Category Archives: beauty

今道友信

幼児が水墨画に惹かれるということがあろうか。それは現代の普通の都市生活者の家庭ではまず考えられないことである。一木一草が天地の生命の象徴であるということを理解し、しかも、日常の体験によって、緑の色などは四六時中のわずか日の光の射しているときだけの色のすぎない仮象の状態であるということを十分に理解し、物の真相はけっして現象の再現では捉えられないというようなことも理解しうるほどに逞しく成長した知性が十分深く働き出したときに、人ははじめて、華美な色彩を持たない、そしてまたわずか一葉の竹の葉しか書かれていないような水墨画においてこそ、本質の世界が拓かれるのを感じ、天地にあまねく悠久の生命を看取し、人間の一生の短さと大自然の永遠の躍動を体得するにいたる。こういう心構えが知性的にできあがっていなければ、水墨画の鑑賞をすることは出来ない。

北の富士勝昭

 何よりも全勝優勝にかける執念は恐ろしいほどであった。昔はやった言葉に「ほとんど病気」というのを覚えていますわ。白鵬がまさにそれです。どんなに非難されようが、勝つだけが相撲ではないと言われ続けて久しいが、直す気は全くないだろう。若い時は、尊敬する双葉山関や大鵬関に「少しでも近づこう」「ああなりたい」と思った時もあったと思う。しかし、今はすべての記録を破る事しかない。誰の忠告も通じないだろう。
 それが白鵬の生き方だから仕方がない。しかし、これだけは言っておこう。今場所は2大関の休場や、日本人力士のふがいなさにずいぶんと助けられての優勝である。今場所の相撲が今後も通じるとは思わないほうが良い。
 最後にもう一度だけ言っておきたい。横綱の引き時だけは誤ってはいけない。場内インタビューの後、これでまた進めると語っていたが、体は相当に弱っている。何年も持つはずがない。まあ、せいぜい好きなだけ取るがいい。せっかくの優勝に文句ばかりで申し訳ないが、今回の白鵬の優勝で角界が盛り上がることはないだろう。

ないという感じ

sexual に bi をつけて bisexual
sexual に homo をつけて homosexual
sexual に hetero をつけて heterosexual
sexual に a をつけて asexual
セックスのない感じ

pathy に sym をつけて sympathy
pathy に em をつけて empathy
pathy に anti をつけて antipathy
pathy に a をつけて apathy
感情がない感じ

literacy に multi をつけて multiliteracy
literacy に bi をつけて biliteracy
bilingual education のゴールは biliteracy だという
literacy に a をつけて aliteracy
活字から離れた感じ

moral に im をつけて immoral
moral に a をつけて amoral
道徳のない感じ

chromatic に mono をつけて monochromatic
chromatic に a をつけて achromatic
彩がない感じ

a- の ないという感じは
21世紀的な感じがする
a- は わびさびに似ている
そう思ったら a- だけが輝いて見えた

美しいと感じる

何を美しいと感じるか
キラキラ輝いたものか
渋くて落ち着いたものか
感性は人によって違い
時によっても違う

四季の移り変わりのなかで
いつが美しいと感じるか
花が咲き青葉が繁る頃か
葉が散った静けさの頃か

新しいものが持つ匂いや質感に
清らかさやすがしがしさを感じたり
年月を経たものだけが持つ深みに
余韻や味わいを感じる

誰もが豪華絢爛を好むわけもなく
誰もが風情を感じたいわけでもない

なにもないところに美を感じる人と
なにもないと不安になる人とが
生活を共にすることはできない

人の内面の美しさも一様ではない
誰かにとって美しくても
他の誰かには美しくない
それは外見も内面も同じ

男と女が一緒になるとき
美の感じ方が同じかどうかは
愛しているかや
価値観が同じかより
大事なのかもしれない

君は美しい
内面も外見も

桜が咲き
桜が散る
花びらが地面を覆い
緑の葉が木を覆う
それは
あっという間のこと

桜の事情は知らないけれど
桜に見とれる
君の心は見えないけれど
君にみとれる

色鉛筆



ファーバーカステルとホルベインの全色が欲しい
という 欲しい欲しい病 にかかっている人は多い
ファーバーカステルもホルベインも一本から買える
だからというか でもというか 全色が欲しくなる
ファーバーカステル120色とホルベイン150色なのか
ファーバーカステル120色かホルベイン150色なのか
その辺は人によって違うけれど
ファーバーカステル120色のほうが色の乗りがいいとか
ホルベインのパステルトーンは外せないとか
いろいろ好みはあるけれど
うーん 悩ましい

雪が降る
雪が汚いものを隠す
きれいなものも隠す
雪が色を奪う
音も奪う

雪化粧した景色を
静けさが包む

雪に覆われた夢を
暖かさが包む

その布は
得も言えない色をしている
近くで見ても
遠くから見ても
同じ色をしていて
純粋で
誇り高い

明るいところでも
その色は光に負けず
暗いところでも
その色は影に負けない

ところが布の持ち主が現れて
ここに違う色がついている
あそこにも違う色がついていると
言う

たとえ染みがついていたとしても
その布が
美しいことには変わりがない
その布の色が
染みに侵されることはない

全体を見ずに染みがついていると言われても
布はいつものように
今日も同じ色をして
純粋に
誇り高く
輝いている

虹のことが光学的に説明され
不思議なことがなくなっても
虹が出ているのに遭遇すると
運がいいと思い
空に想いを馳せる

虹の色の数は7色なんかじゃなくて
もちろん2色でも4色でもなくて
色の数はある意味無限で
赤の外の見えない色から
紫の外の見えない色まで
それをいくつに区切ろうと
きれいなことには変わりない
そう
でも
7色よりももっと多くの色を
感じたほうがいい

