シノプティコン

検索をする
検索は監視されている
監視は自動的だから
誰も監視に気付かない

発信をする
発信は監視されている
監視は見えてこないから
監視があるとは思わない

監視している人は
ひとりもいない
監視される人が
誰だろうと構わない

僕が検索をすれば
僕に関する情報がたまり
僕が発信をすれば
僕に関する情報がたまる

僕は何者でもないから
僕に関する情報は なんの意味も持たず
僕は何者でもないから
僕に関する情報は 誰にも利用されない

いつまでも 僕が何者でもないことを
そして 僕に関する情報が
いつまでも 意味も持たないことを 祈る
ただ 祈る

3 thoughts on “シノプティコン

  1. shinichi Post author

    子どもがカメラによる家庭内監視に反対–中国で話題に

    by 山谷剛史

    https://japan.zdnet.com/article/35159287/

     中国で立て続けに2件、子どもが自室に設置されたネットワークカメラに抗議するニュースが話題となった。監視カメラとも防犯カメラとも言うが、ここではネットワークカメラで統一する。

     南京市で14歳の少年が警察に通報した。少年の部屋に父親がネットワークカメラを設置し、プライバシーを侵害しているからだという。警察が仲裁に来て騒動となったが、父親は一歩も引く様子がなく、子どもを監視する正当性を訴えていた。またほぼ同じ時期に、小学1年生の少女の勉強する様子を母親がネットワークカメラで監視し、スマートフォンアプリを使ってネットワーク経由で「勉強をちゃんとしろ」と口頭で注意したという話が注目された。微博(ウェイボー)によれば、この動画の閲覧数は3億6000万回、(表に出ている)コメント数では1万4000件を記録した。これはかなりの数だ。

     こうした家庭は珍しくない。もともと中国の学生の宿題量は非常に多く、長い間机と向き合っていないと終わらないほどある。最近ではPCやスマートフォンを使った宿題もある。新型コロナウイルス感染症のパンデミック以降は、オンライン授業を取り入れたことで、自室で勉強する時間が長くなった。そうした中、中国では子どもを監視するためにネットワークカメラが飛ぶように売れているという。ECサイト(電子商取引)の淘宝網(タオバオ)などで見ると、子どもやお年寄りの監視用と銘打ったネットワークカメラも販売されていて、人気店では月に1万台以上も売れている。

     論点は、家庭内でネットワークカメラを使って子どもを監視することの是非だ。スマートフォンがないとできない宿題がある半面、子どもがゲームアプリなどで遊んだり、クラスメートとチャットしたりする可能性があるから心配だという保護者の言い分もある。デジタル家電がない時代から、勉強に集中できずに遊んでしまう子どもに頭を悩ませる親はいる。だからといって子どもをネットワークカメラでずっと監視するのはいかがなものかと、子どもは訴えているわけだ。

     ウェイボーを提供する新浪(シンラン)は、ビッグデータで1万7000件におよぶ関連コメントについて統計を取ったところ、42.65%が保護者によるネットワークカメラの設置に不満を感じ、41.1%が中立的な考えだった。また他にも勉強が大変過ぎて悲しいとするコメントもあった。

     江蘇新聞がアンケートを取ったところ、10万票がプライバシーを侵害していると回答し、2万2000票が親の行為に理解を示した。中国新聞周刊が同種のアンケートを取ったところ、プライバシー侵害とする回答が1万5000票となったのに対し、ネットワークカメラの設置は意味があるとする回答は1400票だった。

     広州日報のアンケートでは監視は厳し過ぎるとする回答が3万5000票に対し、子どもは自分で管理できないので監督しなければならないという意見は5400票、親も子どもも自由な空間が必要だという回答が2万2000票となった。全体的に見れば「ネットワークカメラを設置し、宿題を管理するのはやり過ぎ」という意見が多数派となった。

