五重塔(幸田露伴)

 去る日の暴風雨は我ら生まれてから以来第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし例をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質の老人さえ、真底我折って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで談話の種子にするようの剽軽な若い人は分別もなく、後腹の疾まぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、他の憂い災難をわが茶受けとし、醜態を見よ馬鹿欲から芝居の金主して何某め痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋の潰れ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お神楽だけのことはありしも気味よし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒から多分の寄附金集めながら役僧の私曲、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱も桶でがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔を作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことに鑿啣んで十六間真逆しまに飛ぶところ、欄干をこう踏み、風雨を睨んであれほどの大揉めの中にじっと構えていたというが、その一念でも破壊るまい、風の神も大方血眼で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎このかたの名人じゃ真の棟梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分歪みもせず退りもせぬとはよう造ったことの。いやそれについて話しのある、その十兵衛という男の親分がまた滅法えらいもので、もしもちとなり破壊れでもしたら同職の恥辱知合いの面汚し、汝はそれでも生きて居らりょうかと、とても再び鉄槌も手斧も握ることのできぬほど引っ叱って、武士で云わば詰腹同様の目に逢わしょうと、ぐるぐるぐる大雨を浴びながら塔の周囲を巡っていたそうな。いやいや、それは間違い、親分ではない商売上敵じゃそうな、と我れ知り顔に語り伝えぬ。
 暴風雨のために準備狂いし落成式もいよいよ済みし日、上人わざわざ源太を召びたまいて十兵衛とともに塔に上られ、心あって雛僧に持たせられしお筆に墨汁したたか含ませ、我この塔に銘じて得させん、十兵衛も見よ源太も見よと宣いつつ、江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す、年月日とぞ筆太に記しおわられ、満面に笑みを湛えて振り顧りたまえば、両人ともに言葉なくただ平伏して拝謝みけるが、それより宝塔長えに天に聳えて、西より瞻れば飛檐ある時素月を吐き、東より望めば勾欄夕べに紅日を呑んで、百有余年の今になるまで、譚は活きて遺りける。

7 thoughts on “五重塔(幸田露伴)

  1. shinichi Post author

    2024年1月5日(金)

    祖父、母、娘が暮らす家

    今週の書物/
    『小石川の家』
    青木玉著、講談社文庫、1998年刊

    三週間前に取り上げた幸田文は、父親の幸田露伴の晩年の世話をし、一緒にすごすなかで『雑記』を書き、文筆家になっていったが、文の娘の青木玉もまた、祖父の露伴と母の文との三人きりの生活を描いた『小石川の家』で文筆家としてのスタートをきった。

    昭和4年生まれの玉の文章は、戦後に書かれた文章ということもあって、とても読みやすい。文は明治37年生まれだが、すべての作品が戦後に出版されたためか、読み難くはない。どちらの文章も、古い漢字と古い仮名遣いで書かれている露伴の文章とは別物だ。

    ところが「青空文庫」で露伴の文章を実際に読んでみると、思ったより読み易い。落語家か講談師に頼んで読んでもらうと味が出るような文章で、リズム感があり、読点(、)はあっても句点(。)が極めて少ない。論理的に組み立てられた文章というよりは、読んだときに調子よく読めるかどうかを意識した文章だ。

    『五重塔』の『其三十五』の段を例にとってみると、

    去る日の暴風雨は我ら生まれてから以来第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし例をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質の老人さえ、真底我折って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで談話の種子にするようの剽軽な若い人は分別もなく、後腹の疾まぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、他の憂い災難をわが茶受けとし、醜態を見よ馬鹿欲から芝居の金主して何某め痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋の潰れ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お神楽だけのことはありしも気味よし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒から多分の寄附金集めながら役僧の私曲、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱も桶でがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚剥がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔を作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことに鑿啣んで十六間真逆しまに飛ぶところ、欄干をこう踏み、風雨を睨んであれほどの大揉めの中にじっと構えていたというが、その一念でも破壊るまい、風の神も大方血眼で睨まれては遠慮が出たであろうか、甚五郎このかたの名人じゃ真の棟梁じゃ、浅草のも芝のもそれぞれ損じのあったに一寸一分歪みもせず退りもせぬとはよう造ったことの。