虹は太陽の光でできるのだと
思い続けてきたのだけれど
月の光でできる虹があると
南の島から来た人に聞かされた

月虹を見た人には
幸せが来るという

君に虹を見てほしい
いや
君に月虹を見てほしい
いや
君と月虹を見に行きたい
いや
一緒に月虹を見に行こう

君は月虹を見て
なんと言うだろう
微笑むだろうか
それとも
泣くだろうか

もしかしたら
いや君はきっと
月虹が消えるまで
じっと見つめているのだろう
そして僕はそんな君を
じっと見つめているのだろう

赤系の伝統色は 禁じられた色
紅 退紅 薄紅 韓紅 桜 撫子色 躑躅色 牡丹色 真朱 洗朱 銀朱 鴇色 緋色 茜色 猩々緋 蘇芳 葡萄色 臙脂 小豆色 紅絹 桃色 一斤染 赤白橡 紅梅 今様色 蒲色
憧れの色の衣を身につける
それを夢見る

黄 橙系の伝統色は 古くて新しい色
山吹色 鬱金 承和色 刈安 菜の花色 卵色 鳥の子色 纁 黄蘖 芥子色 菜種油色 萱草色 女郎花 柑子色 洗柿 梔子 橙色 曙色 照柿 黄丹 朱華 赤朽葉
春の菜の花の色も 秋の柿の実の色も
鮮やかで 優しい

青系の伝統色は 空の色 海の色
浅葱色 千草色 水色 藍色 紺 空色 鉄紺 茄子紺 縹 留紺 褐色 御召茶 甕覗 桔梗 新橋色 群青 瑠璃 露草色 舛花色 水浅葱 熨斗目色 青鈍 納戸色 錆御納戸
空の色が水に映り
光が色になる

緑系の伝統色は 木の葉や草を揺らす風の色
萌黄 苗色 草色 若緑 柳色 緑青 青丹 苔色 抹茶色 若竹色 青竹 鶸色 若草色 裏葉色 青白橡 青緑 浅緑 鶸萌黄 若葉色 青磁色 深緑 白緑 松葉色 海松色 木賊
緑は生きているものの色だから
命が終われば 消える

紫系の伝統色は 心を惑わす怪しい色
紫 濃色 薄色 藤色 藤紫 菖蒲色 紫苑 二藍 紅掛花色 半色 紅藤色 江戸紫 京紫 杜若色 竜胆色 紫紺 似紫 滅紫 菫色 楝色
高貴な色なのか 淫らな色なのか
結局は躊躇いの色なのではないのか

茶系の伝統色は あたたかい大地の色
茶色 団十郎茶 柿渋 璃寛茶 路考茶 檜皮色 江戸茶 鶯茶 煉瓦色 土器色 弁柄 雀色 丁子 琥珀色 胡桃色 枯色 生壁色 海松茶 黄土色 白茶 羊羹色 栗色 代赭色 飴色 狐色 媚茶 千歳茶 朽葉 黄櫨染 桑染 唐茶 鳶色
土の色はいつのまにか輝きを獲得し
金の色になる

黒 白系の伝統色は 書の そして水墨画の世界
墨色 鼠 藍鼠 消炭色 漆黒 橡 灰汁色 黒橡 鈍色 利休鼠 鳩羽鼠 灰桜 梅鼠 鉛色 空五倍子色 憲房色 胡粉 灰白 乳白色 練色 鉛白 卯の花色 砥粉色 白土
色が消え 薄い色も 淡い色も 消え
残ったものを 黒と呼び 白と呼ぶ