     中国の教育者もおおむね同じ意見だ。国営メディアの新華網が引用した銭江晩報の記事によれば、「家庭内でのネットワークカメラの設置は子どもからプライバシーの侵害と反感を買うだろう。大人が子どもを信じなければ、子どもも他人を信じなくなるだろう。自立性が大事だ」と書いてある。

     筆者は以前、「『起立!』『着席!』で出席数を顔認証カウントする最新学校事情」という記事を書いた。学校に導入されたシステムで、教室に設置されたネットワークカメラと人工知能(AI)で学生全員の表情を逐次認識し、学生らの授業態度や理解度を把握して保護者と情報を共有するものだが、ネットワークカメラによる常時監視にやり過ぎという意見が結構あった。それでこの手の技術は立ち消えになったかというとそんなことはなく、幼稚園をはじめとするさまざまな教育現場で導入され始めている。

     ところで、中国ではネットワークカメラを街中に多数設置し、治安維持などの目的のために人々を監視しているのはご存じの通りだ。家庭内でのネットワークカメラ設置を否定する意見が広く共有されたが、街の様子を考えてコメントした人も少なくないだろう(そうした書き込みは表示されないので知る由もないが)。

     中国では、「国は家族」という言葉をしばしば耳にする。子どもの監視から市井の監視へと問題の認識が広がり、過度な監視に抗議の声を上げていくのか、はたまた何もかも監視されている状態を受け入れていくのか、気になるところだ。

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  2. shinichi Post author

    IT革命が生み出した「見世物」社会――シノプティコンとは何か?

    by 岡本裕一朗

    https://diamond.jp/articles/-/102656

    現代の世界は「自動監視社会」なのか

    IT革命はいまや確認するまでもありませんが、人間の生活のありようを大きく変えていっています。最近、日本では「マイナンバー制」が導入されましたが、その社会的、政治的、文化的な意味については、あまり注目されなかったように感じます。一部では現代のマイナンバー制が「ビッグ・ブラザー」に連想される「監視社会」を生むという意見もありましたが、世界の哲学の水準では決してそのようには捉えられない問題のように思います。

    そもそも「監視社会」という言葉を哲学において鮮明に打ち出したのは、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの『監獄の誕生─監視と処罰』(1974年)でした。フーコーはこの書で、イギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した監獄「パノプティコン(一望監視施設)」にもとづいて、近代社会のあり方をパノプティコン社会と見なしたのです。
    このパノプティコンを、フーコーは次のように説明しています。

    (パノプティコンは)塔のてっぺんからそれを囲んで円形に配置された囚人用監房を監視するといった建築プランで、逆光になっているので相手に見られることなく、中央から一切の状況や動きを監督できるというものです。権力は姿を消し、二度と姿を現さないが、存在はしている。たった一つの視線が無数の複眼になったも同然で、そこに権力が拡散してしまっているわけです。

    このパノプティコン社会を理解するとき、重要な特徴が二つあります。一つは「監視する者」と「監視される者」の非対称性です。「監視される者」は常に見られ、その行動が詳細に記録されます。それに対して、「監視する者」は、姿を消し相手からは見えません。そのため、人々は監視の目を常に意識し、生活することになります。

    もう一つの特徴は、「監視」によって人々が規律訓練(あるいは調教)されることです。いつでも監視されているという意識があるために、人々は秩序を乱したり、自分勝手な行動をとったりしなくなるのです。

    フーコーの「監視社会」の概念は、発表された当時(1970年代)としては、きわめて斬新に見えました。ところが、現代の状況からすると、そのままでは古く、いろいろ手直しが必要になります。
    その一つが、「デジタル化」の問題です。フーコーのモデルでは、監視の技術はいわば「アナログ」的なもので、記録も文書によって蓄積されていきます。ところが、現代社会では、生活がすっかりデジタル化されてしまいました。

    こうした状況を踏まえて、アメリカのメディア学者マーク・ポスターは『情報様式論』(1990年)のなかで、フーコーのパノプティコンを現代風に読みかえて、「スーパー・パノプティコン」という概念を提唱しています。

