堀辰雄

夏になつた。路易は或る温泉湯へ娘を誘つて見た。娘は、承諾した。が、もう一人ほかに彼女の仲のいい娘を一しよに連れて行くといふ條件づきで。
その小さな旅行中、路易はさういふ娘の意地惡に對する復讐をひそかに考へてゐた。温泉場に着くと、娘はひとりで妙にはしやいでゐた。或る溪流のほとりを三人で歩いてゐた時など、娘はひとりでずんずん徑もないやうなところを分けていつて其處にきらきらしてゐる水を手で掬ひたがつた。しまひには生ひ茂つた草や木の葉が娘の姿を全く見えなくさせた。あんまりいつまでも見えなかつたので路易は崖の上から大きな聲で娘の名前を呼んだ。返事がなかつた。路易が氣づかはしさうに下の方をのぞきこんでゐると、連れの娘も一しよにそれを見ようとして、その顏をぐつと彼の顏に近づけた。その頬が匂つた。すると路易は夢中にその娘の肩へ手をかけながら、荒あらしくそれを引きよせて頬ずりをした。
間もなく徑もないやうなところから生ひ茂つた草を分けて娘が上つてきた。その顏が眞蒼であつた。ひどく呼吸を切らせてゐるらしかつた。さうして二人のそばにあつたベンチのところまで來ると、その上へよろめくやうになつて倒れた。
路易があわてて近づいて行つて見ると、
「何でもないわ……」と娘は言ひながら目を閉ぢた。

歸りの汽車の中で三人はぎごちなく沈默してゐた。
路易はまださつきの味のない接吻のことを考へてゐるらしく、「なんだ接吻なんてあんなものか」と言はんばかりの顏をしてゐる。それが接吻した相手を自分がちつとも愛してなんぞゐなかつたためであるとは知らずに。さうして路易は自分のこれまでにした唯一の接吻、地震のごたくさまぎれに小さなみすぼらしい娘にしてやつた、あの後味の大へん苦かつた接吻のことなんどを思ひ出すともなく思ひ出してゐた……。

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  1. shinichi Post author

    by 堀辰雄

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     路易はすぐ顏をぱあつと赤くした。
     自分でもいやな癖だと思つてゐたけれど、どうしやうもないのであつた。何でもないのに「そら、また……」といふ氣がひよいとする。が、その時はもう遲い。見る見るうちに彼の頬は薔薇色になつてしまふ。同級生たちには「吸取紙」といふ綽名までつけられる。どうしてこんなんだらう。いやだなあと彼は悲しんでゐる。その癖、路易の毛髮と言つたら! それは硬くて硬くて、ほとんど梳づれないほどであつた。だから彼はいつもそれをもじやもじやにさせて置いた。それは灌木林のやうに茂つてゐた。

     理髮店の思ひ出。アイロンの光澤のある、眞つ白な布に彼はすつかり包まれる。するとその中が窮屈で窮屈で、自分の手の置場所がないやうに感ぜられる。そのうち血が顏へさあつと昇つてくる。「そら、また……」さう氣のつくときは、もう彼の顏は一枚の吸取紙のやうになつてゐる。蒸しタオルがやつとそれを隱してくれる。石鹸の泡のひいやりとするのがほんとに氣持いい。顏を剃つたあと、最後の蒸しタオルがのけられる。そそつかしい理髮師はいつの間にか彼に彼のでないやうなよそよそしい顏をくつつけてしまつてゐる。彼はちよつと戸まどひしながら、理髮店を出る。

     路易には、その頃の寄宿舍の思ひ出は、寢室のいやなにほひや、結核患者の弱々しい咳や、毛のついた石鹸の氣味惡さで一ぱいだつた。
     寄宿舍へはひつたばかりの頃、路易は或る年上の圓盤投げの選手にいぢめられてばかりゐた。もう一人、路易のやうにその選手にいぢめられてゐる少年が彼とおなじ學級クラスに居た。或る晩、路易はその血色のよくない、痩せた少年と一しよに、さびしいグラウンドの方へ逃げて行つた。二人ともすつかりおびえ切つてゐた。その少年はいつか路易の手を握つてゐた。
     さうして彼は弱々しい咳ばかりしてゐた。路易はその少年のいつも血の氣のない頬がその時ばかりかすかに赤らんでゐるのを夜目にこつそりと見た。路易はそんな顏がうらやましかつた。
     路易は自分がその同級生に愛されてゐることを知つた。しかし路易にはそれよりか、自分がその少年自身になつてしまひたいのだつた。
     教室で、路易は、その少年の細そりした頸や軟かい髮のまはりに夢を編んだ。