    という具合である。新宿の末廣亭か上野の鈴本演芸場にでも迷い込んだような錯覚にとらわれるではないか。言葉を並べるだけで読み手をぐいぐいと引き寄せるテクニックには目を見張るものがある。さすが慶応3年生まれ、というところか。

    玉の文章は違う。生活のなかの細々としたことが、淡々と綴られる。「日常が大事」という声が聞こえてくるようだ。とはいっても、

    三箇日は、親類、ご近所、例年みえるお客様で朝から晩まで来客に追われる。玄関番、取り次ぎは子供の役目で、玄関、客間、台所、あっちへ行き、こっちへ呼ばれ、立ったり居たりお辞儀ばかり。朝のうちは、玄関だけで立ったまゝお帰りになる方、桜湯と紅白に寿の軽やき、又、お屠蘇と一ㇳ口の肴の型通りお年賀にみえる方、昼頃から夜までは客間いっぱい、先客が帰る玄関で、次のお客様がつかえて入れず外でお待ちになるなどよくあって、いつもみえる馴れた方は、勝手に茶の間で母をつかまえて話し込んだり、隣りの八畳でお酒の酔いをさます方もある。祖父は次々お客様におめでたを述べながらも、相手変れど主変らずで疲れて不機嫌ぎみだ。

    というような文章を読むと、なぜか露伴を感じてしまう。DNAのなせるわざか、それとも一緒に住んでいたせいなのか、何かが似ているのだ。

    で今週は、青木玉の数々の思い出からなる一冊を読む。『小石川の家』(青木玉著、講談社文庫、1998年刊)だ。あとがきに「『露伴先生はやさしいお祖父様でいらっしゃったのでしょうねえ』と聞かれて、ついうっかり私の小さい時に叱られた数々を喋ってしまった」とある。著者の思い出がそのまま本になった、と考えていいだろう。

    露伴は難しい老人になっており、何にでも突っかかる。文はそれを承知し切っているから、何か言われそうだなと思うと玉を使う。玉が露伴のところに薬を持って行った時の描写が面白い。

     お盆に乗せた薬の小さいガラスの盃を見て、
    「おや、又何か出てきたのか、それは何だね」
    「食間のお薬です」
    「お隣の先生がよこした薬かい」
    「はい」
    「何のためのものかおっ母さんは言っていたか」
    「いえ、お上げしてくるようにって」
    「うむ、それでお前は何も聞かずに持って来たのか」
     はい、と言っても、いいえと言っても返事にはならない。

    こういうのを三又というそうだ。はいもダメ、いいえもダメ、聞いてきますもダメ。叱られるほか、道はない。黙って畳のへりでも見ていれば、そこに返事が書いてあるのか、と突っこまれ、口をきかずに腰を浮せれば、返事もしないで座を立つことが出来るのか、ならば立ってみろ、と足払いがかかる。「申し訳ありません」と言えば、「何を申し訳ないと思っているんだ」と言って、長々とした説教が始まる。叱られるというが、度を超えている。

    どの思い出のなかにも理不尽な話がでてくる。でも、不思議と嫌な感じはしない。それはたぶん、一緒にすごした人たちだけが持つ情のようなものが背景にあるからだろう。この家のなかにある露伴と文との、露伴と玉との、そして文と玉との関係性は、それぞれに違う。三人の性格も違う。時代背景も違う。何から何まで違うなかで、お互いを理解し合おうとし、助け合おうとして暮らしていたのだから、家の雰囲気が暖かいのも自然だろう。

    それにしても、である。明治の男の、なんと厄介なことか。年をとって何事もうまくいかなくなったからといって突っかかり、叱る。しかも偏屈だ。これでは二人目の妻に愛想を尽かされるのも仕方がない。想像するに、この家のなかで、孫の存在は大きかったに違いない。玉は、とても素直だ。しかもカラっとしている。家が明るかったのは、彼女によるところが多かったのではないだろうか。

    家の中心であった露伴か死ぬ。玉が結婚し子どもが生まれて出て行く。やがて文も死ぬ。文の葬儀の後、壺を抱えて「小石川の家」に戻った玉の上に、昇って来たばかりの大きな白い月がぽっかりと浮んでいる。

    久びさに見る望の月だ。何て穏やかないい暮れ方だろう。思いが和んで立ちつくしていた。

    この終わり方は、いい。「小石川の家」は、どんな時も、穏やかで、思いが和む場所だった。その場所の思い出の数々は、どこまでも透き通っている。

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