胡粉と乳白色と鉛白と白土だけで絵を描いていたら
色のない世界に心が溶けていった

あちらの人たちは
美を閉じ込めようとして
絵を描いたり
彫刻を彫ったりして
それをアートと呼んだ

作り話を讃えるアートが
並べられた教会のなかには
神を讃える美しい歌が流れ
訪れた人を宗教に誘う

無色の次に美しい色
沈黙の次に美しい音
それがアート
神のメッセージを伝える

**

こちらの人たちは
自然のなかに分け入って
その先で願ったり
祈りを捧げたりして
その場所を神社と呼んだ

神社という山奥の空間は
石や木や水が静寂を醸し出し
自然のなかから出てくる美は
祈る人を優しく包み込む

余白の心地よさと
静寂の気持ちよさを
五感で感じ取り
心で反応する

**

教会にも神社にも
行かなくなった人たちは
無機質な高層ビルのなかで
失ったものに気付くことなく
透明の次に美しい色を追い求める

神がいなくなっても
科学があると思っていたら
AI がやってきて
神の代わりを務める

イヤホーンからは
翻訳された意味のない言葉が
間の次に美しい音として流され
忙しさを和らげる

きれいすぎない籠

とってきた竹を
余すところなく使って
作られた籠は
きれいすぎない籠

暮らしの道具として
軽さと強さを そして
繊細さと大雑把さを
併せ持っている

節回りの皮をとらず
自然の色合いを残す
きれいにしすぎたら
素朴さがなくなる

皮をすべて取り去って
色目を合わせてできた籠は
きれいな光沢を放ちながら
使われずに飾られている

きれいすぎない籠は
毎日のように使われて
使われたものだけが持つ
美しさを手に入れる

きれいすぎない籠に
入れられた物たちが付けた
傷やへこみのひとつひとつに
思い出が宿っている

きれいすぎる籠は
誰にも持たれることがなく
きれいすぎない籠は
君の手のなかで揺れる

終わった過去と知らない未来に
きれいすぎない籠が彩を添え
程々の時のなかで
君がそっと微笑んでいる

文様

昔々 朝鮮半島から海を越えてやって来た人たちが
絹を伝え 養蚕技術を伝え 絹織物の技術を伝えた

その後 唐の朝廷で用いられたさまざまな文様が伝わり
文様の施された染織品が 装束や調度に用いられた

文様はしだいに抽象化していって もとの意味を失い
複雑化と簡素化の繰り返しのなかで 美しさを増した

文様をデザインした人 染めを施した人 縫製した人
いろいろな人が文様のなかから語りかけてくる

なぜこの文様が この大きさなのか この色なのか
小さな花が大きくなり 大きなな動物が小さくなる

君に似合う文様を探し 文様の大きさと色を決める
想像の服を着た君を思って 幸せな気持ちになる

真珠

水中の小さな生物や砂などの異物が
貝殻と体を覆う膜との間に入り込み
異物に刺激されて膜の表面が破れて
膜の欠片と異物が膜の中に入り込む

膜の欠片が広がって異物を包み込み
内側に貝殻を作るものがにじみ出て
貝殻と同じ感じの丸いものができて
ある日開かれ取り出されたのが真珠

真珠の中に涙という異物を閉じ込め
誰にも真珠の中身は見せないと決め
貝殻の内側の独特の光沢をまとって
七色の輝きで人を惹きつけ惑わせる

真珠は貝の中で数年でできてしまう
数百万年かけて固まるオパールとか
何十億年もかかるダイヤモンドとは
同じ宝石とはいってもすべてが違う

それでも人は真珠の輝きに惹かれる
イミテーションの真珠の首飾りから
グレン・ミラーの真珠の首飾りまで
真珠をめぐる物語はすべてが美しい

真珠のブローチは喜びの音楽を奏で
真珠の指輪はエレガントで愛らしく
真珠のイヤリングは知性を引き出し
真珠の首飾りは上品さを感じさせる

細工をしていない一粒の真珠を選び
眠った君のうえにそっと置いてみる
真珠は濡れた美しさを披露したあと
暗闇のなかで控えめな輝きを放った

コーヒー

朝がひかりを取りもどして
地平線が明るく輝くと
仕事に向かう人たちが
ここで温かいコーヒーを飲む
ミルクと砂糖をたくさん入れて
バターをつけたパンを片手に
一日が始まるんだと
笑顔を交わす
今日もいいことが
ありますように
みんなにいいことが
ありますように

夕方の日差しが弱まって
ひかりを失いはじめると
一日の仕事に疲れた人たちが
ここで苦いコーヒーを飲む
ミルクも砂糖も入れないで
今日一日の嫌なことと
思うようにならない虚しさで
無口になってしまう
まわりを見ようにも
下しか見れず
食べることも忘れて
コーヒーを口にする

朝のコーヒーと夕方のコーヒーは
まったくの別物で
違う空気と違う音のなかで
希望と絶望が交錯する

コーヒーの香りも味も
同じなはずなのに
違うと感じるのは
なぜだろう

空には
  空(く)
  空(くう)
  空(こう)
  空(そら)
  空(から)
  空(うろ)
  空(あな)
  空(こぉん)
  空く(あく)
  空く(すく)
  空ろ(うつろ)
  空ける(あける)
  空しい(むなしい)
  空ける(うつける)
などの読み方があって
どれもが大事な意味を持つ

見上げると 空(そら)は いつもそこにある
朝が日の出とともに光を取り戻すと 空(そら)は刻々と色を変え
日の入りとともに光を失うと 空(そら)は暗闇に包まれる

空(くう)は 幻みたいで 焔みたいで 水中の月みたいで
虚空みたいで 響きみたいで 蜃気楼みたいで 夢みたいで
影みたいで 変化みたいで 鏡中の像みたいだという

空(そら)と 空(くう)は 同じようでいて 同じでない
空(そら)は 誰にとっても空(そら)で 広くて 大きい
空(くう)は 何もなく 空(から)で 広さも大きさもない

森のなかには神がいて
私たちは畏れを持って接してきた
石も木も水も神で 丘も山も海も神で
社だって空(から)にして 清らかにしておけば
神がやって来てくれる
自分自身も空(から)にしておけば
神がやって来てくれる
やって来た神に しばらくのあいだ いてもらうには
神に幸せでいてもらわなければならず
神に幸せでいてもらうには
自分が幸せでなければならない
自分が幸せでいれば
空(から)は神で満たされて
森のなかの神々にも出会えて
空(くう)は零でなくなり
空(くう)は無でもなくなる

もしかしたら君は
神なのかもしれない
だって僕は 移ろいゆくなかで
こんなにも満たされている

あるはずのないもの

山道で気づく水の音
山頂で聞く風の音
そして
沈黙の音

夜道を照らす月の光
夜闇に見るマッチの光
そして
ブラックホールの光

終わりのない円の無限
永遠の愛という無限
そして
有限の淵にある無限

聞こえるはずのない音
見えるはずのない光
そして
あるはずのない永遠
いるはずのない君
でも
いつまでもきれいな君が
そこにいる

美のいろいろ

飲水思源の美がある
水を飲むときに水源のことを思う美 基本を忘れない美
なんでも想像できるやさしい思いやり
流れる水の源の まだずっと先

インパーフェクトな美がある
完璧でないな美 欠点のある美 傷のある美
傷を見て美しいと思う心
パーフェクトな インパーフェクト

インコンプリートな美がある
完成していない美 不十分の美 中途半端な美
完成したら終わってしまうということへの理解
コンプリートな インコンプリート

インパーマネントな美がある
永遠でない美 無常の美 永続しない美
いつかは終わってしまうということへの覚悟
パーマネントな インパーマネント

インエレガントな美がある
執着のない美 柔らかな考えという美 持たないことの美
不便とか不確実性を受け入れる優雅さ
エレガントな インエレガント

無の淵にある美がある
かすかな美 繊細な美 見過ごされがちな美
取るに足らないと誤解されても構わない心持ち
無の淵からこぼれ落ちる しずく

アグノスティックの美がある
知らないことを知らないと言える美 認めることの美
他人と違うことを怖れない勇気
どんなに知っても 満ちることのない知

美しいものを美しいと言うことができれば
美は近い

君は美しい
君は近い

黒いひかり

ひかりを感じながら
景色を眺めていると
景色は色を失って
ひかりだけが残る

景色のなかには
ひかりしかなくて
色がなくて
そして
景色がひかりを失うと
闇があたりを包み込み
すべてのひかりは
吸収されてしまったのか
遮断されてしまったのか
どこにもその形跡はない

朝がひかりを取り戻して
ひかりは弾み
息づいて
なにも掴めない私たちは
ひかりと影に従う

ものに色をつけて
ひかりなんて幻だって言って
色に名前をつけて
布を染め
器に着色し
ありとあらゆるものに色をつけ
ひかりを征服したつもりになっても
夜がくれば色は消え
闇だけがあたりを占める

ひかりがないのが闇だという
でも闇に包まれてみると
黒いひかりを感じる
ないはずのものを感じる

太陽を感じる
白いひかりを感じる

闇を感じる
黒いひかりを感じる

ないものを感じる

淡い色

湖は茫として水も空も見えず
白さだけが辺りを覆っていた
きれいだねと口にしてみると
きれいねという声が聞こえてくる
連れ出してもらったことへの感謝なのか
ほんとうにきれいだと思ったのか
なにも見えないけれど
吹きすさぶ風は寒くはなかった

