梨木香歩

――さっきはもっとはっきりとしていたのだ。
――そうだろう。あれは毎年そうだ。もうじきすっかり消える。木槿が満開になる頃、それを助けとして立ち現れるのだ。季節ものの蜃気楼のようなものだ。木槿の横に小さい燈籠があるだろう。
――ああ。
――あれは埋め込まれてあの低さになっている。土に埋め込まれている部分には、地蔵菩薩が彫られている。が、地蔵菩薩は実はマリア像に見立てられているのだ。それでマリア燈籠と呼ぶものもある。元々は織部好みの燈籠として茶人の間で拡がったのだが、その部分を埋めて隠れキリシタンの礼拝に使われたこともあるらしい。
 私は唖然とし、それから、
――それでは、堀り出そう、高堂、掘り出してきれいにして差し上げようではないか。
と、息せき切って云った。高堂は少しうんざりしたように、
―――おまえはどうしてそう単純なんだ。俺は当時―――初めてあの現象を見たとき、まだ幼かったが、それでもそのとき一緒にいた叔父にこう云われて納得したのだ。信仰というものは人の心の深みに埋めておくもので、それでこそああやって切々と美しく浮かび上がってくるものなのだ。もちろん、風雪に打たれ、堪え忍んで鍛え抜かれる信仰もあろうが、これは、こういう形なのだ、むやみに掘り出して人目に晒すだけがいつの場合にも最良とは決して限らないのだ、ことに今ここに住む我らとは、属する宗教が違う。表に掘り出しても、好奇の目で見られるだけであろうよ、それでは、その一番大事な純粋の部分が危うくなるだけではないのか、と。

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1 Response to 梨木香歩

  1. shinichi says:

    木槿

    in 家守奇譚

    by 梨木香歩

     間断なきツクツクホウシの熱狂も今は遠く、僅かに残るその声は、あるときは精も根も尽きたという風に力無く、またあるときは突然耳元で銅鑼を叩くように始まりそれもあっけなく終わり、ああ今年の夏もこのまま何ということもなく過ぎ去るのかと焦りとも哀しみともつかぬ気持ちでいる。およそ日本に住まいして、此の地の夏を幾度と経験した者で、ツクツクホウシの音の衰退に感慨を覚えぬものがあろうか。私が殊更にそう感じ入ったのは、土耳古トルコに行っている友人の村田からの便りが届き、彼の地ではツクツクホウシが鳴かぬということを聞いたからである。

    **

     その我が土耳古の丘の手前の方に低い燈籠がある。その横に、木槿の木がある。燈籠は彼の地を偲ぶ邪魔にはならない。土耳古は遺跡の発掘が盛んだそうで、石造りの燈籠は、風化しかけた石柱に見えないこともないので。が、土耳古に木槿はあるのだろうか。そこのところが甚だ心許ないが、木々は緑、と書いてくるぐらいだから、花ぐらい咲くだろう。花の中には木槿に似たものも、決してないとは云えんだろう、と自分に云い聞かせる。できることならゴローもあそこを歩くときは少しばかり羊の風情を出してほしいと思うが、さすがのゴローの能力にも限界があろうから、云わずにいる。
     村田によれば、彼の地に聳える回教の寺院の多くはその昔基督教会であったという。オスマン・トルコが彼の地を制服した際、内部の壮麗な基督教モチーフのモザイクを、すべて漆喰で塗り込めたのだそうだ。無粋で乱暴な話だ。この漆喰を剥がすことが許されたら――革命でも起きぬ限り無理だろうが――というのが今のところの村田の唯一の望みなのだそうである。それはそうだろう、と私も同情する。塗り込められた聖母や基督が痛ましい。
     手紙を手にして、しばしそういうことを考えていたせいであろうか、目を上げて我が土耳古の丘に目をやると、そこに頭から白いベールを目深に被った女人が物憂げな様子で立ち尽くしているのが見えた。まさか。私の思いに感応して、いきなり彼の地から御来臨なされたわけではあるまい。半信半疑で身を乗り出してみる。しかし露骨に見ては憚れる気もして、思わず目を背けた。そして怖る怖るもう一度見るとやはりどうしてもそれは人の形に見えた。それも聖なる御方のように。
     朝から残暑のせいで煮詰まった寒天のようだった私の頭は、俄に恐慌をきたした。どうしたらいいのだろう。
     畏まって座っているゴローが、女人を見上げているのが目の端に入った。やはりゴローにも見えているのである。

    **

     あの御方が立っていたとおぼしき辺りには、例の木槿の木が白い花をつけて立ってるばかりであった。まさかあの花をまちがえたというのか。いやいや、あれは確かに人の形をしていた。その両の手を合わせておられた。

    **

    ――さっきはもっとはっきりとしていたのだ。
    ――そうだろう。あれは毎年そうだ。もうじきすっかり消える。木槿が満開になる頃、それを助けとして立ち現れるのだ。季節ものの蜃気楼のようなものだ。木槿の横に小さい燈籠があるだろう。
    ――ああ。
    ――あれは埋め込まれてあの低さになっている。土に埋め込まれている部分には、地蔵菩薩が彫られている。が、地蔵菩薩は実はマリア像に見立てられているのだ。それでマリア燈籠と呼ぶものもある。元々は織部好みの燈籠として茶人の間で拡がったのだが、その部分を埋めて隠れキリシタンの礼拝に使われたこともあるらしい。
     私は唖然とし、それから、
    ――それでは、堀り出そう、高堂、掘り出してきれいにして差し上げようではないか。
    と、息せき切って云った。高堂は少しうんざりしたように、
    ―――おまえはどうしてそう単純なんだ。俺は当時―――初めてあの現象を見たとき、まだ幼かったが、それでもそのとき一緒にいた叔父にこう云われて納得したのだ。信仰というものは人の心の深みに埋めておくもので、それでこそああやって切々と美しく浮かび上がってくるものなのだ。もちろん、風雪に打たれ、堪え忍んで鍛え抜かれる信仰もあろうが、これは、こういう形なのだ、むやみに掘り出して人目に晒すだけがいつの場合にも最良とは決して限らないのだ、ことに今ここに住む我らとは、属する宗教が違う。表に掘り出しても、好奇の目で見られるだけであろうよ、それでは、その一番大事な純粋の部分が危うくなるだけではないのか、と。

    **

    ――ほら、綿貫、消えてゆくぞ、儚げで美しいなあ。来年もまた出てくるぞ、きっと。
     高堂は籐椅子に座ったままいつになく遠い目をして木槿を見つめていた。

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