須賀敦子

昼間の疲れに押し倒されるようにして、すこしとろとろとしたようだった。ふいにベッドからほうりだされるような、からだが、無数の小さな手にささえられて宙に浮いたような感覚にゆすぶられて目がさめた。鐘。近くの教会の鐘が、夜中のヴェネツィアにむかってなにかを声高に告げている。時計を見ると一二時だった。とはいっても、それは、鐘楼の時計が、ただ、昨日から今日への境目としての時間を告げる、というふうではなくて、二○○年まえのこの夜、輝かしい彼らの音楽史の一ページとして、はじめて自分たちの歌劇場をもつことになったヴェネツィア市民の狂喜の時間をここでもういちどかみしめているような、まるでうつつをぬかしたような鳴りかただった。そして、その鐘の音を、冬の夜、北国の森を駆けぬけるあらしのような拍手が追いかけた。建物の内側の拍手と外側の拍手が重なりあって、家々の壁に、塔に、またそれらのかげに隠れた幾百の運河に、しずかな谺をよびおこすのを、私はもうひとつの音楽会のように、白いシーツのなかでじっと目をとじて聴いていた。

One thought on “須賀敦子

  1. shinichi Post author

    ヴェネツィアの宿

    by 須賀敦子

    こんなもの、さっき通ったときもあったかしら、と思いながら歩いていくと、ちょうど星(の形をした、道をまたいでぶら下がったネオンサイン)の下をくぐったあたりで、いきなり湧きあがるようなオーケストラのひびきが聞こえた。この時間にいったいどういうことだろう、とちょっと腹立たしい思いがあたまをよぎったとたん、私自身がなんともふしぎな光景のなかに足を踏みいれていた。
    目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、劇場のまえのゆるい傾斜の石段や、反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱え込むようにして地面に腰をおろしていた。あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。劇場に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、舞台の音が中継されているのだとはっきり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。それほどすべてが意表をついていて、不思議な幻の世界にひき込まれたようだった。

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