Category Archives: belief

信じる

見ていないことを信じろと言われても
信じることはできない
見ていないことは真実ではない
だって 見ていないのだから

信じている人を疑えと言われても
疑うことはできない
信じている人はいつも真実だ
だって 信じているのだから

なにを信じる

あたかも現実かのように書かれた創作が
記録として残され
現実ではない記録が
みんなの記憶を書き換える

都合のいい記憶は 記録として残り
都合の悪い記憶は なかったこととして消える
記録はいつのまにか あったことのすべてになり
正しくもない記録を 多くの人が信じる

記憶が人々を引き裂き
記録が人々を繋ぐ
書物のなかの文字だけが選び取られ
事実に近い記憶を隅に追いやる

塗り替えられた記憶と 作られた記録とが
渦となって 猛威をふるい
希望や願いを飲み込んで
どこかへ流れてゆく

記憶や記録を 信じてはいけない
目の前にいる人を 信じよう
君を信じる
僕を信じる

Carlo Rovelli

We are stories, contained within the twenty complicated centimeters behind our eyes, lines drawn by traces left by the (re)mingling together of things in the world, and oriented toward predicting events in the future, toward the direction of increasing entropy, in a rather particular corner of this immense, chaotic universe.
This space—memory—combined with our continuous process of anticipation, is the source of our sensing time as time, and ourselves as ourselves. Think about it: our introspection is easily capable of imagining itself without there being space or matter, but can it imagine itself not existing in time?

思考

観察される前になにかを理解するのが
科学的に考えることだとするならば
観察しなければなにも理解できないのは
科学的に考えられないということになる

話を聞く前になにかを理解する能力が
自分で考えるということだとするならば
話を聞かなければなにも理解できないのは
自分で考えられないということになる

愛を伝える前にわかるのが
愛だとするならば
伝えなければわからないのは
愛ではないということになる

考える前に感じることが
本当なのだとするならば
考えてからすることは
本当ではないということになる

感じたことを信じて
考えないで
君を信じて
自分を信じて

神様たち

神様もなかなか忙しいから
ひとつひとつの争いに
そうそう関わってはいられない
川を隔てた人たちが争って
西岸の人たちが西岸の神に祈り
東岸の人たちが東岸の神を祈った時
西岸の神と東岸の神は
どうしたらいいのか

強い人は残酷さを露わにし
弱い人は優しさを寄せ合う
奪う人だけが豊かになり
与える人が貧しくなってゆく
賢い人は不親切で
愚かな人は親切だ
そんなことを思っていたら
神たちがまわりに集まってきて
それは違うと言いつのる

強くても弱くても
優しい人は優しい
奪っても奪わなくても
豊かな人は豊かだ
賢くても愚かでも
親切な人は親切だし
信じても信じなくても
私たちはいるのだと
神様たちが優しく言う

神を信じなくてもいい
愛も信じなくていい
自分を信じ
隣にいる人を信じ
心を信じたらいい
神様たちが そんなことを言った

僕を信じる
君を信じる
心を信じる
簡単なことでは ないけれど

まぼろし

昔々 神が祀られたときに
山や丘は木で覆われ
あたりは草ぼうぼうで
人は自然のなかにいた
だから
草を引っこ抜き
地面をならし
周りを縄で囲うだけで
その場所が神聖に見え
 神がいる
そう思えたのに違いない

禅寺の庭が作られたときに
禅寺に向かう道は
木や草や花がいっぱいで
鳥や虫や蝶が忙しく
だから
庭に大きな石を置き
まわりに小さな石を敷き詰め
波を描いただけで
その場所が静寂に包まれ
 無の境地に立てる
そう思えたに違いない

今 人が住む町には 音があふれ
人や乗り物が動き回り
夜が来ても 闇はない

神社に入っても
神を感じない
禅寺の庭を前にしても
無は遠い
バーチャルな世界には
安らぎがない
人が感じていた愛は
今でもあるのだろうか
君は
ずっとそこにいるのだろうか

知ったかぶり

氷期 人間の移動
というウェブページを見つける

アフリカで誕生し、ヨーロッパ、アジアへと拡がっていた現代人の祖先は、氷期にベーリング海峡を渡り、食料となる動物を追って北米大陸へ進出しました。

と書いてある

科学の一部は もう長いあいだ
信じるか 信じないかという
宗教のようになっている
一人の人間が知る由もないことを
どこかから持ってきて
もっともらしく説明する

それは科学でもなんでもない
知ったかぶりの ひけらかし
宗教を広める宣教師のように
検証不可能なことを 正しいと言う

科学を妄信している人たちは
科学を知らない
科学を教えている人たちは
科学的でない

古神道

僕は古神道を知らない
 いや 誰も 古神道を知らない

常世といい 現世という
 常世は理想郷で
  現世は理想からほど遠い
 常世は永遠に変わらず
  現世に永遠はない
 常世はなにもかもが完成されていて
  現世ではなにも完成されることがない
 常世はすべてが完璧で
  現世に完璧はない

