国益、つまり経済的見知から考えて核の行使にはまったくメリットがない、ということであれば誰が予算をつぎ込むか。核実験にはメリットがあると考えているから行われるのである。
そして、これは先日、明治大学の水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が全体の半数以上存在したことと無関係ではない。私たちにとって優先されるべきことは、多くの場合は所属している集団、組織の利益である。
その意味において、日本が原爆の被害者であり続けるという感覚はどこかで()で括らなければならないだろう。それはそれとして、人間は時として他者の生命よりも「所属集団の利益のために行動する」ことが正しいと感じ、そうしたいと願ってしまう、きわめて社会的な存在であるという理解。
原発に関してもしかり。私だけは違うという安易な発想は棄てるべきである。所属集団への忠誠や利益供与のために行動したいと感じる個人を悪とせず、そういう傾向のある『人間という種』が、重大な決断をする場合の手順や方法論を、世界がいっしょに模索していく時期に来ている。
。。。明治大学の水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が全体の半数以上存在した。。。
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人間の弱みを知ること
by 田口ランディ
今朝の新聞で、「広島市が単独でオリンピック招致に……」という記事を発見。たまたまだけれど「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」(河出書房新社)を読み返していたところだったので、オッと思った。
たとえば、オリンピックの聖火リレーの火に「原爆の火」を使うなんてことが……と真っ先に思い浮かんだ。いや、まさかそれはないだろう。
日本は戦後の復興をかけて東京オリンピックを開催した。北京も先進国への仲間入りをかけて……。オリンピックというのはなんだろうか。「いま勢いがありまっせ!」という自己主張のように私には感じられる。もちろん他にもいろんな政治的な意味があるんだろう。シドニー五輪でアボリジニの人たちが踊ったように、次に日本で開催されるときはアイヌの人たちが踊るのだろうか。それはそれできっと意味があるのだ。そう思う。だが、なんだか乗れない。乗り切れない。お尻が半分はみだして落ち着かない。
今年、長崎の原爆資料館に行って四時間かけて展示を見てきた。ボランティアのガイドの方がていねいに案内してくださった。展示の最後、マンハッタン計画以降、世界が保有する核兵器の数の増加を年代を追って表示する年表があり、それを黒人女性の見学者が熱心に見てメモを取っていた。彼女はその展示によほど感銘を受けたらしく、仲間らしい別の白人女性と男性をわざわざ呼んできて「見て。この資料は実に興味深い、すごいわ」と言って、展示に顔をすりつけるように書き写していたのである。
原爆の威力を表現した館内の展示は多い。被爆した人たちの写真、爆心地の荒れ野の風景。でも、そこではなく、延々とひたすら国ごとの核実験の回数が羅列された年表に、その黒人女性が釘付けになった意味が私にはわかる。
私も同じ気持ちだったからだ。ずっと、あの恐ろしい展示を見てきて、さあもう終りますよという明るい場所に出る。やっと平和な現代に戻りました。そこに年表がある。そして、核実験が過去から現在に至るまでどれほどの回数を繰り返されてきたのかを知り、唖然ぼう然とするのである。
こんなに?!と。
それを見たとき、私には死ぬまでオナニーをやめられない猿がイメージされた。ああ。それが我々なんだと思った。この、我々は人間ではなく、まだ猿である……という、奇妙な実感はこの年表を見たときに初めて想起された。それまで、どんなに傷ついた人々、核兵器に破壊された大地を写真で見ていても、そこに「人間」の営みが感じられてしまったのだ。ところが、最後に来て、近代的な建物の原爆資料館で、1940年代に誕生した核兵器が、ひたすらひたすら増殖し、その実験を飽きることなく繰り返している現実をただ明記しただけの年表を見たら、なにかが砕けたのである。
数字というものは時として妙な力をもつ。感情抜き。そこに現実がある。これはなるべくして増加している必然であるという予感。その必然が行き着く先も見える。どうするか、この増加曲線がカーブを描くのか、途切れるのか。