帰ろうかって聞いてみたら
もう少しだけいようと言う
きれいだって思ったけれど
好きだとは口にできない
日常から少しだけ離れてみて
味わった小さな自由は
たいしたことのないものかもしれないけれど
とてもとても暖かかった

自由がしあわせなのだと
勘違いしていたころに
見た夢は
淡い

平井かずみ

NHK『趣味どきっ! 』の講師をつとめ、人気を博したフラワースタイリストの平井かずみさん。彼女がご縁のある方18組のお住まいを訪ね、季節の花をしつらえました。草花を身近に楽しむために、だれにでも真似ができる、手軽で素敵な花活けを提案する平井さん。難しい技術は必要なしのスタイルは普段のままですが、訪ねた方のライフスタイルや視点を通して活けると、不思議とその方らしい、それぞれに特徴がある花活けになりました。作品集として楽しんでいただける、見ごたえのあるきれいな写真とともに、花のアレンジメントだけではなく、飾った場所や、なぜこのようなアレンジにしたのか、という理由も解説してあり、読み物としてもお楽しみいただけます。一輪のみを活ける、一種類のみを活ける、訪ねた方の庭から摘んだ植物を活けるなど、参考になる活け方、飾り方もたくさん掲載しています。

Fyodor Dostoevsky

Beauty is a terrible and awful thing! It is terrible because it has not been fathomed and never can be fathomed, for God sets us nothing but riddles. Here the boundaries meet and all contradictions exist side by side. I am a cultivated man, brother, but I’ve thought a lot about this. It’s terrible what mysteries there are! Too many riddles weigh men down on earth. We must solve them as we can, and try to keep a dry skin in the water. Beauty! I can’t endure the thought that a man of lofty mind and heart begins with the ideal of the Madonna and ends with the ideal of Sodom. What’s still more awful is that a man with the ideal of Sodom in his soul does not renounce the ideal of the Madonna, and his heart may be on fire with that ideal, genuinely on fire, just as in his days of youth and innocence. Yes, man is broad, too broad, indeed. I’d have him narrower. The devil only knows what to make of it! What to the mind is shameful is beauty and nothing else to the heart. Is there beauty in Sodom? Believe me, that for the immense mass of mankind beauty is found in Sodom. Did you know that secret? The awful thing is that beauty is mysterious as well as terrible. God and the devil are fighting there and the battlefield is the heart of man. But a man always talks of his own ache. Listen, now to come to facts.

上村松園

顔の時代変遷 美人絵の顔も時代に依って変遷しますようで、昔の美人は何だか顔の道具が総体伸びやかで少し間の抜けたところもあるようです。先ず歌麿以前はお多福豆のような顔でしたが、それからは細面のマスクになって居ります。然しいずれの世を通じましても、この瓜実というのが一番美人だろうと思います。
顔の中心 美人画の顔で一番何処を力を入れて描くかと申せば猶且眼です。眼付のよいのが一番でして、少々外の道具が悪くてもこの眼さえよければ絵が引立つものです。
描者に似る 大変妙な事を申しますが、絵に描く人物の顔は総じて描いた者に似るもので、事に依りますと、猫や鹿でも画家の顔に似る事があります。これは、自分の顔だけは朝夕鏡で見て研究を積んで居りますから、筆を取りますと自然画に現れるのだろうと思います。誠に可笑しいものでございますよ。
自分がモデル モデルを使わないでもありませんが、こちらの思うようになって頂くのが気の毒で却って心配をしなければ成りませんから、私は自分をモデルとする事に致して居ります。あちらに大きな鏡が二面買って御座いますが、必要が起りますとその前で立ったり座ったりしてそれを写し、それから研究して画の材料と致します。勿論自分をモデルとすると申しましても、自分をありの儘画に描くのじゃ御座いませんので、それを材料にして変化するのであります。それからこの影法師が大変参考となりますもので、昼の間鏡に映しましても、外の物が同時に写りましたりしてどうも巧くまいらない時が御座いますが、そういう時は、この喜怒哀楽の表情は写生する事が出来ませんので、どうも自分をモデルに使わなければ仕方が御座いません。

Sonya Patel Ellis

The Botanical Bible tells the story of plants and flowers, beginning with an overview of the plant kingdom and the basics of botany, then offering strategies for gardening with purpose. Later chapters introduce seasonal eating, the healing properties of plants and the world of botanical art.
This stunning gift book is part history, part science, part beauty book, part cookbook and part art book. It will appeal to anyone wanting to use plants and flowers in modern life, whether they are an accomplished gardener or are simply yearning for a more natural life. This comprehensive guide to plants, flowers and botanicals covers a host of practical uses, features vintage illustrations alongside the work of current artists, and is sure to be an inspiration to anyone interested in the natural world.

Lightning Ridge Opal Mines

Solid Black Opals
Only found in the Lightning Ridge area in the far north-northwest of New South Wales. It is the world’s rarest, most valuable, brilliant and stunning opal of them all. A layer of opal, like a band of colour, sits on a naturally occurring dark backing. It is from the colour of the backing that Black Opal gets its name. This dark background known as potch, ranges in colour from light grey through to midnight black.

川瀬敏郎

昔は大根、水菜、蕪など、菜っぱの花はすべて「菜の花」でした。みなありふれた野菜の花ですから、書院をかざるたてはなにそれらをもちいた例はまずありません。モンペ姿で床の間にすわったら笑われる。ところが、その野暮をあえてやった連中がいます。侘茶湯の茶人たちです。
堺の茶人、津田宗久の茶会記には二度、菜種の花をいけた記録があります。利休もある茶会で、「あいにくよい花がなくて」とわびる亭主をさえぎり、庭に咲く瓜の花をみずから切っていけたといいます。あまりに身近で、だれも眼をとめなかった野菜の花を茶室の床の間にいける。桜、梅、椿といった名花とおなじ位置に、なんでもない、名もない花をひろいあげて据えた。それは花の歴史だけでなく、日本人の美意識そのものをかえた事件でした。

