>川端俊一

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作家の三島由紀夫が1943年、18歳の時に書いた未公開の手紙が、受け取った学友の遺族宅に保管されていた。
保管していたのは、文芸春秋の元編集者、東眞史さん。東さんの兄、故・文彦さんは学習院高等科の三島の先輩に当たり、ともに文学の道を志して「赤絵」という同人誌を出していた。
手紙は43年6月5日の日付。その年に出版された国文学者、蓮田善明の「本居宣長」への感想をつづり、「詩美の点では保田與重郎氏、純粋さの点では清水文雄氏に劣るやうです。しかし学問の点では保田氏などより確かでせう」。いずれも当時の文学者や評論家。蓮田は敗戦時に自決し、三島の思想形成に影響を与えたといわれるが、作品を見る目は冷静だ。
同年5月、山本五十六が戦死したことが発表された。当時の新聞紙上には著名な文学者たちが追悼文や詩歌などを寄せたが、「山本元帥の戦死には襟を正しましたが、あらはれる感想文にはなかなかよいものがあつて逸話なども。。。近代の神話に発展してゆく過程を考えると美しうございましたが、詩歌はあまり振るはぬやうでした」。国運を揺るがす事態さえ文学の観点からみようとする姿勢が表れている。
東さんは「古い資料を整理していて見つかった。あの戦争の時代に、山本元帥の戦死について冷静につづっている点はとくに興味深い。三島さんの基本的な資質は『武』より『文』だった」と語る。
文芸評論家で関東学院大教授の富岡幸一郎さんは「若い時代の三島は、時局に寄り添う大人たちに強い違和感があり、出自である『日本浪曼派』の民族的な日本主義とも距離を置いていた。そうした気持ちをすべて理解してくれたのが東文彦氏であり、書簡にはその思いがあふれている」と語る。

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