーンに記録されるようになり、不正に改ざんされることがないという長所が認識されると、その利用は急速に広まった。「自分の医療情報に、どの機関が、いつアクセスしたのか」というようなことがすべて記録され、それを自分で確認でき、しかもその記録が不正に改ざんされることがないのだから、用途は広がり続ける。ブロックチェーンは社会がトランスペアレントになってゆくことに大きく貢献している。
 AI(Artificial Intelligence;人工知能)の明確な定義は、未だに存在しない。それなのに AI はありとあらゆるモノに搭載され、教育現場、研究施設、医療現場、介護施設、金融機関、小売業、流通業、農業などなど、ありとあらゆるところに浸透し始めている。社会への影響は間違いなく大きい。
 そういったテクノロジーの影響は、過剰さが増え続ける社会、目的を持てない社会、予期された答えしか存在しない社会、さらけだされてしまう社会、トランスペアレントな社会、分断された社会、プライバシーのない社会、テクノロジーが監視する社会、何でも展示してしまう社会、コピー・ペーストの情報社会、余計な知識の要らない知識社会というような社会の断面として現れる。
 こうした様々な社会の断面は一見バラバラに見えるけれど、ひとつだけ共通した特徴がある。どれもテクノロジーの進化によって見えてきた社会の断面だということだ。そのために、後戻りすることがない。しかも加速度的に変わり続け、未来の姿は、どんなテクノロジーが出てくるかわからないこともあって、見えてこない。しかも、このような変化は社会体制に関係がない。自由主義の社会だろうが社会主義の社会だろうが、予期された答えしか存在しない社会やトランスペアレントな社会になることは、テクノロジーの進化を止めることができないように、防ぎようがない。
 以下に、テクノロジーの進化によって見えてきた社会の断面について書いてゆくが、このような変化は、誰にもコントロールできない。テクノロジーの進化を止められないように、社会の変化も止められない。残念ながら、変化を知ることで、変化に対応していくしかない。
 テクノロジーの進化を「ビジネス・チャンスだ」などといって経済的な利益ばかりを考え、社会の変化に注意を払わずにいると、社会があらぬ方向に向かっていってしまう。これから書いてゆく社会の断面について、危機感を持って考えていただけたらと思う。

何でも展示してしまう社会

 北アメリカやヨーロッパ、アフリカなどでは Facebook や Twitter、Instagram といった SNS を使って、中国や東南アジアなどでは QQ空间 や 微信、TikTok といった SNS を使って、何億もの人たちが自分自身を進んで展示している。
 とはいっても、投稿される画像や映像は、投稿者の生活を反映してはいない。誰も、自分のありのままの写真やビデオを投稿したりしない。悲しいニュースや悪いニュースを他人と共有したりもしない。展示されている自分は、あくまで見せたい自分や見られたい自分であって、自分の実像ではない。
 展示されているものが実像でないとわかったからといって、見に行く人の数が減るわけではない。そもそも見る人にとっては、展示されているものが実像かどうかは問題ではない。楽しいから見るという、ただそれだけのことなのだ。
 SNS がメンタルヘルスに与える影響について数え切れないほどの研究がなされていて、悪影響ばかりが指摘されているというのに、SNSを使う人の数は減らない。自分が見せたことに対する評価とか、何人見に来たかとか、何人「いいね」を押してくれたかとか、どうでもいいことを気にするようになると、SNS の利用時間が増してゆく。SNS上の他人を見て(それが実際ではないとわかっていても)羨んでしまったり、自分に対するメッセージやリツイートを見て傷ついてしまったり、落ち込みが続いてうつ病になったりと、いいことは何もない。
 SNS をやめるのは、実社会で人付き合いをやめるのに似て、とても難しい。

美が消えてゆく社会

 インターネットはポルノと共に発展してきたという意見がある。コンテンツの量をみるとポルノの占める割合はとても高く、そういう意見があながち嘘ではないように思える。ポルノは、崇高な美とは程遠い。覆いがなく、情緒もない。見せびらかしと言ってもいいほど何も隠さず、直接的に興奮を誘い、ドーパミンの分泌を促す。
 1990年代後半から World Wide Web の利用が普及し、まずは画像が、その後動画が、そしてライブ配信が、最近では AI を利用したディープフェイク・ポルノまで出てきて、インターネットポルノは一大成長を遂げた。テクノロジーのおかげと緩い規制のおかげでポルノは一大産業にまで成長し、検索すれば果てしない数の過激なポルノが無料で手に入る状況が生まれてしまった。
 小さい教室に何十人も押し込まれて少しでも他人と違うことをすると批判されるような「教育」を受け、人格形成ができないまま漫画やアニメに夢中になりゲームに没頭し大人になった男性が、インターネットポルノ中毒になるのは、自然の流れとしか言えない。頭に VR(ヴァーチャルリアリティ)ゴーグルを装着し、画面と連動したラブドールを抱きしめている姿は滑稽だし、そもそも美しくない。
 何が美しく何が美しくないかというのは個人的なことではあるけれど、インターネットポルノは麻薬に似て美しくない。脳を刺激し人間を劣化させるものが、美しいはずはない。
 ポルノだけではない。ロボットがどんなに外見を繕ってみても、生き物たちが持っている美しさを手に入れることはできない。テクノロジーの進化とともに、私たちの中から、人間が本来持っていたはずの謙虚さとか礼儀正しさといった美しさが消えてゆく。宇宙の静寂の美しさや、自然が醸し出す美しさも消えてしまう。
もっと言えば、プロセスの美しさも消えつつある。ブロックチェーンも IoT も AI もビッグデータも、大事なのは結果だけ。プロセスはブラックボックスのなかにあって、誰もプロセスのことを気にかけない。テクノロジーのせいで、プロセスが消えてゆく。
そして、美が消えてゆく。

