坂井豊貴

橋下氏は住民投票の多数決を「究極の民主主義」と言い表した。「選挙で勝った僕が民意」のように、多数決で自分を絶対化してきた彼の姿勢と、いちおう整合的ではある。
だがそうした言説の奇妙な点、そこに漂う暴力性の源は何か。それは多数決と民主主義との、はなはだしい混同である。
いたずらに多数決を有難がるのはただの多数決主義で、それはどうにか「自分たち」を尊重しようとする民主主義とは異なるものだ。例えば「皆で誰かをいじめる案」を賛成多数で決めてはならない。そのような道具として多数決を使うのは民主的でない。

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  1. shinichi Post author

    なぜ橋下市長は「多数決」を迫ったのか

    by 坂井豊貴

    PRESIDENT Online

    http://president.jp/articles/-/15564

    大阪市の住民投票は「多数決主義」の暴走

    5月17日に「大阪市解体と特別区設置」への賛否を問う住民投票が行われ、否決された。これに政治生命をかけ敗北した橋下徹・大阪市長は、約束通り12月の任期満了に伴い政界を引退する(予定である)。

    敗北の記者会見で橋下氏は住民投票の多数決を「究極の民主主義」と言い表した。「選挙で勝った僕が民意」のように、多数決で自分を絶対化してきた彼の姿勢と、いちおう整合的ではある。

    だがそうした言説の奇妙な点、そこに漂う暴力性の源は何か。それは多数決と民主主義との、はなはだしい混同である。

    いたずらに多数決を有難がるのはただの多数決主義で、それはどうにか「自分たち」を尊重しようとする民主主義とは異なるものだ。例えば「皆で誰かをいじめる案」を賛成多数で決めてはならない。そのような道具として多数決を使うのは民主的でない。

    橋下氏は「戦(いくさ)を仕掛けて叩き潰すと言って、叩き潰された」と言う。だが戦で仕掛ける住民投票は、政策というより政争ではないか。そうした多数決主義の暴走をギリギリ食い止めたものとして、僅差の否決を捉えねばならない。

    話を根本から考えてみよう。

    まず、自分のことは自分で決めたいという、人間の意志がある。この意志を「自分たち」に適用したとき、それは自分たちのことは自分たちで決めたいという、民主主義を求める心理の基盤となる。

    だが自分だけで決めることと、自分たちで決めることには、大きな違いがある。1と多の違いだ。

    1人で決めるだけなら話は早いが、多数となるとそうはいかない。人々の意見は違いうるからだ。だから集団で決定をするときには、異なる多数の意見を一つにまとめ上げねばならない。

    満場一致は理想的だが、その実現は多くの場合は見込めない。だから最終的には多数決をするのだ、と簡単に話を切り上げてはならない。むしろこれは話の出発点である。

    多を1に結び付ける方式、集約ルールは、多数決だけではないからだ。むしろ多数決はさまざまな集約ルールのなかでは、かなり出来が悪い。

    有名な例を挙げよう。2000年のアメリカ大統領選挙では、共和党のブッシュと民主党のゴアが、二大政党の擁立する主要候補であった。事前の世論調査ではゴアが有利、そのまま事が進めば彼が勝ったはずだ。だが途中で、緑の党のネーダーが「第三の候補」として新たに加わる。そしてネーダーはゴアの票を喰い、最終的にブッシュが「漁夫の利」で大統領の座を射止めることになった。

    多数決は「票の割れ」に致命的なまでに弱い。

    今回の大阪市の住民投票のように賛成・反対の2択なら票は割れようがない。だから多数決でよい、と安易に結論付けるのは禁物である。賛否を問われる案は、さまざまにありうるなかの、ひとつの案に過ぎないからだ。特に、今回問われた案は、大阪市を丸ごと解体して特別区に置き換えるという、かなり大がかりなものだった。

    住民投票で「民意」を問うのだという。だがそのような極端な案に賛成・反対の一方しか答えられない住民投票で、民意と呼ぶに値する何かが分かるのだろうか。

    喩えるならそれは食事のとき、水道水とウォッカのどちらか一方を選べというようなものだ。お茶やビールが欲しい人は、やむなくどちらかを選ばされることになる。

    人々の多様な意見を、賛成・反対の2色に染め上げた時点で、もはや中身のグラデーションは分からない。僅差の結果に「わずかに半数に届かなかった賛成をゼロ扱いするな」という声がある。それはそうだが、そもそも今回の住民投票が、多くの情報量を含むと考えないほうがいい。

