(立ち読み)6.2 異界


第6章 ある、ない、リアル、バーチャル
6.2 リアルへの不信
6.2.8 異界   (p. 492)


小松和彦の「異界」についての文章がとても面白い。「人間が生活している世界にはつねに、おびただしい境界が設定されている」という。境界のこちら側にある自分たちの世界、そして境界の向こう側にある異界。人びとはそのあいだにある境界を、意識したり無視したりして生きてきた。

人びとは異界について、さまざまな想像をめぐらしてきた。ある者は、境界を踏み越えて異界に分け入り、そこで体験してきたことを語り伝えた。またある者は、境界の向こうからやって来た者に会い、異界の様子を聞こうとした。その話は本当の話のようだったり、幻想の話のようだったりしたが、人びとはそういう話から、さらに多くの異界をめぐる物語を紡ぎ出していった。

日本人もまた、古代から現代に至るまで、境界の向こう側に広がる深い闇を見つめ、スサノオのヤマタノオロチ退治の物語や源頼光による大江山の鬼退治の物語、浦嶋太郎の龍宮訪問の物語等々、さまざまな物語を生み出し語り伝えてきた。日本人もまた、異界を想定することで、自分たちの世界を作り上げてきたのだ。

小松和彦の文章は、私たちをさまざまな場所に連れて行ってくれる。いろいろなことを信じさせてもくれる。それでも、現代の私たちが、異界を想定することはない。私たちの想像力は痩せ細ってしまっていて、もう誰も異界の話を信じない。

異界と呼ばれるような世界のことでなくても、神話も、伝説も、民話も、官製の歴史も、もう信じる人はいない。見世物小屋のなかの小さな異界も、もう信じる対象ではない。

想像の世界がすべて否定される社会が、幸せな社会とは限らない。「想像を膨らませ、それを信じるというような、人間としての基本的な能力」すら持たずに真実を知ろうなどというのは、水を持たずに砂漠を横切るようなものだ。

異界について知ることこそが、自分たちの世界を知ることになるのだという考え方は、そう間違ってはいない。