今道友信

幼児が水墨画に惹かれるということがあろうか。それは現代の普通の都市生活者の家庭ではまず考えられないことである。一木一草が天地の生命の象徴であるということを理解し、しかも、日常の体験によって、緑の色などは四六時中のわずか日の光の射しているときだけの色のすぎない仮象の状態であるということを十分に理解し、物の真相はけっして現象の再現では捉えられないというようなことも理解しうるほどに逞しく成長した知性が十分深く働き出したときに、人ははじめて、華美な色彩を持たない、そしてまたわずか一葉の竹の葉しか書かれていないような水墨画においてこそ、本質の世界が拓かれるのを感じ、天地にあまねく悠久の生命を看取し、人間の一生の短さと大自然の永遠の躍動を体得するにいたる。こういう心構えが知性的にできあがっていなければ、水墨画の鑑賞をすることは出来ない。

3 thoughts on “今道友信

  1. shinichi Post author

    美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であると言わねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。この輝きは、単に義務を履行して、他人から批難されない行ないの正しさ、自己を失うことなしに、道徳的に模範となっている善の落度のなさとは異なって、積極的な光となってひとびとの心に明るい灯となるものではあるまいか。われわれは、義の人を賞讃し、善の人を賛嘆することはできる。しかし、それらの 賞讃や賛嘆がわれわれを動かすであろうか。われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚(よ)ぶ……始めに私は、美は存在の恵みであると書いたが、長い考察の後に行為の美を讃えてあの初めの言葉と並んで、美は人生の希望であり、人格の光であると録さねばならない。

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