テクノロジーが監視する社会

 IoTに代表されるテクノロジーによって社会の監視能力が急激に増大し、社会の透明性が高まってきている。監視というとネガティブなイメージが付きまとうが、監視のおかげで得られた街の安全や人々の安心は、人類がはじめて手に入れたものだ。
 普段はあまり意識することがないが、商用の人工衛星画像の解像度は向上し続けている。会社によっては100基以上の人工衛星を保有していて、さまざまな用途に使われているが、監視という目的にももちろん使われている。近い将来、私たちが宇宙から監視されてしまうのは間違いない。
 人工衛星とまで言わなくても、ロボットに組み込まれた検知装置、警官や警備員がからだに付けているボディカメラ、車に搭載されたドライブレコーダー、建物の中に据え付けられた防犯カメラ、街中に置かれた監視カメラ、そして、何億個ものセンサー。インターネットに接続された IoT デバイスが監視社会を支え、私たちの安心安全を保障している。
 人びとが期待するのは、警官がボディカメラを身につけることで警官の横暴が減るとか、ドライブレコーダーが車に搭載されることで乗客による運転手への暴力が減るとか、商店に防犯カメラが置かれることで盗難や万引きが減るというようなことだろう。
 でも実際には、映像のチェックはあまり行われるようにならない。その代わり、関係者の行動が驚くほど変化する。自分が監視されていると思った人たちが、それに合った行動を取るようになるのだ。カメラを着用した警官は暴力を振るわなくなり、監視システムを導入した商店では従業員の窃盗が減る。映像が証拠として使われることはあまりなく、人びとの行動の変化が際立って大きいのだ。
 もちろん監視テクノロジーによるネガティブな影響も出てくる。映像が管理者によって見られているのを知った従業員が、与えられた仕事だけをするようになる。それ以上のことは誰もしない。意味のない仕事でも考えずにこなす。個人の持つ知恵も知識も経験も仕事に生かされず、問題解決とか危機管理とかとは無縁の仕事場が生まれてしまうのだ。
 そんな無気力な職場が生まれてしまうのを防ぐために、テクノロジーによる監視に対応した職場環境の改善が必要だ。職員が「道徳的なことを含めての判断力」や「問題解決の先にある創造力」を持つことのできる職場環境というものは、そう簡単に作れるものではない。
 それと同時に、外部のこと、つまり大きく変わり続けている社会のことも常に頭に入れておかなければならない。誰もが映像を記録できる社会だということを忘れずに行動しないと、予期せぬ災難が降りかかる。
 以前のように監視する側と監視される側がはっきり区別できた社会と違い、全員が全員を監視している社会には、全く異なるルールが存在している。トランスペアレントであることをいいことだとし、可視的であることが道徳的に正しいとするならば、社会は退化してしまう。
「誰もが誰をも監視する社会」にはプライバシーがなく、また自由もなく、人間性もない。テクノロジーの進化が止められないとしたら、そして監視し合う社会の深まりを阻止できないとしたら、その先には地獄のような監視社会が待っている。
 権力を監視できるといって単純に喜んだり、安全安心の社会がやってきたといって満足したりしている場合ではない。

Ethan Bernstein

Video is not an all-seeing, neutral observer. The most significant impact of bodycams, taxicams, and the like is not reliving the past but, rather, changing behavior in the present. We act differently when we know we’re on camera.
The real upside of surveillance is the potential to spot and reward good work, not to deter bad conduct. A food-service study, for example, found that dining hall customers perceived greater employee effort and valued the service more when they could watch workers doing their jobs (through video-conferencing software on iPads). The effect was mutual: Employees felt more appreciated and, in turn, exerted greater effort when they had a clear view of customers. They completed orders much faster, and customers reported higher food quality. The reciprocal transparency created a positive feedback loop, generating value for both groups.
But transparency can also have an unintended negative consequence: Knowing that their managers and others will closely evaluate and penalize any questionable recorded behavior, workers are likely to do only what is expected of them, slavishly adhering to even the most picayune protocols. That’s what has happened in factory production work, where excessive transparency has thwarted both creativity and productivity.

Erin R.Hahn, Meghan Gillogly, Bailey E.Bradford

  • Children are not reliably accurate in identifying the origins of common foods.
  • Forty-one percent of children claimed that bacon came from a plant.
  • Children do not judge animals to be appropriate food sources.
  • Most 6- and 7-year-olds classified chicken, cows, and pigs as not OK to eat.
  • Children’s food concepts may help to normalize environmentally-responsible diets.

松岡正剛

『カムイ伝』は支配と被支配、差別と被差別のあいだを抉るために、そこに百姓一揆が隆起していくプロセスと、忍者が任務を遂行することによって抜け忍として自身の立場を喪失していくプロセスとを、二重にも三重にも多重にも組み回して掘りこんでいった物語なのであるが、そのどの一点にも全体の矛盾が噴き出るように仕組んだ物語でもあったのである。
白土はその数多くの一点を束ねる最大の一点に、徳川幕府最大のスキャンダルをもってきた。それならこれは一点が崩れれば全体が崩壊しかねないという物語構造なのである。
しかし社会の総体というものは、たとえどのような政変や戦争がおころうと、そのまま変節をくりかえして生きながらえるようになっている。