    「ルール」を変えれば組織票の力を奪える

    住民投票が否決されたのち、橋下市長はさっそく別案として、市を残したままの「総合区構想」を持ち出し始めた。だが、もし彼が本当に「民意」に関心があるのなら、(1)現状維持、(2)総合区構想、(3)大阪市解体、への順序付けを有権者に聞いてもよかった。

    さて、そのように選択肢が3つ以上あるときに、「どれを一番支持するか」と多数決で聞いてはならない。票の割れが起こるからだ。それが起こると人々の声を適切に拾えない。ではどうするか。

    きわめて有力なのがボルダルール、「1位に3点、2位に2点、3位に1点」のような配点を、選択肢に加点していくやり方だ。この方法は多数決のような単記式でないから、票の割れ問題が生じない。

    なぜこの配点でなければならないかというと、票の割れに強いことを数学的に定式化すると、それを満たす配点の与え方はこの配点、つまりボルダルールの配点しかないからだ(※1)。だがこれはボルダルールの魅力の一つに過ぎない。

    そこで話を肝心なところに戻そう。満場一致の選択肢がないなら、「満場一致に一番近い選択肢」を選ぶのがセカンドベストということになる。それを選ぶのがボルダルールだ(※2)。

    直感的にいうと次のようになる。多数決で勝つ選択肢とは、相対的に一番多くの「1位」を集めたものだ。例えば、すべての有権者が、共通の選択肢を2位に支持しても、彼らがそれぞれ1位と思う選択肢に投票するなら、その「全員から2位とされた選択肢」が得るのはゼロ票だ。だから多数決の選挙だと、極端なことを言って、特定層から強い支持を受けたほうが有利になる。

    一方ボルダルールだと、そんなことをするのは不利だ。多くの人から少しずつ加点を積み重ねないと勝利しにくい。だからそのような政策、つまり広範の人々から支持を受ける政策を探し当てるインセンティブが政治家に働く。民主主義は多数派のものではなく(ノット・フォー・マジョリティー)、万人のためのものだ(フォー・オール)。ボルダルールはその理念と非常に相性がよい。

    選挙のたびに誰かを叩くバッシングの声が聞こえるのは、少なからず、多数決という「ゲームのルール」に起因するわけだ。ゲームの様子がおかしいときには、プレイヤーだけでなく、ルールを疑ってみたほうがいい。

    ボルダルールへの安易な批判に、「大きな改革ができない」といったものがある。万人配慮型の選択肢が勝ちやすいからだ。それは違う。いわゆる「決められない政治」は、その是非はさておき、現行の多数決のもとで起こっていることだ。既得権や組織票が力を持つのは、一部勢力の支持が結果に大きな影響を与えられる、多数決だからである。

    多数決もボルダルールも「計算箱」だと考えると分かりやすい。インプットに対してアウトプットを出す。だが多数決はわずかなインプットしか受け付けない。有権者は「1位」しか表明できないからだ。だから人々の心のなかで2位や3位が変わっても、多数決はその変化を反映できない。民意に敏感でないのだ。一方、ボルダルールだと、多くの人々の心を少しずつ動かす政策が着実に点を集め、社会を変えうる。

    社会制度は天や自然から与えられるものではなく、人間が作るものだ。いまそこにあるルールを、あるべき姿と混同してはならない。先の住民投票が、私たちが多数決主義の呪縛から逃れる契機になるならば、その「戦」にも時代のあだ花以上の意味があったことになる。

    ※1:これは社会的選択理論で、数学的に定式化され、証明を与えられる。拙著『社会的選択理論への招待』(日本評論社)の定理13を参照。

    ※2:中欧スロヴェニアではボルダルール、南国の島国ナウルではそれに似たものを国政選挙で採用している。また、日本の「マンガ大賞」はボルダルール、「本屋大賞」はそれに似たものを2次選考で活用している。

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