     夏休みになつた。
     路易は母と一しよに或る海岸へ行つた。同級生は病氣になつた。彼はときどきラヴ・レタアのやうな手紙を書いてよこした。路易はそれにはろくすつぽ返事も出さなかつた。さうして同じ放館にゐるスポオツの好きな或る兄妹に夢中になつてゐた。日に焦けて、彼等は樹皮のやうな肌をしてゐた。路易はその男の子のやうな少女の氣に入りたいと思つた。彼はその兄のやうになるためにせつせとキヤツチボオルの練習や日光浴をした。
     或る時、海岸の大きな傘のやうな松の木の下に、その少女が一人の痩せぎすな青年とならんで一組の戀人のやうに坐つてゐるのを見つけた時の、路易の驚きやうと云つたら! 路易自身は彼の母からその青年にはあまり近づかぬやうにと注意されてゐたのだ。どうもその青年は肺結核らしかつた。
     浴室の曇りやすい鏡の中で、路易はぢいつと自分を見つめた。日に焦けかかつた彼の顏の色は赤いとも黒いともつかないものだつた。彼はしかめ面をした。

              *

     路易は十九になつた。夏休みになつても、田舍へなんか行きたがらなかつた。彼はわざと、自分の發育ざかりの肉體をいぢめてゐた。彼はすこし咳をし出した。彼の母がそれを心配して無理矢理に彼を以前の海岸へ連れて行かうとした。その前日、地震が起つた。
     そしてそれが路易のまだ子供らしくしてゐた夢の積木細工をひつくりかへした。
     ひどい混雜の中で、兩親にはぐれて一人ぼつちになつた路易は、途方に暮れて見知らない人々の跡について行つた。そのうちに、やはり途方に暮れてゐるらしい一人のみすぼらしい小さな娘に話しかけられた。その娘は女工だつた。その娘は自分の働いてゐた工場の慘事を彼にいかにも下手に物語つた。夕方、或る小さな村に着いた。村の廣場は、避難民や炊き出しをしてゐる村の人々でごつた返してゐた。それがまるでピクニツクでもしてゐるかのやうに二人には樂しく思へた。天幕の下で、二人は體をくつつけ合つて横になつた。夜どほし、路易は眠れなかつた。路易は自分に體をくつつけて寢たふりをしてゐるその娘に何度も頬ずりをした。
     あくる日、火事が下火になつたので路易はともかく燒跡へ引返さうと思つた。路易はその娘と昨夜のことは知らん顏をして別れた。燒跡にきて見ると、彼の父が一人きりで、まだぶすぶす燃えのこつてゐる火の上で自分のずぶ濡れになつたシヤツを乾してゐた。それを見ると路易は微笑した。彼の父は逃げ遲れて一晩ぢゆう川の中に漬つてゐたのだつた。しかし彼の母はいまだに行方不明だつた。夕方、やつとそれが川の中に溺死體となつて發見された。
     路易は自分の母の死體を川から引上げる手つだひをさせられた。その間、路易は何でもないやうな顏をしてゐた。夜、再び天幕の下で眠られぬままに、路易はふと昨夜頬ずりをしてやつた娘のことを思ひ出した。その思ひ出はたいへん苦かつた。路易は何ともかとも言ひやうのない顏をした。
     その娘の思ひ出は彼の中にいつまでも間歇熱のやうに殘つた。路易は、ときどきキニイネでも嚥まされたやうな顏をしながら、ところどころの水溜りに石油の浮いてゐるやうな濕つぽい工場町をぶらついた。さうして夕方へとへとになつて歸つてきた。

