于武陵, 井伏鱒二, 寺山修二 2 Replies 于武陵 井伏鱒二 寺山修二 勧君金屈巵 満酌不須辞 花發多風雨 人生足別離 この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ 花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ
shinichi Post author16/12/2014 at 1:26 pm (sk) 寺山修司の引用は、多くの場合、間違っている。でも、だから、どうだというのだろう。 寺山修司は、 学生だった私にとっての、最初の名言は、井伏鱒二の 花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ という詩であった。 私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度のりこえたか知れやしなかった。「さよならだけが人生だ」という言葉は、言わば私の処世訓である。私の思想は、今やさよなら主義とでも言ったもので、それはさまざまの因襲との葛藤、人を画一化してしまう権力悪と正面切って闘う時に、現状維持を唱えるいくつかの理念に(習慣とその信仰に)さよならを言うことによってのみ、成り立っているようなところさえ、ある。 と書いている。 この文章は、何重にも間違っている。 この詩の作者は、井伏鱒二ではない。もともとは于武陵という人の手による。井伏鱒二は、ただ訳しただけなのだ。 五言絶句の四行のうちの前段の二行を省略することで、意味を違えてしまっている。 「勘酒」という題名を省くことで、酒を勧めるという一番の意味を、消し去ってしまっている。 その結果、「現状維持を唱えるいくつかの理念にさよならを言う」というところにまで飛躍は続く。 私が好きな もしも愛がすべてなら、愛しいお金はなんになる という文章にしても、寺山修司の引用はでたらめだ。 では、寺山修司は、だめなのか、けしからんのか。そんなことはない。間違っていようと、なにをしようと、寺山修司の素晴らしさは変わらない。 寺山修司の文章を読んでどれだけの人が元気づけられ、影響を受けたことか。そのインパクトは、元の于武陵の詩や、井伏鱒二の翻訳の比ではないように思える。 寺山修司の引用が、もし学者のように正確であったなら、その文章はきっと、学者の書くもののようにつまらないものになっていただろう。そう考える時、不正確であることが文章に力を与えたのだということを、思い知る。 Reply ↓
勘酒
by 于武陵
translated by 井伏鱒二
misunderstood by 寺山修二
(sk)
寺山修司の引用は、多くの場合、間違っている。でも、だから、どうだというのだろう。
寺山修司は、
と書いている。
この文章は、何重にも間違っている。
その結果、「現状維持を唱えるいくつかの理念にさよならを言う」というところにまで飛躍は続く。
私が好きな
という文章にしても、寺山修司の引用はでたらめだ。
では、寺山修司は、だめなのか、けしからんのか。そんなことはない。間違っていようと、なにをしようと、寺山修司の素晴らしさは変わらない。
寺山修司の文章を読んでどれだけの人が元気づけられ、影響を受けたことか。そのインパクトは、元の于武陵の詩や、井伏鱒二の翻訳の比ではないように思える。
寺山修司の引用が、もし学者のように正確であったなら、その文章はきっと、学者の書くもののようにつまらないものになっていただろう。そう考える時、不正確であることが文章に力を与えたのだということを、思い知る。