亀井勝一郎

 古仏の微笑は云うまでもなく慈悲心をあらわしたものにちがいないが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので、私はいつもはらはらしながら眺めざるをえない。菩薩は一切衆生をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと云った思いが微塵でもあったならばどうか。表情は忽ち誇示的になるか教説的になるか、さもなくば媚態と化すであろう。大陸や南方の仏像には時々この種の表情がみうけられる。大げさで奇怪で、奥床しいところは少しもない。これは仏師の罪のみでなく、根本を云えば大乗の教の至らざるところからくる。思想の不消化に関連しているようである。
 我が思惟像が、あの幽遠な微笑を浮べるまでには、どれほどの難行苦行があったか。そこには思想消化の長い時間があり、また生硬で露骨な表情に対する激しい嫌悪があったにちがいない。古人のそうした戦いを、私は思惟像の背後に察せざるをえないのだ。美的感覚の問題もむろんあるが、その成長の根には信仰の戦いが必ずあったであろうと思う。微笑は必ずしも心和かな時の所産でなく、却って憤怒に憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない。
 私は戦時中それをつぶさに感じた。粗野な感覚、誇示的な表情の横行に対して、つねに武装していなければ精神は死滅するかに思われた。真勇は必ず微笑をもって事を断ずる。真の勇猛心は必ず柔軟心を伴う。だがこれは求めて得られざるところであった。常に正しいことだけを形式的に言う人、絶対に非難の余地のないような説教を垂れる人、所謂指導者なるものが現われたが、これは特定の個人というよりは、強制された精神の畸形的なすがたであったと言った方がよい。精神は極度に動脈硬化の症状を呈したのである。言論も文章も微笑を失った。正しい言説、正しい情愛といえども、微笑を失えば不正となる。正しいことを言ったからとて、正しいとはいえないという微妙な道理をいやになるほど痛感したのである。

Michael J. Ryan

The brain has a long evolutionary history that biases how it assesses the entire world around it, not just the world of sex; and it functions within the framework of numerous neurobiological and computational constraints. I argue that instead of the brain having to evolve to detect beauty, the brain determines what is beautiful, and all of its constraints and contingencies give rise to a breathtaking diversity of sexual aesthetics throughout the animal kingdom.

澁澤龍彦

 北鎌倉のわが家の庭にも、毎年、むらがって水仙の花が咲く。庭ばかりではなく、玄関の前から裏の山にいたるまで、ところどころに青々と芽をふいて花をつける。もちろん私が植えたわけではなく、もう何十年も前から、私がここに移ってくる前から自生しているのだ。
 北鎌倉の山かげには六月のアジサイもよく育つが、それに劣らず冬の水仙もよく育つ。手入れなんかしたことは一度もないのに、年ごとに忘れずに若い芽が伸びてくるのは嫡しい。十一月の半ばころからぼつぼつ咲き出して、三月近くまで花をつけている。

澁澤龍彦

 そうであってみれば、私がここで、その一つ一つを解説してみたところで、いわば焼石に水であろう。薔薇の威光の前には、私ごときは手も足も出ないような感じなのだ。
 むしろ日本あるいは東洋に目を転じて、何のシンボリズムにも毒されていない、野薔薇や庚申薔薇の単純さを愛するに如くはないような気もしてくる。蕪村が「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」と詠んだ花いばらは、素朴な白い花を咲かせる今日の野薔薇であろう。酒井抱一が「十二カ月花鳥図」のなかに描いた白い薔薇も、たぶん西洋種ではない、一重のナニワイバラあたりではあるまいか。
 銀座や六本木の花屋で、大きな薔薇の花束をつくってもらって、友人の家のパーティーに出かけてゆくことがある。そんなとき、通行人の視線をあつめながら花束をかかえて歩いていると、ふしぎに華やいだ気持になる。むろん、これは西洋種の薔薇である。

澁澤龍彦

 さて私のことを書くとすれば、私自身はもう二十年来、あじさい寺として近年とみに名の高い明月院のある、北鎌倉の明月谷という谷に住みついているので、いわばアジサイの本場に住んでいるようなものだ。山かげで湿気が多いから、ここはアジサイの生育にはもっとも好適な土地であるらしく、げんに私の家の庭でも、挿木をすればどんどんふえる。斜面になった岩盤の上の土地で、かならずしも地味がいいとはいえないのに、アジサイだけは勢いさかんに育つのだから不思議である。
 六月の雨季に咲くアジサイの花は、降りつづく雨にけむって、その紫や青や紅が空気の中にしっとり薄く溶け出すような、なんとなく泉鏡花的な幻想に私たちを誘い込む。かつては庭木として珍重されず、せいぜい貧乏寺の境内とか、あるいは背戸(なつかしい言葉だ)なんかに植えられていて、だれからも顧みられなかった。明月院で脚光を浴びているアジサイを見ると、私はタレントに出世した少女を見るような、へんな違和感をおぼえる。
 アジサイの花は、萎れてもそのまま放っておくと、いっかな地上に落ちず、かさかさに乾いて自然にドライフラワーになる。萼が緑色をおびて、アジサイの幽霊みたいな感じになる。私はそれが好きで、この天然ドライフラワーを鋏で切って、広口の瓶に投げこんでおくことがある。

Kakuzo Okakura

The heaven of modern humanity is indeed shattered in the Cyclopean struggle for wealth and power. The world is groping in the shadow of egotism and vulgarity. Knowledge is bought through a bad conscience, benevolence practised for the sake of utility. The East and West, like two dragons tossed in a sea of ferment, in vain strive to regain the jewel of life. We need a Niuka again to repair the grand devastation; we await the great Avatar. Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening the bamboos, the fountains are bubbling with delight, the soughing of the pines is heard in our kettle. Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things.