     路易は大學にはひつた。彼の父はその一人息子が文學をやらうとしてゐることには何とも反對しなかつた。何故なら彼はこの氣の小さな息子をすつかり信用してゐたのだつた。
     その夏、路易はずつと年上の或る詩人に連れられて、黒々とした山毛欅に縁どられた或る湖畔へ行つた。路易にとつては、その青い湖は何と大きなインク壺だつたことか! その中にペンを突込んでは、路易は詩の稽古をした。一日、詩人は彼を同じホテルに滯在してゐる或る實業家の令孃に紹介した。ふたりがいろいろ繪のことを話してゐるのを、繪のことをあまり知らない路易はそのそばで退屈をしながら、聞いてゐた。
     そのあとで詩人に「あの人はまるでルウベンスの描いたやうな顏をしてゐるだらう」と言はれると、路易はいきなりぱあつと顏を赤くした。それを路易は自分がルウベンスの繪のことを何も知らないせゐだと信じた。
     山毛欅の湖から歸ると、路易は早速ルウベンスの小さな畫集を買つた。中でも、「毛の帽子」をかぶつた女の肖像畫を見てゐると、その湖畔で會つたいかにも血色のいい少女の顏が、笑ふとそのふつくらした頬に出來る可愛らしい線までが、目に見えるやうだつた。しかし、その小さな畫集はすぐ他の本の下積みにされた。昨日まで自分の持つてゐたばかりのとそつくりな薔薇色の頬をその少女もしてゐるのが、路易には何となく氣に入らなかつた。

              *

     路易は二十一になつた。
     彼は前よりすこし痩せ、すこし悲しさうになつた。さうしてこの頃は一人きりでゐることの方が好きになつた。彼はまるで空虚な函のやうになつた。彼には氣に入りの友人をつくることもなかなか難しいのであつた。何故なら、少年の時から、彼の氣に入りの友人と言へばみんな彼の戀人のやうなものだつたから。さうして彼はもう相當の年齡になつてゐたし、それにこの數年といふもの彼はそんな愛の對象を異性の中にばかり空しく求めてゐたので、さういふ同性の戀人もいまさら得られないのだつた。
     しかしこの頃になつてやうやく路易は數人の若い詩人たちと近づきになつた。その若い詩人たちはみんな貧しかつたが、いかにも陽氣に暮らしてゐた。實は彼等の陽氣なのは彼等の貧しさから來てゐたのだ。が、路易はそれには氣がつかずに自分の空虚な函をそれでもつて一ぱいにしたがつた。
     或る晩、彼等は路易をカツフエに誘つた。路易は彼等の氣に入りたいと思つた。彼は彼等のあとから歩きにくさうに生れてはじめて地下室へ下りて行つた。
     數人の娘たちがゐた。路易はオレンヂエエドを飮みながら、そして煙草のけむりがしみでもするやうに半分目をつぶりながら、それらの娘の中から、まるで花の莖のやうに細い頸を少しかしげるやうにして立つてゐる一人の娘を選び出して、そればかり見つめてゐた。
     その娘はときどき痙攣するやうに笑つた。その度毎に、その弱々しい頸がいまにも折れさうになるので痛々しかつた。その笑ひかたが路易の心臟をどきどきさせた。

     歸りの乘合自動車の中で、路易のとなりに腰かけてゐた嵬といふ一人の友人が冗談のやうに彼に耳打ちした。路易はそれににつこりと笑つて見せた。それから彼は始めて見るやうに嵬の横顏をぢいつと見つめた。(そのとき嵬は、ちよいとセルロイドの縁の眼鏡をはづして、目が痛いやうにそこを指先で抑へてゐた。)路易はびつくりした。その眼鏡をはづした彼の横顏があんまり昔の圓盤投げの選手のそれに似てゐるやうに見えたのだ。
    「また、いぢめられるのかなあ……」路易はおもはず目を伏せた。

     その夜、路易は數年前海岸でしたやうに、鏡の中の自分をいつまでも見まもつてゐた。そしてそれを嵬のと比較した。それは數年前にはあんなにも彼の欲しがつてゐた病身らしい顏になつてゐるのに、今夜はその時とはまるで、彼の考へが違つてしまつてゐる。ああ、どうしよう。

