アルボムッレ スマナサーラ

img_1813972_59729842_0お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。
ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。完全たる悟りに達していない人々は、たとえ高度な知識があったとしても、たとえ高度な精神的境地に達していたとしても、言葉という不完全なものを駆使して「完全に語る」ことはありえないのです。正等覚者でない限りは、真理は完全には語れないのです。どんなに頑張って深遠な教えを表現しようとしても、どうしても、欠点・欠陥が起きてしまうのです。
このようなわけで、ブッダのあとに作られた大乗経典には、不完全な言葉で表現するというハンディがつきまとっているのです。その不完全な言葉の前でいくら悩んでも答えは出ません。  
しかし、お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教えに立ち返ると、それまでわからなかった経典の教えもたちどころに理解できるようになります。『般若心経』の作者がお釈迦さまの教えのどこにヒントを得て、どんな真理を教えようとしたのか、明確にわかります。『般若心経』の欠点もわかりにくさも、なるほどと俯瞰できます。
そこではじめて、出口のない「『般若心経』文化」の迷路から抜け出て、『般若心経』をきっかけとして、お釈迦さまの説かれた真理へとアクセスするための道のりも描けるのです。

2 thoughts on “アルボムッレ スマナサーラ

  1. shinichi Post author

     ブッダの入滅後数百年経ってから徐々に創作された大乗仏教の経典では、「如我是聞(かくのことく私は聞いた)」という経典の形式をとりながらも、経典製作者が自らの禅定体験や神秘体験などをもとにして、ブッダの名前を使って自由に物語を作り、独自の思想を語ったもののようです。自由にといっても、一応、従来のお釈迦さまの教えに着想を得てアレンジした形を取っています。『大般若経』『法華経』『大涅槃経』『維摩経』『無量寿経』、そして本書で取り上げる『般若心経』など、インド各地や中央アジア(一部は中国大陸)で雑多に製作された大乗経典は、従来の三蔵の上に覆いかぶさるように追加されていきました。お釈迦様は次第に宇宙に偏在する神のような存在となり、その教えも神秘的なものに変質していきました。

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     まず経典とは何かということを考えてみましょう。仏教経典とは文字どおりブッダ(仏)の教え(教)を記録したテキストです。しかしその成り立ちは、私たちテーラワーダ仏教と、日本の信仰されている大乗仏教とではずいぶん違います。まず、テーラワーダ仏教の世界では、文字どおり「ブッダの教え」を経典と言います。お釈迦さまの言行を記録したものが経典です。お釈迦様さまの直弟子たちが書いたものも経典といいます。それらは、お釈迦さまが涅槃に入られた直後に、直弟子たる阿羅漢(最高の悟りに達した聖者)の集会で厳密に確認され、教えを変化させないようにと細心の注意を払いながら、守られてきました。テーラワーダ仏教では、ブッダの入滅後百年くらいから現れた分派(部は仏教)の中でも、常に最も保守的に厳密にお釈迦さまの教えを守ってきたと自負している宗派です。その経典はパーリ語という言葉で伝承されてきましたが、このパーリ語はお釈迦さまが実際に説法されたインドのマガダ国の言語であると伝えられています。

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     観自在菩薩(観世在菩薩、観音菩薩)は、大乗仏教でトップクラスの知名度を持つ菩薩ですが、初期仏教の時代にはぜんぜん出てこない、あとから作られたキャラクターです。そういう人が実在したわけではありません。観音様の特徴は、さまざまな現世利益をうたっていることです。おそらくインドか中央アジアで崇拝されていた神の一人が、仏教にスカウトされて仏教徒を守る超人的な菩薩となったのでしょう。私の推測ですが、スリランカでは仏歯寺の周囲に祭られている「ナータ」という神が、観音菩薩の原型ではないのかと思っています。

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     『般若心経』の作者は、言葉を使う程度がわからなくなって、操縦がきかなくなっているのです。それはブッダの立場から言えば、「やり過ぎ」なのです。言葉を使うときは語り過ぎには気をつけること。そうしないと、どこまでも、頭の中で考えただけで飛んで行ってしまうのです。『般若心経』では、どこまでも観念を回転させて、結局、修行も道徳も成り立たないところまで脱線してしまいました。

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     それにしても、『般若心経』は、作品として矛盾だらけでガタガタで、前後がつながっていません。主観を入れない限り、まともな理解が成り立たないので、解説する方々はなんとか理屈をつなげてあげよう、ありがたい経典を助けてあげようとする。だから『般若心経』の品を書く人々は、経典をおのおのの主観でしっかり固めてあげて、「私の『般若心経』」にすることで、『般若心経』を助けてあげているのです。『般若心経』は、そうやって主観という接着剤で固めないと成り立たない経典なのです。

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     最後まで読んでいきましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。

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     本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。そのことは、空を理解していたら使えない「na 無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。作者は、龍樹(ナーガルジュナ)のように空論を詳しく知っていた人ではないのです。龍樹さんなら空論はちゃんと知っていますから、そんな曖昧な言葉は絶対に使いません。きちっと責任をもって語るのです。この経典の作者はそれほど能力がなくて、何も立証せずにただ言葉を羅列したのです。
     おそらく、『般若心経』は、もともと呪文を信仰している占い師、祈祷師のような人が書いたのでしょう。知識人のお坊さんが相手にしなかった、なんの立場もない祈祷師程度だったと思います。呪文はだれでもありがたく信仰するので、書き写されて書き写されて、残っただけのことなのです。

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     最後まで読んでいきましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。
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     本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。そのことは、空を理解していたら使えない「na 無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。作者は、龍樹(ナーガルジュナ)のように空論を詳しく知っていた人ではないのです。龍樹さんなら空論はちゃんと知っていますから、そんな曖昧な言葉は絶対に使いません。きちっと責任をもって語るのです。この経典の作者はそれほど能力がなくて、何も立証せずにただ言葉を羅列したのです。

     おそらく、『般若心経』は、もともと呪文を信仰している占い師、祈祷師のような人が書いたのでしょう。知識人のお坊さんが相手にしなかった、なんの立場もない祈祷師程度だったと思います。呪文はだれでもありがたく信仰するので、書き写されて書き写されて、残っただけのことなのです。

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