核の問題を語る上で重要なのは、落とされた側の言い分ではない。落とした側の言い分なのである。加害者はなにをもって正義としたか?である。落とされる方はただ落とされるのみである。落とす側の理屈に屈するしかない。「力」を行使する側の論理になんらかの正当性があるのであれば、それを変えることは難しい。感情論では解決できない。そういうレベルではないところに核の問題はとうの昔に来ていることを、最後の最後にこの年表が突きつけてくる。国益、つまり経済的見知から考えて核の行使にはまったくメリットがない、ということであれば誰が予算をつぎ込むか。核実験にはメリットがあると考えているから行われるのである。
そして、これは先日、明治大学の水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が全体の半数以上存在したことと無関係ではない。私たちにとって優先されるべきことは、多くの場合は所属している集団、組織の利益である。
その意味において、日本が原爆の被害者であり続けるという感覚はどこかで()で括らなければならないだろう。それはそれとして、人間は時として他者の生命よりも「所属集団の利益のために行動する」ことが正しいと感じ、そうしたいと願ってしまう、きわめて社会的な存在であるという理解。
原発に関してもしかり。私だけは違うという安易な発想は棄てるべきである。所属集団への忠誠や利益供与のために行動したいと感じる個人を悪とせず、そういう傾向のある『人間という種』が、重大な決断をする場合の手順や方法論を、世界がいっしょに模索していく時期に来ている。
広島へのオリンピック招致が、世界の人たちの心に核兵器への関心を呼び戻し、核廃絶に貢献することはすばらしい。それに対してなんの文句もない。私が危惧するのは、広島という現実の悲惨さゆえに多くの人が「被害者感情」に、よりシンパシーをもつことだ。私たちは「加害者の問題」を自分の問題として扱っていかない限り、核をなくすことはできない。人間の性質や、行動に対する理解、それによって生じる弱さの共有と克服こそ、議論されなければならない問題だと思っている。
田口ランディ 学生との対話「水俣から何を学ぶか」
by 奥田みのり
2010年09月21日
http://yummyseaweed.seesaa.net/article/163298276.html
書籍『沈黙と爆発 ドキュメント水俣事件』を読まれた方は、水俣展での作家・田口ランディさんの講演、とっても面白く聞くことができると思います。
この本に書かれている、水俣市初代市長・橋本彦七氏(元チッソ工場長)の生き方について、参加者と一緒に議論しました。
田口さんによると、橋本さんは
・水俣工場の工場をつとめた優秀な研究者
・カーバイドを有効活用する技術を開発。特許を獲得。その過程で、有機水銀(水俣病の原因物質)が排出されると記している。
・1938年 41歳で工場長に就任
・朝鮮チッソ工場に派遣された技術者もいたが、橋本さんは行かず。戦後、朝鮮から引き上げてきた技術者は、橋本さんら、水俣工場の職員を下に見る傾向が。
・1947年 49歳 工場を解任される。退職金なし。
・1950年 53歳 工場の仲間らか嘆願されて市長選に立候補。当選。
・1953年 56歳 チッソは、橋本さんの特許に基づく生産で、順調に成長。
・1954年 57歳 水俣市税の51%はチッソ社員・家族からのものに。
・1956年 59歳 水俣病が公に。
・1957年 60歳 橋本さん、水俣病の原因は、農薬ではと考え、市長として、水俣湾の漁獲販売禁止に反対だと厚生省に文書提出。
・1968年 71歳 政府は、水俣病が水俣工場で生成された有機水銀が原因と発表。橋本さん、そんなわけはないと陳情のため上京した際、病に倒れ、
・1972年 75歳 4年間の入院生活の後、亡くなる。
参加者は、田口さんのお話を聞いた後で、3つの問いに答えました。
あなたが橋本市長だったとします。
1)命をかけて守りたいものはなんですか。
2)それを守るために何をしますか。
3)そのために失うものは何でしょうか。
それを元に、後半はディスカッションを。
動画には、後半部分は含まれていませんが。
守りたいものは、チッソでしょうか? 自分に信頼を寄せてくれている水俣市民でしょうか?
それとも、命?