              *

     或る嵐になりさうな晩だつた。路易は自分だけさきに歸らうと思つて蝙蝠傘を手にしながら立ち上つた。そのとき彼の空いてゐる方の手にそつと嵬が小さな紙片を握らせた。さうして彼に何やら耳打ちをした。すると路易はさも可笑しくつてたまらないやうに彼に目くばせしながら地下室を出て行つた。
    「――嵬んだ」薄暗いやうな階段の中途で、路易はすれちがはうとする娘にさう言ひながら、最初間違へて彼の蝙蝠を差し出した。それから彼は周章ててそれを引込めると、他の手に握つてゐた紙片を出した。
     娘はそれを受取りながら、突然痙攣するやうに笑つた……。

     そんなことがあつてからと言ふもの、路易はもう皆とカツフエへなんぞ行くことにあんまり興味がないやうであつた。そして路易は小説を書かうとしてゐることをその口實とした。事實、路易は去年の夏の湖畔における滯在を主題にした小説をちよつと書いて見たいやうな氣もしてゐた。さうして彼はすつかり忘れてゐたルウベンスの畫集をまた取り出した。ただどうも、路易はその小説の中でいかにも自分が「毛の帽子」に戀してゐるやうに書いてしまひさうだつた。それでは困るのだ。そのために路易はいつまでも筆をとることをためらつてゐた……。

     路易がそんな風になつてしまふと、嵬たちはときどき彼のところへ遊びに來ることはあつても、もう彼を誘ひ出さうとしないで、ただ彼から借りられるだけ金を借りた。路易はいつも父から貰ふ小遣をすこししか持ち合はせてゐなかつたけれど、それでも一晩位はそれでカツフエへ行くことが出來た。彼はそれをたいへん出し惜んだ。彼は自分が吝ん坊になつたのだと信じた。

     その日も路易はいつものやうにルウベンスの畫集をいぢくつてゐた。彼はもうすこし插繪のどつさり入つてゐる大きな畫集が欲しいものだと思つてゐた。そこへ嵬がひよつくり訪ねてきた。
     路易は「またか……」といふやうに眉をひそめた。
     しかしいくらか亢奮してゐるやうな嵬が彼に要求したものはただの紙とペンであつた。さうして彼は路易と入れ代つて机を占領した。路易は默つて、自分の前に荒々しくペンを走らせてゐる嵬の亢奮したやうな顏を、こはごは覗いてゐた。嵬は書きものをしてゐるときの癖らしく、ときどき眼鏡をかけたりはづしたりしてゐた。それをはづすと彼は圓盤投げの選手になつた。何遍も圓盤投げの選手になつたり、また嵬になつたりした。それが何かしら路易をおびやかしてゐた。
    「あのねえ……」嵬が突然手荒く封をしながら路易に言つた。「これをまた、頼みたいんだがなあ……」
     それは娘に宛てた別れの手紙だつた。嵬の話では、彼はときどきその娘をそとへ連れ出してゐた。或る日、彼はやつと約束をさせて娘を自分の下宿で待つてゐた。その日になると娘からは何度も電話がかかつてきた。すぐ來ると言ふかと思ふと、數分後にはどうしても來られないと言つてきた。それからまたそれを取り消した。娘はとうとう來なかつた。嵬はもうそんなのは厭になつてしまつたのだ……。
    「頼むからよ」彼はその封筒を路易の方へ投げつけた。
     路易はまるで遁げるやうな樣子をした。

              *

     路易は言ひつけられたとほりに、その翌日、公園の噴水のほとりで娘の來るのを何かせつかちさうに待つてゐた。路易は其處の石段の上で足踏みをしたり、靴の皮がすりむけるほど強くその石を蹴つたりしてゐる。さうしてときどき兩手を衣嚢かくしに突込んでは、高い噴水を見上げながら、「よく疲れないもんだなあ……」とでも言ひたさうな顏つきをしてゐる。
     さうかと思ふと、路易は向うの芝生の一角へ顏を向けながら、その目を開けたり閉ぢたりしてゐる。さうしてゐると、自分がぢいつと目をつぶつてゐる間に、ひよつこりその娘が芝生の上に立つてゐさうな氣がするのだつた。……そして彼が何度目かに目をあけて見たら、果してその目の中へ噴水と一しよに一人の娘の姿が飛び込んだ。……彼は跳るやうな恰好をしてそつちの方へ歩いていつた。
     娘はさういふ彼を認めると、なんだか戸まどひしたやうな微笑を浮べながら、その花の莖のやうな頸を少しかしげてちらつとお時宜をしたが、そのまま彼からすうつと離れて行つた。それが路易をまごまごさせた。さうして彼はほとんど無意識のやうに娘とは反對の方向へ數歩行きかけた。が、それから彼は、自分の手が衣嚢の中でいぢくつてゐるものに氣がつくと、急に半※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉をした。さうしてジグザグな線を描きながら、娘の方へ近づいて行つて、その後から皺くちやになつた封筒を娘の手に押しつけるやうにした。
     それは彼の手から娘の足もとに滑り落ちた。
     それにも彼は氣がつかなかつたやうに見えた。もう娘にはくるりと背中を向けてすたすたと歩き出してゐた。
    「可哀さうになあ……」公園を出て行きながら、はじめて我に返つたやうに路易はひとりごちた。「しかしこんな役割ばかりおれにさせるなんて嵬の奴もずゐぶんひどいやあ。そろそろおれを苦しめ出しやあがつたのかしら……」

