対話って、話すとか語るとか、言葉がポンポン行き交うものだと思われがちですが、『きき合う営み』だと思います。相手の言葉の奥行きと、そこにあるものを確かめていく道のりです。
誰かの言葉に耳を澄ますだけでなく、どういうことなんだろう、なぜここで言いよどんだのだろうと、考え、確かめていく。どうしてですか、と尋ねる『訊く』もあるはずだし、共に悩むなど時間的なものを共有する営みでもあるはずです。その態度は広い意味で、暴力に抗する営みであると考えています。
対話って、話すとか語るとか、言葉がポンポン行き交うものだと思われがちですが、『きき合う営み』だと思います。相手の言葉の奥行きと、そこにあるものを確かめていく道のりです。
誰かの言葉に耳を澄ますだけでなく、どういうことなんだろう、なぜここで言いよどんだのだろうと、考え、確かめていく。どうしてですか、と尋ねる『訊く』もあるはずだし、共に悩むなど時間的なものを共有する営みでもあるはずです。その態度は広い意味で、暴力に抗する営みであると考えています。
私たちは本当に対話できているのか 永井玲衣さんと考えるヒント
永井玲衣
https://www.asahi.com/articles/ASR9V5G1BR9FULLI00B.html
――永井さんが考える対話とはどんなものですか。
「対話って、話すとか語るとか、言葉がポンポン行き交うものだと思われがちですが、『きき合う営み』だと思います。相手の言葉の奥行きと、そこにあるものを確かめていく道のりです」
「誰かの言葉に耳を澄ますだけでなく、どういうことなんだろう、なぜここで言いよどんだのだろうと、考え、確かめていく。どうしてですか、と尋ねる『訊(き)く』もあるはずだし、共に悩むなど時間的なものを共有する営みでもあるはずです。その態度は広い意味で、暴力に抗する営みであると考えています」
――コロナ禍でオンライン化が加速しました。対話の形は変わりましたか。
手のひらに哲学を
【手のひらに哲学を】第二話:哲学対話とは? ふだんのコミュニケーションで、私たちができていないこと
北欧、暮らしの道具店
編集スタッフ 松田
https://hokuohkurashi.com/note/294083
哲学対話とは、どんな場ですか?
フランスの哲学者サルトルの本を読み、この世界の意味づけはわたし自身がしていいのだという考えに衝撃を受け、大学の哲学科へ進んだ永井さん。大学院を卒業した現在は、小学校や企業などで「哲学対話」という場をひらく活動をされています。
哲学対話とは、いったいどんなことをするのですか?
永井さん:
「哲学対話とは、簡単に言うと、哲学的なテーマについて、参加したひとと一緒に考えて、対話するというものです。普段当たり前だと思っていることを改めて問い直して、じっくりと考えて言葉にしたり、ひとの考えを聴いてびっくりしたり。フランスやアメリカなど世界各地で行われていて、日本でもここ数年でかなり広まってきた営みです。
対話のテーマは “問い” と呼んでいて、はじめるまえに参加者から問いを集めて、ひとつに決めます。たとえば『なんでひとは独り言を言うんだろう?』とか『将来の夢って持たなきゃだめ?』とか、『なんで “いい日記” を書きたいって思っちゃうんだろう?』など、その場によってさまざまです。
参加者は基本的に誰でもOKで、場所も選びません。小学校や美術館、お寺や公民館、会社やカフェなど。知識も特に必要なくて、思ったことを自分の言葉で素直に言えばいい。そうして対話をして、終わりの時間がきたら終わるというものです」
ひとと喋るのが苦手だった自分を思い出したんです
永井さん:
「わたしは大学4年のときにはじめて、先輩に誘われて哲学対話に参加しました。その時はたしか『自由とはなにか』というテーマだったと思うのですが、その雰囲気に圧倒されて、最初のうちは全く言葉を発せなかったんです。
でも対話を聴いているうちに、わたしも最後の最後に何か喋りたくなって。それでようやく喋ったら、あまりにめちゃくちゃなことを言っちゃって。びっくりするくらい、みんなに伝わらなかったんですよ。
当時のわたしは、高校生のときとは違って、誰かと話すことを楽しく感じていたんです。でもそれは、大学の先生や仲間などツーカーのひとばかりに囲まれていたからなのだ、と気づきました」
永井さん:
「言葉に詰まる、やっと口から発せても意味不明な言葉ばかり出てきてしまう。もともと人前で話すことが苦手だったということを強烈に思い出したんです。でも不思議と、また来なよと誘ってもらえて。
参加を重ねるうちに、今度は大学の先生が行っていた小学校での哲学対話の活動に少しずつ関わるようになり、ファシリテーターをする今に至っています。
そんな流れで哲学対話をひらくひとになったのですが、いまでも誰かと対話するのは苦手だし、こわいんですけれどね」
よくきく、自分の言葉で話す、「結局ひとそれぞれ」で終わらせない
永井さんがひらく哲学対話には、いくつかの約束ごとがあります。
・よくきくこと
・自分の言葉で話すこと
・“結局ひとそれぞれ”にしないこと
この3つをはじめにお願いするそうですが、実はこれ、わたしたちが普段のコミュニケーションで、できていないことなのだといいます。たしかに「ひとそれぞれ」という言葉、わたしももう考えたくないなという時に頼りがちです。
永井さん:
「そうなんです。もちろん、“ひとそれぞれ”というのは何事も確かにその通りではあるのですが、それだと対話が終わってしまって、お互いの考えが深まらないままになってしまいます。
