唐木順三

乱世も百数十年もつづくと、ひとはいはば乱世ずれがしてくる。乱世がむしろ通常のこととして受取られるやうになつても、それが乱世であることには変りはない。ひとびとはまた乱世なるが故の自由、伝統や儀式や規則から開放された個人の自由、当時の言葉でいへば「雅意」(我意)による行動の自由を感じまた実行するやうになつた。乱世においては、各自は各自の力で生きるより外はない。力のないものは己が計りごとによつて生きる工夫をする。『徒然草』は、さういふ無秩序の時代の無秩序な自由狼藉や、教養もたしなみもしつけも無い庶民また成上り者に対して辛辣な批評を加へてゐるが、同時にまた批評の自由、拘束のない精神の自由を十分に味はつてゐる。

One thought on “唐木順三

  1. shinichi Post author

    古今集以来新古今時代まで、即ち王朝を通じて、「心」を種とする文化、詩歌がつづいた。この時代においては歌には題詠が多くなり、また本歌取が流行した。即ち歌は感情のおのづからの流露ではなくなつて、「相かまへて、こしらへていだすべきもの」(定家)となつた。歌は工夫であり、言葉の構築となつた。例外はもちろんあるが、さういふ傾向が一般であつたといへよう。

    定家と同時代の後鳥羽院は西行を「生得の歌人」(生まれながらの歌人)と評したが、御自身もまたそれであつた。源実朝も、式子内親王もまた生得の歌人の素質があつた。さかのぼれば和泉式部、或ひはまた曾禰好忠などを挙げうるかもしれぬ。口をついて歌が出てくる、しらべが言葉をよびこむといふやうな人々である。

    既に誌したやうに、西行や長明にいたつて、心と感覚、思ふことと為すこととの間の分裂の意識がでてきた。逆にいへば、激情が思慮分別を乗りこえて、その激情の中へ身も心もなげいれてゆくといふ風が出て来た。心は既に自己の全体に対する統制力を失つてゐる。外では日常の生活や行動に対する規制原理であつた伝承の心、理性、良識、常識が通用しなくなつてくるやうな時代環境がでてきてゐた。慈円(1155-1225)はその『愚管抄』の中で、いまは「継目」の時代であるといつた。従来、社会や人間を統制してきた「道理」が既にその力を失つて、非道理即ち無理が横行してゐる末世末法の時代だといつた。

    かういふ不安の時代においては、常識また良識としての心、社会通念としての心を越えて、いはゆるひとへ心、ひたぶる心が出てくる。当時の人々が「数奇」といつたのがそれである。数奇は一方では「好き」に通じ、各々のすきこのみに通じてゐる。即ち個人的である。世の中はどうにでもなれ、ただおのれはおのれの数奇に生き、数奇を貫くばかりといつた風情である。ここでは正統や伝統などは通用しない。

    乱世も百数十年もつづくと、ひとはいはば乱世ずれがしてくる。乱世がむしろ通常のこととして受取られるやうになつても、それが乱世であることには変りはない。ひとびとはまた乱世なるが故の自由、伝統や儀式や規則から開放された個人の自由、当時の言葉でいへば「雅意」(我意)による行動の自由を感じまた実行するやうになつた。乱世においては、各自は各自の力で生きるより外はない。力のないものは己が計りごとによつて生きる工夫をする。『徒然草』は、さういふ無秩序の時代の無秩序な自由狼藉や、教養もたしなみもしつけも無い庶民また成上り者に対して辛辣な批評を加へてゐるが、同時にまた批評の自由、拘束のない精神の自由を十分に味はつてゐる。

    豊臣一族を全滅させた上に成立した徳川氏は、自己の政権を永続させることをもつて至上の使命とした。その使命を達するために、思想、言論、信仰はもとより、衣食住にいたるまで一切を統制した。士農工商の身分は世襲的に固定し、住民はみだりにその住む地から離れることはできない。この統制はさまざまな法度、禁止令、また掟や覚え書、心得書によつて細部まで行きわたり、それに違反するものは厳罰に処せられた。その監視機関としていはゆる目付が置かれ、連座制がとられた。まさに警察国家、独裁政権であつた。ここには中世の狼藉の自由、下剋上の自由、我意の自由、脱体制の自由などあらう筈がない。芭蕉は右のやうな諸統制、諸法度がもつともゆきわたつた時代に生れた。

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