遠いようなできごとだ。センセイと過ごした日々は、あわあわと、そして色濃く、流れた。センセイと再開してから、二年。センセイ言うところの、「正式なおつきあい」を始めてからは、三年。それだけの時間を、共に過ごした。
あのころから、まだ少ししかたってないのに。
遠いようなできごとだ。センセイと過ごした日々は、あわあわと、そして色濃く、流れた。センセイと再開してから、二年。センセイ言うところの、「正式なおつきあい」を始めてからは、三年。それだけの時間を、共に過ごした。
あのころから、まだ少ししかたってないのに。
センセイの鞄
by 川上弘美
センセイの鞄(p.275)
「センセイ」もういちど、わたしは呼びかけた。心ぼそかった。
「ツキコさん、ワタクシはいつも一緒だと言っているでしょう」
一緒だと言われても、センセイのことだ、わたしを置いてずいぶん先に行ってしまうに決まっている。ツキコさんはだらしないですね、ふだんの心がけが悪いんでござんしょう。そんなふうに言いながら、いつだってセンセイは行ってしまうのだ。
キノコ狩 その1(p.65)
センセイ、とわたしは言った。ため息のような声で。
ツキコさん、とセンセイは答えた。非常に明晰な、センセイじみた声で。子供は妙なこと考えるんじゃありまんよ。雷を怖がるような人間は、ただの子供ですからね。
センセイは大きな声で笑った。とどろきわたる雷に、センセイの笑い声が重なった。
センセイ、わたしほんとにセンセイが好きなんですってば。センセイの膝の上で言ったが、雷の音とセンセイの笑い声にかき消されて、ぜんぜん届かない。
梅雨の雷(p.174)
「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのと同時に隣の背筋のご老体も、
「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、「大町ツキコさんですね」と口を開いた。驚いて頷くと、
「ときどきこの店でお見かけしているんですよ、キミのことは」センセイはつづけた。
「はあ」曖昧に答え、わたしはセンセイをさらに眺めた。
月と電池(p.8)
いつも小島孝と「バーまえだ」にくると、この場所に自分がいるべきでないような気がする。しぼった音で流れるスタンダードジャス。きれいにみがきあげられたカウンター。一点のくもりもないグラス。かすかなたばこの匂い。ほどよいざわめき。非のうちどころがない。それがわたしを居心地悪くさせる。
梅雨の雷(p.164)
いつの間にやら、センセイの傍によると、わたしはセンセイの体から放射されるあたたかみを感じるようになっていた。糊のきいたシャツ越しに、センセイの気配がやってくる。慕わしい気配。センセイの気配は、センセイのかたちをしている。凛とした、しかし柔らかな、センセイのかたち。わたしはその気配をしっかりと捕えることがいまだにできない。摑もうとすると、逃げる。逃げたかと思うと、また寄りそってくる。
たとえばセンセイと肌を重ねることがあったならば、センセイの気配はわたしにとって確固としたものになるのだろうか。けれど気配などというもともと曖昧模糊としたものは、どんなにしてもするりと逃げ去ってしまうものなのかもしれない。
島へ その2(p.198-p.199)
センセイ、とつぶやいた。センセイ、帰り道がわかりません。
しかしセンセイはいなかった。この夜の、どこに、センセイはいるのだろう。そういえば、センセイに電話をしたことが、なかった。いつも、ふと会って、ふと一緒に歩いた。ふと一緒に酒を飲んだ。ひと月も話さない、会わないこともあった。かつて、恋人とひと月も電話をしなければ、会わなければ、心配でしかたなかった。会わない間に、恋人はかき消したようにいなくなってしまうのではないか。見知らぬものになってしまうのではないか。
センセイとは、さほど頻繁に会わない。恋人でもないのだから、それが道理だ。会わないときも、センセイは遠くならない。センセイはいつだってセンセイだ。この夜のどこかに、必ずいる。
お正月(p.94-p.95)