花房観音

%e7%b1%a0%e3%81%ae%e9%b8%9a%e9%b5%a1セックスで快楽の芯に近づく時に「堕ちてゆく」という感覚がある。身も心も快感の波に呑まれ流され、遂には海の底に沈んでいく。それは理性を失わせもするし、社会性をも時には崩壊させるけれど、ひどく心地がよく、気づけば自ら堕ちることを望んでいる。
中世、紀州和歌山は補陀落渡海の地であった。補陀落渡海は捨身の修行であり、僧たちが船に乗り那智の浦より観音菩薩の住まう浄土である補陀落を目指すのだが、いずれは海の底に沈む生きながらにしての水葬だった。
『籠の鸚鵡』は、一九八〇年代の和歌山が舞台だ。主人公は町役場の出納室の室長・梶康男、四八歳の今まで妻ひと筋で子どもはいない。平凡で真面目な公務員である梶は、スナックに勤める女・カヨ子との出会いにより運命を大きく狂わされる。

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3 Responses to 花房観音

  1. shinichi says:

    快楽の波に呑まれ「堕ちてゆく」
    『籠の鸚鵡』 (辻原登 著)

    評者花房 観音

    http://shukan.bunshun.jp/articles/-/6828

     セックスで快楽の芯に近づく時に「堕ちてゆく」という感覚がある。身も心も快感の波に呑まれ流され、遂には海の底に沈んでいく。それは理性を失わせもするし、社会性をも時には崩壊させるけれど、ひどく心地がよく、気づけば自ら堕ちることを望んでいる。

     中世、紀州和歌山は補陀落渡海(ふだらくとかい)の地であった。補陀落渡海は捨身の修行であり、僧たちが船に乗り那智の浦より観音菩薩の住まう浄土である補陀落を目指すのだが、いずれは海の底に沈む生きながらにしての水葬だった。

    『籠の鸚鵡』は、一九八〇年代の和歌山が舞台だ。主人公は町役場の出納室の室長・梶康男、四八歳の今まで妻ひと筋で子どもはいない。平凡で真面目な公務員である梶は、スナックに勤める女・カヨ子との出会いにより運命を大きく狂わされる。

     カヨ子は、梶を想い自慰をしていると、性器と行為の詳細な描写を綴る煽情的な手紙を職場に送りつけてくる。梶は、戸惑いながらもカヨ子の手紙と、その大柄な身体から漂う肉の匂いに抗えず彼女と寝る。しかしその情事はただの浮気に留まらず、バブルを背景にしたヤクザや不動産業者の欲に絡み取られ、梶は横領に手を染め転落していく。

     罪を犯して何もかも失ってもカヨ子から離れられない梶、男達に翻弄されながらも悪人になりきれないカヨ子、極道という組織の中で使い捨てにされる峯尾、バブルという悪夢にとり憑かれるカヨ子の前夫・紙谷――欲に囚われた男女が交わり物語は補陀落浄土へ続く和歌山の海に向かってゆく。

     熊野や高野山などの霊場を背景に繰り広げられる人間の堕落の物語を読みながら、私自身も快楽の波に呑まれて登場人物達と共に「堕ちてゆく」感覚を覚えたが、その果ては地獄ではなかった。

     欲望という船に身を任せた愚かな人間たちを乗せて流される舟は、読者をも補陀落浄土にいざなってくれるはずだ。

  2. shinichi says:

    (sk)

    「書評を書くプロ」の文章に乗せられて本を買ってしまうことがある。

    短い文章が読む者を小説に誘う。

    プロは凄い。

  3. shinichi says:

    補陀落渡海

    ウィキペディア

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/補陀落渡海

    補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、捨身行の形態である。自発的な捨身行であるとは限らず、強制されたものもあった。

    概要

    この行為の基本的な形態は、南方に臨む海岸に渡海船と呼ばれる小型の木造船を浮かべて行者が乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。

    最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。

    熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であったが、例外として『吾妻鏡』天福元年(1233年)五月二十七日の条に、下河辺六郎行秀という元武士が補陀洛山で「智定房」と号し渡海に臨んだと記されている。

    補陀落渡海についてはルイス・フロイスも著作中で触れている。

    渡海船

    渡海船についての史料は少ないが、補陀洛山寺で復元された渡海船の場合は、和船の上に入母屋造りの箱を設置して、その四方に四つの鳥居が付加されるという設計となっている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあるが、これらの門はそれぞれ「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」と呼ばれる。

    船上に設置された箱の中には行者が乗り込むことになるが、この箱は船室とは異なり、乗組員が出入りすることは考えられていない。すなわち行者は渡海船の箱の中に入ったら、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。

    渡海船には艪、櫂、帆などの動力装置は搭載されておらず、出航後、伴走船から切り離された後は、基本的には海流に流されて漂流するだけとなる。

    思想的背景

    仏教では西方の阿弥陀仏の浄土のように、南方に観自在菩薩(観音菩薩)の住処があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。その原語は、チベット・ラサのポタラ宮の名の由来と共通しており、古代サンスクリット語の「ポータラカ」である。

    多く渡海の行われた南紀の熊野一帯は重層的な信仰の場であった。古くは『日本書紀』神代巻上で「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適(いでま)しぬ」という他界との繋がりがみえる。この常世国は明らかに海との関連で語られる海上他界であった。また熊野は深山も多く山岳信仰が発達し、前述の仏教浄土も結びついた神仏習合・熊野権現の修験道道場となる。そして日本では平安時代に「厭離穢土・欣求浄土」に代表される浄土教往生思想が広まり、海の彼方の常世国や観音信仰と混同され習合されたのであった。

    琉球における影響

    『琉球国由来記巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、咸淳年間(1265年~1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。また琉球に漂着した日秀上人は、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったり、金武町に金武観音寺を建立した。

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