Kakuzo Okakura

In the trembling grey of a spring dawn, when the birds were whispering in mysterious cadence among the trees, have you not felt that they were talking to their mates about the flowers? Surely with mankind the appreciation of flowers must have been coeval with the poetry of love. Where better than in a flower, sweet in its unconsciousness, fragrant because of its silence, can we image the unfolding of a virgin soul? The primeval man in offering the first garland to his maiden thereby transcended the brute. He became human in thus rising above the crude necessities of nature. He entered the realm of art when he perceived the subtle use of the useless.
In joy or sadness, flowers are our constant friends. We eat, drink, sing, dance, and flirt with them. We wed and christen with flowers. We dare not die without them. We have worshipped with the lily, we have meditated with the lotus, we have charged in battle array with the rose and the chrysanthemum. We have even attempted to speak in the language of flowers. How could we live without them? It frightens one to conceive of a world bereft of their presence. What solace do they not bring to the bedside of the sick, what a light of bliss to the darkness of weary spirits? Their serene tenderness restores to us our waning confidence in the universe even as the intent gaze of a beautiful child recalls our lost hopes. When we are laid low in the dust it is they who linger in sorrow over our graves.
Sad as it is, we cannot conceal the fact that in spite of our companionship with flowers we have not risen very far above the brute. Scratch the sheepskin and the wolf within us will soon show his teeth. It has been said that man at ten is an animal, at twenty a lunatic, at thirty a failure, as forty a fraud, and at fifty a criminal. Perhaps he becomes a criminal because he has never ceased to be an animel. Nothing is real to us but hunger, nothing sacred except our own desires. Shrine sfter shrine has crumbled before our eyes; but one altar forever is preserved, that whereon we burn incense to the supreme idol – ourselves. Our god is great, and money is his Prophet! We devastate nature in order to make sacrifice to him. We boast that we have conquered Matter and forget that it is Matter that has enslaved us. What atrocities do we not perpetrate in the name of culture and refinement!

lieno

ノートという文具の美しさ
ノートに向かう時間は自分と向き合う時間です。
居住まいを正して、自分の心を見つめる、そんな時間を美しい思い出に変えてくれる、ノートは特別で美しい文具だと思います。

三島由紀夫

私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、女の黒い髪は最も派手な、華やかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。

Andrew Juniper

Wabi sabi describes a traditional Japanese aesthetic sensibility based on an appreciation of the transient beauty of the physical world.
It embodies the melancholic appeal of the impermanence of all things―especially the modest, the rustic, the imperfect, and even the decayed.
With its focus on the delicate subtitles, objects, effects, and environments of the natural world, wabi sabi promotes an alternative approach to the appreciation of the beauty and life itself.

Alan Watts

To Taoism that which is absolutely still or absolutely perfect is absolutely dead, for without the possibility of growth and change there can be no Tao. In reality there is nothing in the universe which is completely perfect or completely still; it is only in the minds of men that such concepts exist.

森神逍遥

あなたは日本人として「侘び」「然び」について明瞭に語ることが出来ますか?

日本人を決定付けた梅雨、陰の幽玄―透き通る陽性の幽玄、「わびさび」の語源、陽性の「侘び」との出会い―デカルト・懐疑法より上位としての「侘び」―カント純粋理性批判の所与ア・プリオリの未熟、再定義―美意識の結晶、中観と唯識―「侘び茶」の矛盾、鈴木大拙の孤絶―孤絶観と悟り、茶の始祖一休―一休の迷い、全てのものは枯れゆくもの―西洋的心理構造では悟れない、侘びと悟り―人生の意味を問う―風情―侘び然びの完成

吉村耕治, 山田有子

侘びとは、洗練されており、上品で優美な簡素さに、感動や美を見いだそうとする美意識を意味する。その侘びの精神を作り出しているものは、木や、土、石、わら、竹、各種の食材などの自然の素材である。それらを使って、本来持っている色・形・質感・味・香りなどを引き出して表現することによって得られる美しさが、侘びの心髄である。自然の中に見られる美であるが、自然に置かれている状態の美というよりは、素材の持つ良さを最大限に引き出そうとする人の手が加わることによって生れる美しさである。
寂びは、動詞の「寂ぶ」(「荒れる、古くなる、色が褪せる」の意)の連用形から生じている。形容詞の「寂しい」や、動詞の「寂びる」、金属の場合には「錆びる」という語に意味の繋がりがある。「枯れて風情が出る」とか「古びて趣が出る」と言われるように、時間が経過することによって引き出されてくる美意識を意味する。日々、愛情を注ぎながら使い込んでいる間に、自然とにじみ出てくる美しさや味わいを意味している。

侘び・寂びの色彩美とその背景(PDFファイル)

Wikipedia

The Japanese aesthetic is a set of ancient ideals that include wabi (transient and stark beauty), sabi (the beauty of natural patina and aging), and yūgen (profound grace and subtlety).

蓮華の五徳

淤泥不染: 泥の中に咲いても、泥に染まらないきれいな花を咲かせる。
一茎一花: 一つの茎に一つの花を咲かせる(一つの花しか咲かない)。
花果同時: 一度に咲く。そして、咲くと同時に実ができる。
一花多果: 一つの花にたくさんの実をつける。
中虚外直: 茎は中にいくつかの空洞があり、まっすぐに伸びている。

Friedrich Nietzsche

I want to learn more and more to see as beautiful what is necessary in things; then I shall be one of those who makes things beautiful. Amor fati: let that be my love henceforth! I do not want to wage war against what is ugly. I do not want to accuse; I do not even want to accuse those who accuse. Looking away shall be my only negation. And all in all and on the whole: some day I wish to be only a Yes-sayer.

熊田千佳慕

自然は自らの美しさを知らないから美しく、奥ゆかしい。
その美しいという感覚は、愛がなければ持つことができません。
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どんな命も、愛するからこそ美しいと思うんです。
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美しいものに出会うと気持ちは今でもドキドキします。
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自然は美しいから美しいのではなく、愛するから美しいのです。

Osho

I love this world because it is imperfect. It is imperfect, and that’s why it is growing; if it was perfect it would have been dead. Growth is possible only if there is imperfection. I would like you to remember again and again, I am imperfect, the whole universe is imperfect, and to love this imperfection, to rejoice in this imperfection is my whole message.

Osho

If you love a flower, don’t pick it up.
Because if you pick it up it dies and it ceases to be what you love.
So if you love a flower, let it be.
Love is not about possession.
Love is about appreciation.

