井上靖

河北省南西部の元氏という小さい部落でわれわれは崩れかかった城壁の上にせっせと土嚢を積んだ。やがて何時間か後には行われるであろう敵襲に備えて、おのおの自分の前の砦を補強するために忙しい日没の一刻を過していたのだ。その時の不思議に静かな薄暮の訪れを、初冬の平和な村々の茂りを、遠く地平のあたりを南下して行った烏の大群を、そして遥か西方の山裾にしきりに打揚げられる烽火の煙を、あるいは又その時われわれ三人が交したひどく屈託のない会話を、それら一切をいま思い出すことのできるのは私ひとりである。右の友も左の友も、その翌日からはこの世にいないのだ。あの夜にはいったい何が行われたと言うのか。激戦――そんな濁った騒がしいものは微塵も起りはしなかった。運命の序列、そうだ、われわれが持っていてしかも知らない己が運命の序列を、仮借なくつきつけて見せるひどく冷たいものが、あの夜の闇の中を静かに、だが縦横に走っていたのだ。そして硫酸のような雨が音もなく、併しこやみなくわれわれの精神の上に降り注いでいたのだ。

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2 Responses to 井上靖

  1. shinichi says:

    元氏

    in 詩集「北国」

    by 井上靖

  2. shinichi says:

    元氏県は中華人民共和国河北省石家荘市に位置する県。

    戦国時代には趙により元氏邑が設置されていた

    漢初に元氏県が設置され、県治は県城北西部の故城村に置かれ、常山国の国治とされた。南北朝時代になると北魏は常山郡の郡治とされている。北斉が成立すると元氏県は廃止されたが、586年(開皇6年)、隋朝により再設置、大業初年には現在地に県治が遷されている。

    1958年5月に高邑県と合併し高元県が成立し、同年12月に元氏県と改称される。

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