              *

     實際、それからといふもの、路易は妙に落着かなくなり出した。書きかけの「毛の帽子」も打棄らかして置いた。さうしてこれまで家にばかり閉ぢこもつてゐた彼は、今度はほとんど毎日のやうに外出をしだした。彼は不快な臭ひのする友人の下宿にも平氣で入りびたつてゐた。そして自分から誘ふやうにして皆と一しよにカツフエへ行くのだつた。しかし、あの娘のゐるカツフエにだけは一度も行かうとしなかつた。さうしてみんなに酒を奢つては自分はオレンヂエエドばかり飮んでゐた。
     この頃嵬があまり姿を見せないのを不審に思つてゐると、彼がひとりで惡い場所へ通ひ出してゐることがわかつた。「可哀さうになあ……」と誰にともなく路易はつぶやいた。そんな噂を聞いてから、路易は自分で何故だかわからずに、よくひとりで贅澤な劇場や料理店へ行くやうになつた。
     土曜日の晩、路易は或る音樂會に一人でゐた。休憩の間に、彼は去年の湖畔で會つたお孃さんをちらりと見たやうに思つた。彼はすばやく人のうしろに隱れた。そして罪人のやうに心臟をどきどきさせてゐた。しかし、それは人違ひであつた。
     その晩、路易は地下室に漂つてゐるやうな薄暗い光線の中に誰であるかちよつと見當のつかない娘が一人向うむきに立つてゐる夢を見た。泣いてゐるのかしらと思つて彼が近づかうとすると、丁度凹面鏡の中に映つてゐる人間の姿がそれへ近づけば近づくほど小さくなつてしまふやうに、それはだんだん小さくなつて行つた……。
     次の日、路易は何だかそはそはしながら町へ出ていつた。彼はまづ理髮店へ入つた。そこから自分自身でなくなつたやうな樣子をして出てくると、彼はいかにもそれが初夏らしい午後であることに始めて氣がついたやうにあたりを見まはした。それから急に思ひついて、彼は郊外にある先輩の詩人の家を訪問した。
    「君の毛髮もずゐぶん硬こはさうだな……」と詩人は路易の刈り立ての頭へ目をやりながら言つた。
     路易はさも困つたやうな手つきで未だ自分とは似ても似つかない匂のしてゐる毛髮をくしやくしやにした。さうすると詩人は笑ひ出した。
    「僕も昔はずゐぶん硬い方だつたが……今ぢやもうこんなに薄くなつたよ……」
     それから詩人は彼にこの夏も湖畔へ行くかどうかと訊いた。
    「ええ……」路易はためらひがちに點頭うなづいた。數時間後、その詩人の家を出た時には彼はひどく物足りなさうな顏をしてゐた。
     その次の日もまた路易はそはそはしながら家を出ていつた。その癖、いつまでも或る友人の下宿にぐづぐづしてゐた。そこで彼は嵬が惡い病氣に罹つたといふ噂などを聞きたくもないやうな顏をして聞いてゐた。何んでこんな好い天氣なのにこんなところに居るんだらうと思ひながら。夕方、友人が散歩に誘ふと彼はいかにも氣が進まなさうについて行つた。
     それから二三日後、彼は朝早くからいらいらしたやうに町中を歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた末、或る眼鏡店のシヨウヰンドウの中をぢいつと覗いてゐた。そのうちにやつと自分の立つてゐる場所があの娘のゐるカツフエのすぐ近くであることに彼は氣がついた。どうしてこんなところへ來てしまつたのか彼にもわからないのであつた。
    「糞!」と言ふやうに彼は咽喉をつまらせながらその地下室へ降りて行つた。「晝間だからきつとあの娘はゐやあしまい……」さう自分自身に云ひ訣をしながら。
    「オレンヂエエド。」
     路易は自分のところに來た奴なんかろくすつぽ見もしないでさう命じたが、そいつがまだ其處にぢいつと立つてゐる。こいつは耳でも惡いのかしら。彼はそつと上瞼をあげた。……あの娘だ……。
    「オレンヂエエド?」娘は上氣したやうな頬をして、細い頸をすこしかしげて笑ひながら、鸚鵡返しに彼に聞きかへした。