    たとえば、パソコンやスマートフォンは言うまでもありませんが、その他私たちの日常生活のほとんどが、デジタル情報テクノロジーにもとづいています。買い物をするときのクレジットカード、銀行を利用するときのキャッシュカード、電車に乗るときのパスモやスイカなどの電子マネー、音楽を聴くときのiPad、クルマに乗るときのカーナビなど、あらためて指摘するまでもないでしょう。

    このようなデジタルテクノロジーの特質は、使っている人に「監視されている」と意識させないことにあります。分かりやすい例として、Amazonで本を購入する場合を考えてみましょう。ご存じのように、Amazonで本を検索したり、買ったりすれば、その次にオススメの本が紹介されることになります。

    つまり、購入者の興味や関心に見合った本を紹介するのですが、これが可能なのは、購入者の情報がチェックされ、記録されていくからにほかなりません。しかも、紹介された本を見て、「ああ、そんな本もあったんだ」と、つい買ってしまうこともたびたびですから、まんまとAmazonの戦略に乗せられてしまうのです。

    フーコーの場合には、たとえ不可視であっても、「監視する者」が向こう側に控えていました。また、「監視される者」は、個人的に特定され、その人の情報が蓄積されていくわけです。

    ところが、現代のデジタルな監視では、「監視される者」が誰であるかは問題になりませんし、監視はいわば自動的に行なわれていくのです。ある意味では、問題がなければ、「監視される」という意識は生じないでしょう。支払い能力のある人であれば、クレジットカードを自由に使えますが、そうでない場合には使用が禁止されるだけです。

    **

    シノプティコン
    ――多数が少数を監視する情報社会

    フーコーの流行によって多くの研究者が「近代は少数者が多数者を監視する社会である」と考えるようになりました。

    しかし、ノルウェーの社会学者トマス・マシーセンによれば、この理解には決定的な見落とし、しかも意図的な見落としがあります。つまり、フーコーは「古代=見世物」、「近代=監視」と主張するのですが、こうした対比は歴史的にはうまく説明できないのです。

    こうした歴史的な理解はきっと間違いであろう。事実により近いのは、次のことである。パノプティコン的なシステムは、過去2世紀の間にきわめて発展したが、しかし、ルーツとしては古代にある。単に個人の監視技術だけでなく、パノプティコン的な監視システムのモデルもまた、初期キリスト教時代かそれ以前に遡るのである。

    つまり、フーコーが強調するように、監視の技術が近代に特有というわけではなく、むしろそれ以前の社会に遡るというわけです。さらに、もう一つの側面にも注意しなくてはなりません。

    近代社会では、「監視の技術」だけが発展したわけではなく、「見世物(スペクタクル)」の側面もまた飛躍的に増大したのです。ところが、フーコーはこの側面をまったく無視してしまいました。

    このような理解にもとづいて、マシーセンはパノプティコンに対抗する概念を提唱しています。パノプティコン(panopticon)は語源的には、「すべて」を表す「pan」と、「見る」にかかわる「opticon」から構成され、多数者を見通す監視システムです。

    それに対して、マシーセンは「監視」だけでなく、多数者が少数者を見るという見物の側面も同時に備えた概念として、「一緒に、同時に」を表す「syn」を使って、シノプティコン(synopticon)と名付けています。つまり、私たちは「監視される者」であると同時に、「見物する者」でもあるのです。

    マシーセンは「見世物」の側面を、「マスメディア、とくにテレビ」と考えていますが、現代の状況からすれば、むしろスマートフォンを想定するのが適切なように思えます。私たちは、たえずスマートフォンで情報を検索し、画面に見入っています。

    映像であったり、音楽であったりするかもしれません。あるいは、Facebookの情報に、「いいね」と発信するかもしれません。しかし、このようにスマートフォンの画面を見ながら、情報を検索するとき、同時に私たちの動向はつぶさに監視されているのです。画面を見ることは、同時に監視されることでもあります。この二つは、切り離すことができません。

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