どうしてこの3つの約束をお願いしているかというと、普段の生活のなかで、安心して、自分の言葉で話したり、人の話をじっくり聴いたりできる、そんな対話の場が少なすぎると感じたからなんです。
わたしたちは、ひとの話をじっくり聞かず、沈黙をおそれてしゃべりすぎてしまうし、自分の言葉ではなく偉い人の言葉を使ってしまうこともあれば、最後には “結局ひとそれぞれじゃん” と言って、コミュニケーションを終わらせてしまう。それをひっくり返して、じっくり考えて話してみようよ、というのが哲学対話の場です。
加えて心構えとして、途中でわからなくなっても大丈夫だし、意見が変わってもいいし、無理にいいことを言わなくてもいい、ということも伝えます。この約束ごとはすべて、安心しておそれず話してほしいという願いから生まれました」
聴くことは、待つこと
ルールのひとつ、「よくきく」というのも印象的でした。
永井さん:
「“きく”ことって、本当に難しいことだと思います。はじめての哲学対話でまったく話せなかったと言いましたが、同時にまったく人の話を聞けなかったんです。いや、聞くことには集中していたので、じーっと音は耳に入るのですが、その人が伝えたいことや意味を咀嚼できなかった、という感じでしょうか……。
わたし自身の経験からも思うことですが、ひとというのは、自分の伝えたいことをすぐに言葉にできるわけじゃない。心のなかで『自分が伝えたいことと何かがずれてる、ずれてる』と思いながら、言いよどんだり、止まったりして、なんとか言葉を探して紡いでいる。
だから、“きく”というのは、とにかくそれをじっと待つことだと思うんです。あなたの言ったこと、まずはそのまま受け止めますよ、でも、もしかしたらもっと伝えたいことがあるのでは?と、じっくり待って、受け止める。そうするうちに、だんだんと本人も伝えたかった言葉がみつかっていく。
哲学対話を通して、お互いにそんな体験ができたらいいなぁと」
著書の中で、永井さんはこれまでの哲学対話でのエピソードに添えて、こんなふうに綴っています。
完全に通じ合わなくてもいい。わかりあうことはゴールではない。わかりあうのではない、わかりあおうとしあうこと。互いに空を飛ぶことを夢見ること、それだけでいい。
これまでわたしは、誰かとひとつのテーマについて話すときは、明確な目的やゴールが必要なのだと思い込んでいました。哲学対話では、わかりあうのがゴールではなく、わかりあおうとする姿勢が大切なのだというお話に、なんだかほっと気が抜けるような、と同時にその対話は実際はどんなふうに感じられるのだろうと不思議で、正直こわいような感じもします。
永井さん:
「そうですね。哲学対話が終わったあとに、『哲学対話はどうやったら成功なのですか?』とか『今日の対話はうまくいきましたよね?』という質問をいただくことがあるんです。
対話が成立したのかどうか、気になる気持ちはすごくわかるんです。哲学対話って、普段のわたしたちのコミュニケーション、たとえば会社の会議やなにかテーマを持った議論などと比べると、すごく変な時間に感じられるから」
永井さん:
「この不思議な、そして苦しくもある、水の中をもがくような時間って一体なんだろうって、わたしもずっと問い続けていて。
哲学対話をひらくひとになって、さまざまな場を重ねてきて、いま思うのは、わたしたちは決してわかりあうことはない。だけれども、わかりあおうとしあう、そのこと自体に希望を感じられるし、わたしたちって、めっちゃバラバラな存在なんだ!と認め合った瞬間に、やっと対話がはじまるということなんです。
どうせわかりあえないから退場します、ではなくて、じゃあここからはじめようって。だから対話というのは、コミュニケーションというよりもチャレンジに近いんです。
いや、でもチャレンジというとすこし明るすぎるから、“試み” という言葉のほうがしっくりくるかもしれません。そんな試みを信じられる場をつくっていきたいですね」
水中の哲学者たち
by 永井玲衣
みなが水中深く潜って共に考える哲学対話。
「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」
それを追い求めて綴る、前のめり哲学エッセイ!
小さくて、柔らかくて、遅くて、弱くて、優しくて、
地球より進化した星の人とお喋りしてるみたいです。
──穂村弘
もしかして。あなたがそこにいることはこんなにも美しいと、
伝えるのが、哲学ですか?
──最果タヒ
「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」それを追いかけ、海の中での潜水のごとく、ひとつのテーマについて皆が深く考える哲学対話。若き哲学研究者にして、哲学対話のファシリテーターによる、哲学のおもしろさ、不思議さ、世界のわからなさを伝える哲学エッセイ。当たり前のものだった世界が当たり前でなくなる瞬間。そこには哲学の場が立ち上がっている! さあ、あなたも哲学の海へダイブ!
人々と問いに取り組み、考える。哲学はこうやって、わたしたちの生と共にありつづけてきた。借り物の問いではない、わたしの問い。そんな問いをもとに、世界に根ざしながら世界を見つめて考えることを、わたしは手のひらサイズの哲学と呼ぶ。なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学だ。(「まえがき」より)