森公章

実際に遣唐使とともに留学した者の間でも満足な発音・会話が出来ず現地で長期間生活する上で必要な漢語の習得に苦労する者が多かった。

  • 天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語を務めた。
  • 橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており、最終的に2年間で帰国が認められている。

2 thoughts on “森公章

  1. shinichi Post author

    遣隋使および前期遣唐使に伴う留学者の内実を検討すると、その主目的は僧侶を中心とする仏教の整備にあり、総合的宗教としての仏教の理解に必要な学芸一般を深化することにあったと見なされる。推古朝以来、仏教を中心とした統合原理に基づく国家構築を進めてきた延長上に、僧侶の学芸に依拠したという特色が看取できるのである。国家統治の技術については、最新の隋・唐制を意識して吸収しようとしたのではなく、一般的知識として中国歴代の制度、特に隋・唐が歴史的に母体とした北朝、その淵源にある中国古典の周制を修得し、その机上の知識を現実の国家体制構築に適用したと解される。

    **

    真備や客死した井真成などは勉学や知識の修得、帰国時に将来する書籍の収集などに励む生活であったと推定されるが、途中で任務を放棄してしまう者もいた。『唐大和上東征伝』によると、天平度に戒師招聘のために入唐した栄叡・普照ら4人の僧侶のうち、玄朗・玄法は鑑真の1度目の渡海の試みが如海の誣告によって失敗し、拘束された後、「従此還俗別去」(宝暦12年版本では「従此還国別去」)とあり、以後の消息は不明になっている。

    **

    留学者の活動という点に関しては、俗人の場合は勝宝度くらいをピークに、以後9世紀にかけて遣唐留学の意味合いが変化していくのではないかと考えてみた。一方、僧侶については、延暦度の最澄の天台宗、空海の真言宗は顕密仏教の構築に大きな原動力になり、日本仏教の新たな基盤作りに寄与しており、むしろ9世紀にこそ熱心な入唐求法が行われるという相違点がある。
    天台宗に関しては、最新の密教導入に乗り遅れたこともあり、承和度の円載や円仁の派遣、以後も円珍の渡海などにより天台宗の完成への努力が払われている。また遣唐使事業には依存しない形の入唐求法、遣唐使の停止、唐の滅亡後も五代十国や宋への聖地巡礼という方法で中国仏教界との交流が続いていく。

    Reply

Leave a Reply to shinichi Cancel reply

Your email address will not be published.