神がいるという
 尊という神がいる
  人と同じ姿形をしていて 人と同じ心を持つという
 御魂という神もいる
  人の命や人の心のありさま つまり神の心のありさまだという
 御霊という神もいる
  御魂が寄り集まったものとしての神霊のかたちだという

神体があるという
 磐座は神がいる岩や山で
 神籬は神が隠れ住む森や木々で
 巫は神が憑依した人だという

古神道を知ろうとしても 知ることはできない
古神道をわかろうとしても わかることはない
でも と僕が言う
古神道を信じることはできるに違いない

古神道は宗教ではないかもしれない
だって
宗教がこれほどすがすがしいわけがないから
宗教がこんなに優しいわけはないから

アヘン

宗教はアヘンだ
人を惹きつける方法を知っていて
人を離さない方法を知っていて
大きな口を開けて待っている

権力から遠い宗教は
権力から離れて生まれ
権力から弾圧され
その分 強くなり
魅力を増す

権力に近い宗教は
権力にすり寄った宗教だったり
権力が利用した宗教だったり
権力がデザインした宗教だったり
権力が編み出した宗教だったりして
その分 巧妙で
人を惑わす

権力から遠い宗教も
権力に近い宗教も
どちらもアヘンで
どちらも危険だ

行きたいところ

行きたいところに
行くために
灯りを探し
進路を決める
灯りがなければ
進路はみつからない

灯りが多すぎても
進路は決められない
どの灯りを頼るのか
どの灯りを信じるのか
胸に手を当て
自分に問いかける

どこに向かっているのか
誰も知らない
僕がどこに行き着くのか
気にする人はいない
胸に手を当て
自分だけを拠り所にするしかない

多くの灯りのなかから
自分に合った灯りをみつけ
無理をせず
かといって怠惰にもならず
ゆっくりと
自分らしく進む

自分を通すわけでもなく
相手に合わせるわけでもない
男らしいとか
女らしいとかでなく
誰かのようにでなく
自分らしく
そう
自分らしい進路を
君と進む

モスク

遠い国の古い街の川沿いの空き地に
壮大な庭の建設が進められていた
設計を終えたばかりの建築家は
実際の建設には興味が持てず
美しいモスクを思い浮かべ
夢想を書き残そうとして
紙の上に線を引き
色を付け加えた

計算しつくされているのに
大胆さは失われず
均整がとれているのに
神聖さが保たれ
洗練されているのに
人間の暖かさを放つ
誰も思いついたことのなかった
実現不可能に思えるデザイン

そのデザインを見た人たちは
ひとり残らず畏怖に襲われた
建築業者はモスクの建設を
王様に願い出るよう促した
裕福な外国人が遠くからやって来て
デザインを高値で買いたいと言った
泥棒はデザインを盗むために
建築家の家の下にトンネルを掘った

建築家は書斎に閉じこもり
三日三晩 熟慮を重ねた
モスクが野蛮人たちに囲まれて
壊されてしまうのを想像した
冒涜され崩壊していく建物は
埃のなかでぼんやりしていた
建築家はデザインを庭に持ち出し
火を付けて焼いた

この話を伝え聞いた王様は
建築家を王宮に呼び出して
私と一緒にモスクを作ろうと
真剣な顔で静かに言った
作ったものはいつかは壊れる
完璧なものでなくてもいい
完成できなくてもいい
モスクを作る夢を見よう

王様は建築家の目をのぞき込み
三年かけて設計してくれと言った
そのあと私が責任を持って
三年かけて作り上げる
出来上がったら二人して
三年かけて美を楽しもう
壊れるようなことがあったなら
三年かけて修復すればいい

建築家は家に帰って考えた
永遠でなくてもいい
完璧でなくてもいい
完成できなくてもいい
なんて素敵な考えだ
なんて素敵な王様だ
そう思ったら
手が自然に動き出した

数千枚におよぶ緻密なデザインが
曲線と直線とを決め
曲面と平面とを決め
光と色とを決め
材料と材質とを決め
作業の準備と手順を決め
業者と職人を決め
検査とメインテナンスのことを決めた

王様はお金を惜しみなく出し
建築家は指示を出し続け
そろそろ出来上がろうかという時に
王様が突然 工事の中止命令を出した
モスクに呼び出された建築家が
恐るおそるやって来る
満面に笑みを浮かべた王様が
建築家を迎え入れる

モスクのなかには
別世界が広がり
数限りない光が
交錯している
静寂が光と影を
際立たせている
王様は微笑み
建築家は涙する

建築家の想像は
裏切られ
モスクは壊されずに
今に伝わる
建築家が涙した
あの日の輝きはないけれど
私たちはそこに足を踏み入れ
建築家に感謝する

王様にも感謝する
壊さなかった人たちにも
守ってきた人たちにも
感謝する
モスクに感謝したあとで
あれっと思う僕がいる
僕は宗教を信じていない
モスクに入る資格がない