     歸りがけに、路易は眼鏡店でさつき見ておいたセルロイドの縁の眼鏡を買つて行つた。そしてそれをそれまでかけてゐた縁なしの眼鏡と取り換へた。

     そのセルロイドの縁の眼鏡は彼の顏をすこし變へたやうに、彼の心の中まで變へたのでもあらうか? その瞬間からの路易の變り方と言つたら! まるで何物かが彼のもじやもじやの毛髮を鷲づかみにして彼のいやがるのもかまはずに、無茶苦茶に引きずり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)してゐるやうに見えた。
     毎日のやうに彼は一人でこつそり例の地下室に降りて行くのだつた。それもあんまり他の客のゐない、夜よりもほの暗く思へる午後! そしてオレンヂエエド! それが彼の遊蕩の仕方だつたのだ。
     或る日、彼はいつもより長いことその娘と話してゐた。あくる日、路易は或る場末のひどくぬかつた道を顏をしかめながら歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。いくら搜して見ても嵬のゐる下宿は見つからなかつた。友人の描いてくれた地圖が間違つてゐた。その夜遲くなつてから彼は地下室へ姿を現はした。そしてこれまで飮んだこともないやうなウイスキイを炭酸水で割つて(彼はそれが嵬の習慣であつたことを思ひ出しながら)、それを平氣で飮み干した。醉ふと彼の顏はすこし青味を帶びた。
     彼は自分でもこの頃自分のしてゐることがよくわからないでゐるらしかつた。もし誰かが彼にお前はその娘を愛してゐるのかと率直に訊いたら、彼は吃驚してしまつたかも知れなかつた。

              *

     私たちは自分勝手にネクタイを選んでそれを結んだりほどいたりしてゐると信じてゐるが、そんなネクタイにだつて再び前のやうに結ばれたがつてゐるやうな氣持がありはしないか。そしてそれが知らず識らず私たちの氣持の上にも影響してゐると云ふやうなことが。――少くとも、この路易の場合はそれに近かつた。ただ、彼は何もかもごつちやにしてゐた。

     さういふ言ひやうのない混亂は嵬が遠くにゐればゐるほど路易の中でややこしくなつた。さうして、路易は嵬に會つてゐる間だけ、わづかに自分を取戻すやうに見えた。
     或る日、彼は乘合自動車の中で嵬に出會つた。嵬はぢいつと彼を見つめた。
    「なんだ限鏡をかへたんだね。誰かと思つたら……」
     すると路易は以前のやうに顏をぱあつと赤くした。そしてはじめて自分自身に立ち返つた。
     歩きながら路易はおづおづと、數日前彼の下宿をさんざん搜して歩いたことを嵬に話した。が、その時は娘のためにどうにかして嵬を引張つて行つてやりたいやうな氣持であつたことは、とうとう言はずにしまつた。
     二人は或るカツフエにはひつた。嵬が炭酸水で割つたウイスキイを飮むのを見ながら、路易は昔のやうにほてつた頬をしながらオレンヂエエドを飮んでゐた。

