桃知利男

金融資本主義は「交換の原理」の強烈な強調でしかないことで、そこでは(マルクス経済学では)究極の商品であった労働力さえ、じつはいらない。労働者は労働主体ではなく、ただ消費さえしてくれればよいのである。(消費主体――つまり消費するためのお金さえ持っていればよい存在)。極端なはなし、金融資本主義では、ニートでも、フリーターでも、ひきこもりでも、消費さえしてくれれば、なんでもよいのである。(それらは、たいした問題ではなくなってしまう)。たとえば自宅にPCとネット環境があり、それで、株でも為替(FX)でもやっていれば、(安定した生活ではないが)、経済の果実(資本)は享受できたりする。(最初の資金はどうするのか、という問題はあるが、その解決方法もたくさんある)。会社で働くことを強調することにたいした意味はなくなってしまうのである。
ここでの問題のひとつはデジタルデバイド、ということになるだろう。 つまり、デジタルな経済(グローバル経済)に接続する術を持たない方々(もしくはそれを拒否する骨のある方々)の多くは、金融資本主義の果実を享受することは、難しいかもしれない。そして、労働力だけが、自らの商品なら、その商品価値の下落の中で、限りなく時給850円にという交換の原理の指し示しに向かい始める。
では、それで(日本という国は)よいのか、というのが、じつは問題なのだ。それは、労働することの美徳に対する価値観の問題であって、その価値観の崩落が、今という時代の特徴なのだろうな、と思う。お金持ちになりたいなら、働かなくともよい、と教えることが可能なのである。

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