Lars Svendsen

Plurality in the field of fashion is not least a product of the enormous amount of visual information that bombards us every day. Susan Sontag claims that a society becomes modern when one of its main activities is to produce and consume images. In that case, we are close to living in the most modern of all possible worlds. All of us have become ‘image junkies’, as Sontag puts it. According to Hal Foster, we are unable to escape the logic of the image, because images both create a loss of reality and at the same time give us something – namely new images – that enable us to soften or deny this loss. The image becomes a substitute for reality. Hannah Arendt writes: ‘The reality and reliability of the world rest primarily on the fact that we are surrounded by things more permanent than the activity by which they were produced, and potentially even more permanent than the lives of their authors.’ Conversely, a world where the lifespan of things is completely at the mercy of the whims of fashion is an unreal and unreliable world. For Lipovetsky, fashion becomes the life-guide, because it trains us to live in a world where everything is constantly changing. Viewed this way, fashion ought to be an ideal life-guide for a world whose premises it has set itself. The question is whether it really can fulfil such a role.

天辰保文

その歌声は、透きとおっていて、美しい。歌というのが、その美しさによって、祈りになることもあれば、救いになることもあるのだと、改めて思い知らされるほどの美しさだ。朝霧が漂う森の中を、その日初めての陽射しを浴びながら流れる小川のように清らかで、と同時に、その美しさは、嵐が吹き荒れる夜の海でさえも凛と響き渡るような強さをも備えている。また、冬の夜に舞い降りる雪の音よりも、ひめやかでつつましい。
この人に歌われると、普段、身の回りで乱暴に飛びかう日本語が、日本語という言語がこんなにも麗らかで、厳かで、気品があったのかと気づかされることさえある。
彼女の歌声を聴くたびに、忘れて久しいものと再会し、懐かしい大切なものに触れたときのように、心穏やかになるというか、心洗われるというか、理由もなく心が安らぐ。

日建設計

窓の開かないオフィスが多い中、当ビルは人が手で窓を開け気軽に自然換気を行えるようになっています。こうしたオプションがあることは、災害時に煙が出た時にも、いつものように窓を開けて、バルコニーに出られるという安心感にもつながります。
また、床から空気がしみ出す空調機を採用しているので、例えば寒く感じた時は、社員が吹き出し口にマットを敷いて、冷たい空気をブロックするなど、自分で環境を整えることができるようになっています。

一般的なビルは、空間の上部に梁があり、梁と梁の間に空調機が、さらには梁下に天井が「つられている」状態です。しかし当ビルではコンクリートの床の上に梁をつくり、その間に空調機を置き、その上に床を貼って居住するようにしています。この方式だと重いものは床下に「置かれている」ので、落ちてくる心配がありません。また床下に備蓄品も入れることができ、災害時の不便さも軽減し安心できるようになっています。

kd factory

本書の付属DVD-ROMに収録されている素材データの著作権は著者に帰属します。素材データは本書の購入者に限り、個人利用および商業利用を問わず、何度でも使用することができます。新聞・雑誌・広告等のDTPデザイン、Webデザイン、自社製品パッケージ、チラシ、店舗POP、テレビ番組のテロップ、漫画・アニメーション作品の衣装や背景等、各種デザインワークにご使用いただくことができます。ただし、本書は本書は素材集としてデータを提供しているため、オリジナルコンテンツと組み合わせるなど、あくまで素材データとしてお使いください。
・加工に関しても制限はありません。
・使用許諾範囲内での素材データ使用に際して、使用許諾申請やクレジット表記は必要ありません。

Flavia Mazelin Salvi

Mélancolie, renoncement à l’éclat, simplicité, rusticité, imperfections, marques du temps, asymétrie, humilité, nature… Le wabi-sabi, concept esthétique japonais, est tout cela à la fois, et bien plus encore. Pour saisir son essence, il faut faire autant appel à ses sens et à sa sensibilité qu’à sa raison. Leonard Koren, architecte et théoricien de l’esthétisme qui lui a consacré non seulement un livre1 mais aussi des années d’études, en donne une définition en forme de poème impressionniste : « Wabi-sabi est la beauté des choses imparfaites, impermanentes et incomplètes. C’est la beauté des choses modestes et humbles. C’est la beauté des choses atypiques. » Il nous apprend que le wabi-sabi est « associé au bouddhisme zen et que l’on pourrait même l’appeler le “zen des choses”, étant donné qu’il illustre de nombreux principes spirituels/philosophiques du zen ». Contemplation, humilité, sérénité et détachement en sont quelques-uns.

土門拳

頬にあてられている
右手の細くたおやかな指先は
色っぽく、
官能的といえるほど
しなやかな表現を与えている。

ぼくは
この観音像くらい、
女、
それもゆたかな母性を
感じさせる仏像を
ほかに知らない。

広隆寺

立ち上がるでもなく
座り続けるでもなく
語るでもなく
笑うでもなく
そして ただ 沈黙するでもない
幸せでも
不幸せでもなく
夜でもなく
朝でもない
太陽でも
月でもない
しかしあなたは私を受け入れてくれている

水上勉

一、こんなものを手すさびにつくったから、何かの物入れにして下さい。 一、物入れにするのは勿体ない芸術品です。
二、山奥のくらしだから、こんなものを眺めて海を思い出して下さる日もございましょう。 二、なるほど若狭の海の光景がうかびます。
三、かなり口がひろがりすぎて、依頼主にわたすと何やかや文句をいわれるやもしれんので、あなたに送ります。くず入れにでもしてくれませんか。 三、くず入れなどもってのほかです。
四、魚籠というものは、もともと魚を入れるためにつくるものですが、仕上がってみると、形がはなはだおもしろく、魚を入れなくても、壁かけにして、花でも活けてもらうと楽しいです。どうか、お好きなようにお使い下さい。 四、花を活けるのはいいですね。中に竹筒を入れれば、たしかに壁かけになります。それがいちばん山の家にふさわしい。秋は花がいちめん。さっそく、野生のコスモスをとってきてつめこんてみたくなりました。
五、からっぽの魚籠はどこか淋しいですか、考えようによっては、物を入れなくても香しい風光かつまっています。本来無一物。中有風露天日(なかにふうろのかおりあり)といったところですか。 五、だが、最後の風露香もいいですね。たしかに、魚籠は魚を収穫した時の入れ物にちがいありませんが、魚が入っていなくても、風格があります。この風格は、魚龍独得のかたちにあります。水につけておけば、収穫の魚が生きておれるのですが、魚も水も入っていない入れ物はたしかに淋しさはあるとはいうものの、中に香しい空気がみちあふれています。
 もはや、何を入れなくても、それ自体が香りの箱です。すばらしい容器をありかとう。