     嵬がだんだん遠ざかると、路易はまた自分自身がぼんやりし出すのを感じながら、停車場などで悲しさうに娘のくるのを待つてゐるのであつた。
     或る日暮れ方、路易は又いつものやうに娘を待つてゐた。
     十分過ぎた。二十分過ぎた。停車場の大きい時計の針が二匹の蟲のやうに匍つてゐた。それがだんだん見にくくなつた。とうとう日が暮れたのだ。それだのに娘の姿はまだ見えない。
     彼はがつかりしたやうにカツフエのある町の方へ歩き出した。さうしてその地下室の入口まで來た時、急に彼はその中へ吸ひ込まれるやうにはひつて待つた。數分後、彼は一層がつかりしたやうな樣子をして其處から出てきた。
     彼はタクシイを呼び止めた。さうしてその晩娘と行く約束をしてゐた或る小劇場へ走らせた。いつか夜になつてゐた。彼はそこの物陰になつた暗い壁にぴつたりと身を寄せながら、いつまでも小劇場の中へはひつてゆく人々を見つめてゐた。彼のところからはその人々が逆光線になつて見えた。何やらはつきりしない黒いものが、アスフアルトの上を音もなく滑つてきては、眩しいやうに明るい小劇場の前まで來ると、突然、彼等の着飾つた姿が照らし出される。それがまるで妖精たちがそこまで來てすうつと普通の人間に變裝するやうな感じだつた。彼はぞつとした。
     しかし彼は我慢して最後の一人まで見送つてゐた。しまひには彼の目に涙がうかんできた。あんまり目を凝らして明るい方ばかり見てゐたからだと思つた。
     數時間後、彼は娘を以前持ち合はせたことのあるあらゆる停車場を空しく探しまはつたのち、或る盛り場の人込みの中を憑つかれたやうな目つきをして歩いてゐた。彼はすれちがふ人々の顏を一々覗きこむやうにしてゐたが、その誰もが彼の目には映らないやうであつた。雨がすこし降りだした。彼は帽子を目深にかぶつた。眼鏡がどうかすると曇つた。彼はそれにも氣がつかないやうだつた。その時彼ははげしく一人の男にぶつかつた。それは嵬だつた。路易は何とも云へない切なげな眼差で相手を見つめながら、
    「何慮へ行つてゐたの?」ときいた。
    「これだよ……」嵬はまだなまなましく赤インクのついてゐる手を出して見せた。
     その血だらけの手が完全なアリバイだつた。彼はいましがたまで印刷所で校正の手傳ひをやつてゐたのだ。
     その晩停車場から停車場へと路易の走りまはつてゐる間にふと彼に浮んだ疑ひ、そしてそれからあんなにも彼を苦しめ出してゐたその疑ひが急に消えた。それは今夜ひよつとしたら何處かで嵬が娘と出會つてそのまま娘を引張つて行つたのではあるまいかといふおよそ根も葉もない妄想だつたのだつた。路易はもう娘と會へなかつた事などは忘れてしまつたかのやうに快活になつた。
     二人はいつかの晩のやうに見知らない酒場にはひつた。路易も嵬のするやうにしてウイスキイを飮んだ。彼はすつかりオレンヂエエドと頬のほてりを忘れてしまつてゐた。それほど彼の心のうちはこんがらがつてゐた。
     酒場を出てからも路易はいつまでも嵬に別れたがらなかつた。夜ふけの町を歩きながら、路易はぶらさがるやうにして嵬の肩に手をかけてゐた。そして嵬をときどき娘のやうな目つきで見上げた。
     路易はいつか自分の心を娘のそれとまで混同してしまつてゐるやうに見えた。

     翌日、娘に會つた時にはもう彼は昨夜のことなぞ何でもないやうな風をしてゐた。すると娘の方から、昨夜約束の場所に行つたら、まだ三十分ぐらゐしか遲れてゐなかつたのに、もう彼が居なかつたので、場所を間違へたのかと思つて、別の停車場に行つてそこで待ち呆けてゐたのだと言つた。その時になつて彼は丁度その時刻に自分が停車場の便所にはひつてゐたことを思ひ出した。