ディスカッションでは、いろいろな考えの方が発言されました。
まとめとして、田口さんは学生に向けて、こういわれました。
(意見を聞いて)抑制されていると感じた。
理想でもいいから、言ってみてもいいのでは。
それが極論(実現可能性が低く)ても、そうした意見がぶつかった果てに、見えてくることがあるかもしれない。
が、意見がでなければ、新しく見えてくることも見えないのでは…
学生の意見とぜんぜん違っていた私の考え方。
ジョン・レノンのイマジンの「you may say I’m a dreamer」が聞こえてきそうです(笑)。
田口さんの動画を見るだけでも、橋本さんの複雑な境遇がわかると思います。
皆さんは、3つの問いにどうお答えになりますか。
橋本彦七 【市長の死】 【工場あっての水俣市】
ドキュメント水俣病事件1873-1995
チッソから見る明治以降の日本の近代史。 ここに朝鮮に人生を賭けたチッソ創立者野口の夢の跡をみることができる。 野口の作った北朝鮮の水豊ダムは今も生きている。
http://toranomon.cocolog-nifty.com/minamatabyojiken/2013/02/post-4ea2.html
【市長の死】
中央政府が、原因は「水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物」であると公表したのだ。
口先で何を言っても、もはやどうにかなる事態ではない。
橋本は、政府公表直後、地元選出の代議士でもあった園田厚生大臣に陳情するため上京し、東京の旅館で脳血栓で倒れて入院し、回復しないまま四年後、自ら市長として造った水俣市立病院で死亡している。七五歳であった。
橋本彦七は、アセトアルデヒド酢酸工程の発明者としての自分の名誉を守りたかったであろうし、元工場長として工場の名誉を守りたかったでもあろうが、おそらくは彼の精神の平衡をギリギリの一線で支えたのは、水俣工場を守ることは、工場に依存して生活している水俣市民を守ることになるのだという「信念」でもあったであろう。
【工場あっての水俣市】
水俣市役所が公表している数値によると、五三年における水俣市内所在の固定資産税課税対象資産の評価額は、総計二八億八、二〇〇万円であり、そのうち六二パーセントがチッソ水俣工場関係である。
同じ年、市が徴収した個人市民税の総額三、〇五二万円のうち、チッソ水俣工場の従業員のものは、五一・四パーセントを占めている。この年の水俣市の総人口四万六、〇六八人の約半数は、水俣工場に依存して生活していたと断定してよい。
水俣病は、水俣病にかかっていない人々にとっても深刻な生活の問題であった。被害者救済を「課題」として立てるとき、それは被害者ではない人々の生活を追いつめる問題として受けとめられた。
水俣病の発生を止めることは、工場の生産活動を止めることを意味していた。
水俣病の発生を止めるために、工場を止めるのか。工場の生産を続行するためには、水俣病の発生はやむをえないのか。
橋本彦七は後者を択んだ。
そして、世間は、それをよしとした。
(sk)
「石牟礼道子は反近代だ」という。
渡辺京二は、「石牟礼氏は近代主義的な知性と近代産業文明を本能的に嫌悪する」と書いているし、ありとあらゆる人たちが、石牟礼道子の反近代について書いている。
そういうなかでは、「近代への呪詛」と「前近代の美化」ということがよく書かれる。でも私には、そうは思えない。石牟礼道子が嫌悪しているのは、近代ではなく、「今の日本」なのではないか。そう思うのだ。
私たちは、今の日本で、近代的な日本で、橋本彦七のような権威主義的な人から「あんた何者かね?」とか「キミはいったい誰なんだね?」というようなことを言われる、もしくはそれに似たような経験をする。
「患者の百十一名と市民四万五千とどちらが大事か」という言い回しも同じ。この言い方こそが今の日本だと思う。
上記の水俣展において「自分が公的な立場に立ったなら、水俣病患者ではなく工場の社員や市民生活を守ろうとするのではないか」と答えた人が参加者の半数以上を占めたというのだから、嫌になる。現在の日本人の意識は、私には理解でるものではない。
「多数が支持しているのだから」、「選挙で選ばれたのだから」などといってものごとを進めていく日本的なやり方は、民主主義ではなく、前近代のやり方だ。
「経済効果は」、「費用対効果は」などというのも、資本主義ではなく、単なる日本的なカネ崇拝文化だと思う。
つまり、石牟礼道子が嫌悪しているのは、近代ではなく、「現代の日本」だと思うのだ。
たとえ石牟礼道子自身が、巫女的であり、不思議な人だとしても、石牟礼道子が書いていることは、私には、とてもグローバルで近代的に思える。
近代的でないのは、つまり反近代は、石牟礼道子ではなく、今の日本なのではないか。そう思った。