于武陵, 井伏鱒二, 寺山修二

于武陵 井伏鱒二 寺山修二
勧君金屈巵
満酌不須辞
花發多風雨
人生足別離
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
 
 
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ

2 thoughts on “于武陵, 井伏鱒二, 寺山修二

  1. shinichi Post author

    (sk)

    寺山修司の引用は、多くの場合、間違っている。でも、だから、どうだというのだろう。

    寺山修司は、

    学生だった私にとっての、最初の名言は、井伏鱒二の
      花に嵐のたとえもあるさ
      さよならだけが人生だ  
    という詩であった。
    私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度のりこえたか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」という言葉は、言わば私の処世訓である。私の思想は、今やさよなら主義とでも言ったもので、それはさまざまの因襲との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維持を唱えるいくつかの理念に(習慣とその信仰に)さよならを言うことによってのみ、成り立っているようなところさえ、ある。

    と書いている。

    この文章は、何重にも間違っている。

    • この詩の作者は、井伏鱒二ではない。もともとは于武陵という人の手による。井伏鱒二は、ただ訳しただけなのだ。
    • 五言絶句の四行のうちの前段の二行を省略することで、意味を違えてしまっている。
    • 「勘酒」という題名を省くことで、酒を勧めるという一番の意味を、消し去ってしまっている。

    その結果、「現状維持を唱えるいくつかの理念にさよならを言う」というところにまで飛躍は続く。

    私が好きな

    もしも愛がすべてなら、愛しいお金はなんになる

    という文章にしても、寺山修司の引用はでたらめだ。

    では、寺山修司は、だめなのか、けしからんのか。そんなことはない。間違っていようと、なにをしようと、寺山修司の素晴らしさは変わらない。

    寺山修司の文章を読んでどれだけの人が元気づけられ、影響を受けたことか。そのインパクトは、元の于武陵の詩や、井伏鱒二の翻訳の比ではないように思える。

    寺山修司の引用が、もし学者のように正確であったなら、その文章はきっと、学者の書くもののようにつまらないものになっていただろう。そう考える時、不正確であることが文章に力を与えたのだということを、思い知る。

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