              *

     さういふ心のうちの混雜を、自己分析をしない路易は、そのまま打棄らかして置いたので、それはますますこんがらかつて行くほかはなかつた。
     夏になつた。路易は或る温泉湯へ娘を誘つて見た。娘は、承諾した。が、もう一人ほかに彼女の仲のいい娘を一しよに連れて行くといふ條件づきで。
     その小さな旅行中、路易はさういふ娘の意地惡に對する復讐をひそかに考へてゐた。温泉場に着くと、娘はひとりで妙にはしやいでゐた。或る溪流のほとりを三人で歩いてゐた時など、娘はひとりでずんずん徑もないやうなところを分けていつて其處にきらきらしてゐる水を手で掬ひたがつた。しまひには生ひ茂つた草や木の葉が娘の姿を全く見えなくさせた。あんまりいつまでも見えなかつたので路易は崖の上から大きな聲で娘の名前を呼んだ。返事がなかつた。路易が氣づかはしさうに下の方をのぞきこんでゐると、連れの娘も一しよにそれを見ようとして、その顏をぐつと彼の顏に近づけた。その頬が匂つた。すると路易は夢中にその娘の肩へ手をかけながら、荒あらしくそれを引きよせて頬ずりをした。
     間もなく徑もないやうなところから生ひ茂つた草を分けて娘が上つてきた。その顏が眞蒼であつた。ひどく呼吸を切らせてゐるらしかつた。さうして二人のそばにあつたベンチのところまで來ると、その上へよろめくやうになつて倒れた。
     路易があわてて近づいて行つて見ると、
    「何でもないわ……」と娘は言ひながら目を閉ぢた。

     歸りの汽車の中で三人はぎごちなく沈默してゐた。
     路易はまださつきの味のない接吻のことを考へてゐるらしく、「なんだ接吻なんてあんなものか」と言はんばかりの顏をしてゐる。それが接吻した相手を自分がちつとも愛してなんぞゐなかつたためであるとは知らずに。さうして路易は自分のこれまでにした唯一の接吻、地震のごたくさまぎれに小さなみすぼらしい娘にしてやつた、あの後味の大へん苦かつた接吻のことなんどを思ひ出すともなく思ひ出してゐた……。
     その時、路易はふいにさつき接吻をした瞬間の自分の心の状態がひどく異常であつたのに氣がついた。それがあんまりあの地震の時の彼の心のうちの異常さによく似てゐたからだつた。さうしてそれがきつかけになつて、路易はやつとのことでこの頃の自分の心のうちの野茨のやうなこんがらがりを發見しだした。

              *

     夏はもうその半ばを過ぎてゐた。
     或る日のこと、湖畔に滯在してゐる詩人から路易に早く來るやうにといふ手紙がきた。それを見ると、路易は俄かにその湖畔へ行くことを思ひ立つた。
     黒々とした山毛欅に取圍まれたホテルで、路易は再び實業家の夫人とそのお孃さんに會つた。一年のうちに路易がすつかり顏色を惡くしてしまつてゐただけ、それだけお孃さんの方では餘計に薔薇色になつてゐるやうであつた。その差異があべこべに彼の心を彼女の方へ引きよせた。こんどは、ときどき、二人きりで話をしたり、散歩をしたりする機會があつた。そんな時にどうかすると、自分でもよく氣をつけてゐるのにうつかりと路易は彼女に向つて、酒場の娘にし慣れたぞんざいな動作や言葉づかひをしてしまつた。その度毎に、彼のこの頃あまり血色のよくない顏は目に見えないくらゐ、かすかに赤らむのだつた。
     二週間ばかり滯在してゐる間、路易はただ一度きりしか娘へは繪はがきをやらなかつた。
     或る美しい日、彼等は自動車で湖水めぐりをした。路易は運轉手のそばへばかり乘りたがつた。途中で、自動車がパンクした。路易は自分の毛髮をもじやもじやにさせながら熱心に運轉手の手つだひをしてやつた。詩人やお孃さんやそのお母さんたちが向うで寫眞機をいぢくつてゐるのをときどき振り向きながら。その自動車の故障のおかげで日が暮れてからやつとホテルへ歸つてきた時には、路易は生涯のうちで最も幸福さうだつた。
     翌朝、お孃さんたちは路易たちのまだ寢坊してゐるうちに湖畔を出發して行つた。
     その出發は路易にはひどく突然のやうに思はれた。路易はなんだかそれを自分のせゐのやうに考へた。さうしてひどく悲しさうにしてゐた。もう夏がとつくに過ぎてしまつたことには少しも氣がつかないで……。

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