白洲正子

 外出から帰り、暗闇の中に梅が匂うとき、私は春の前触れを知る。そして同時に、王朝の人々の生活を思わせるような、春風駘蕩とした気分になる。思い浮かぶのは紀友則の、
  君ならで誰にか見せぬ梅の花
    色をも香をもしる人ぞしる
 友則は貫之の従兄弟で、貫之とともに『古今集』の編纂に携わったが、完了を見ることなく、官位も低いままに終わった。この歌には、そうした友則の運命のはかなさがあると思うが、ほのかな梅の香が、その間を余計に増幅させる。

Frank Wilczek

The Schrödinger equation is approximate, in two important ways. First, it is based on nonrelativistic (Newtonian) mechanics, rather than on Einstein’s relativistic mechanics. Paul Dirac, in 1928, provided another equation for electron wave functions that obeys the assumptions of special relativity. Second, it does not contain the effects of quantum fluctuations, such as virtual photons, on the electrons. Nevertheless, the Schrödinger equation is accurate enough for most practical applications of quantum theory to chemistry, materials science, and biology, and it is the version of quantum theory that is usually adopted in treating those subjects.

岩井茂樹

「幽玄」に関して言えば、大西は「幽玄」という概念を次の七つの特徴を持つものとして規定した。それは、
 (一) 何らかの形で隠され、蔽われていること、
 (二) 仄暗く、朦朧で、薄明であること、
 (三) 静寂であること、
 (四) 深遠であること、
 (五) 充実していること、
 (六) 神秘性、または超自然的であること、
 (七) 非合理的、不可逆的、微妙であること、
の七つであった。大西氏の「幽玄」理解がかなり象徴的であり、かつ神秘的であることは疑いを入れないところであろう。

大九工務店

やがて、余計なものをすべてそぎ落とすかのような、単純にして質素な茶事が注目されるようになります。そこでは侘と寂という日本人ならではの感性が尊ばれました。
この侘と寂にはいろいろな解釈が存在し、これが正解というものはありません。ただ豪華絢爛な美の世界の対極にある、素朴で、歳月の過ぎゆくままに古びてゆく姿に美を見る境地。日本古来の「もののあはれ」にも通じる感覚です。
たとえば木の家具が何年もかけて傷んでいく様子、そうした身近な滅びの姿も侘と寂を感じるものといえます。茶の世界における寂という言葉は、錆と同じ意味合いを持ち、時の経過により自然に古くなってゆく様子を表わします。

Leonard Koren

Whether it’s trying to convince others that something is more true, more virtuous, or more desirable–all communication is rhetoric in action.

志村ふくみ

Midori緑の色は直接出すことができないが、そのかわり、青と黄をかけ合わせるこおによって緑が得られる。すなわち、藍がめに、刈安・くちなし・きはだなどの植物で染めた黄色の糸を浸けると、緑が生まれるのである。ほかの色は色が染まるというのに、緑のときだけはなぜか生まれるといいたくなる。


Donald Richie

A Tractate on Japanese AestheticsMany Japanese writers prize a quality of indecision in the structure of their work. And something too logical, too symmetrical is successfully avoided when writers ignore the suppositions of the questions asked of them. It is then not the assumptions of the writer’s controlling mind that are followed but, as the Japanese phrase it, the brush itself.
Zuihitsu, the Japanese word we might translate as “essay,” implies just that—following the brush, allowing it to lead. The structure is the multiplicity of strokes that make up the aesthetic quality, one which they imply and which we infer.


Kenya Hara

DesigningDesigndesign, is basically not self-expression. instead, it originates in society. the essence of design lies in the process of discovering a problem shared by many people and trying to solve it. because the root of the problem is within society, everyone can understand plans for solutions and process for solving the problem, in addition to being able to see the problem from the designer’s perspective. design is appealing because the process creates inspiration that is engendered by this empathy among human beings in our common values and spirituality.


Rabindranath Tagore

It is very simple to be happy, but it is very difficult to be simple.

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Clouds come floating into my life,
no longer to carry rain or usher storm,
but to add color to my sunset sky.

表千家不審菴

利休の曾孫にあたる江岑宗左が、千家に伝わる伝承を書き記した文書のなかには、次のような逸話があります。利休は高麗筒の花入を四畳半の床柱にいつも掛けていた。利休が申されるには「この筒花入、鉢開の黒茶碗と墨跡を持っていれば、山住まいをしても寂しいことはない」。高麗筒の花入は、わびた趣の南蛮物の筒花入で、利休晩年のわびを象徴する道具の一つとして知られています。また鉢開は利休七種にもあげられる長次郎作の黒茶碗です。これらの花入と茶碗、そして禅の象徴である墨跡があれば、山住まいをしても寂しくないという利休の言葉は、利休の茶の湯の理想がどのようなところにあったのかを示しています。
直接目に見る美しさではなく、その風情のなかに美的な境地や、心の充足を探求しようとする精神をもって見ることのできる美しさ、すなわち「目」ではなく、「心」で見る美しさが利休の「わび」であり、利休の茶の湯を語るキーワードともいえるでしょう。

志條みよ子

SakamotoMutsuko撮られている場所は、晩年睦子さんが客分として務めていたバーの一隅で、カウンターの上には高く盛られた果物皿やガラス製の花瓶などが見え、手元に水割りらしいコップが置かれ、灰皿には煙草の吸いかけが覗いている。
両掌を軽く合わせてカウンターへのせ、上体を少し前かがみにした姿勢を、斜め横から写したもので、まさに明眸皓歯の笑い顔である。きりっと後部に引き詰めた束髪が、豊満な耳朶をそっくり露出させ、頸筋から顎先にかけての線がことに美しい。
眼は大きい一重瞼で、笑い顔のせいか、瞳の黒さが一際に優しい輝きを放っている。モノクロームなので、髪と着物が漆黒に写り、額から鼻梁へのほどよいライトが顔面の白さを一段と映えさせている。愁いの翳りなど微塵もない、上品でしかも清すがしい麗姿麗貌である。