入りなさいとモスクが言う
なんでもいい
とにかく入れ
そんなふうに言う
僕は入る
光を感じる
色を感じる
いないはずの神を感じる
いつものように君を感じる

大きな嘘

世界には神を感じる人がたくさんいて
木に神を感じ 山に神を感じ 太陽に神を感じた
木を畏れ 山を畏れ 太陽を畏れ
神を信じ 神を祀り 神を敬った

生きるために生き物を殺しても
生き物を敬い 厳かな気持ちで神に感謝し
生きるために人を殺しても
神に祈り こころから人を愛した

ユダヤ教が生まれ キリスト教が生まれ イスラム教が生まれ
世界中に作りごとを信じる人が増えていって
自分たちの作りごとだけが正しいといい
それ以外は認めないと言い出した

自分たちの神だけを信じろといい
信じなければ救いはないと脅した
信じないことを罪だといい
信じない人を罰しろといった

自分たちの神だけを信じろという人たちと
違う神だけを信じろという人たちが
自分たちが正しいのだと言いながら
戦争を始め殺戮を繰り返した

神以外の権力は認めないといいながら
たくさんの権力を生み出し
カネを集めるのはよくないといいながら
たくさんのカネを集めた

人は罪などという決まりを作り出し
その決まりに背いた者は罪を犯したとされた
人が人を罰するようになり
罰せられる人は 犯した罪に怯える

神という作りごとや罪という決まりは
所詮 人が作ったものでしかない
そんなものに縛られてしまったら
作った人たちの思う壺だ

なくしたものには こだわらないで
これからなくすことも恐れないで
自由に生きてゆく
そうすれば景色は美しい

そうすれば君は美しい

できること

大事な人が手術を受ける時に
たとえそれが短いものでも
15分とかそんな手術だとしても
手術は医師に任せるしかない
できることといえば
手術が無事に終わるように祈る
それだけ
他に何もできない

何かがこうあってほしいと願う時に
たとえそれが小さなことでも
誰も気にかけないことでも
社の前で神に祈る
でも神は曖昧で
いるか いないかも わからなくて
それでも
手をあわせて祈る

明日の手術が無事に済みますように

映像編集

サッカーの微妙な判定に使われるビデオは
ビデオ・アシスタント・レフェリーが見る前に
AIによって瞬時に編集され
手に触れなかったボールが
なぜか手に触れたことになる

犯罪場所周辺にある防犯カメラの映像は
捜査関係者が見る前に
どれも 注意深く編集され
現場近くを通ったはずの車や人が
なぜか通らなかったことになる

政治家が映った映像はもちろんのこと
軍事演習の映像も 戦争の映像も
そのほとんどが編集され
まるで文字の編集のように
編集しないのが悪いことになる

文字を編集するのがいいことで
それが仕事になっていて
画像の編集もいいことで
それが職種になり
映像の編集が悪いことでなくなり
それが高収入につながり
技術は とめどなく進歩して
編集したかどうかは もう誰にもわからない

事実はどこにもなく
編集された映像が真実として流される

それは事実ではないと言ったらば
でもそれは真実だという答えが返ってくる

宗教とか科学とかといった
真実という名のまやかしに
慣らされてきた私たちを
待っているのは
事実とは遠い真実が横行する社会
真実にノーと言える人がひとりもいない社会
事実が見えない社会
人も情報も信じることができない社会

そんな社会でも
映像は信じられなくても
情報は信じられなくても
君だけは信じる

君を信じる

そのまま言う

考えたことをそのまま言ってしまうことがある
 見たものや感じたことを素直に表現できる
といえば聞こえはいいけれど
それでは物事はうまくまわっていかない

供された料理がどんなに美味しくなくても
美味しいと言わなければ感謝は伝わらない
どんなに口に合わなくても たとえ嫌いでも
 おいしかった
の一言が作ってくれた人への感謝になる

借りたものが古くて使うのが大変だったとしても
 貸してくれて ありがとう
という気持ちがあれば
 ボロで使うのに苦労した
とは言えないはずだ

他人の評価はしないにこしたことはない
 あなたは中の下ですね
なんていうのはもちろんのこと
 あなたはトップテンに入りますね
なんていうのも言わないほうがいい

なにかに感動して素直にそれを表現しても
その感動を共有していない人からは
 何言ってるの?
という反応しか返ってこない

それでも人は 考えたことを言いたい とか
感じたことを共有したい とか思っていて
それで
考えたことをそのまま言ってしまったり
感じたことをそのまま表現したりして
孤独を感じ
やりきれない気持ちになったりする

考えたことをそのまま言うのは
君にだけにしよう
君も僕にだけは
何を言ってもいい
心を許していい
信じてくれていい

老人の言葉

散歩をしていたら畑を耕していた老人が
 この辺りは海だった
と言った。

海になる前には人が住んでいたみたいで
その頃の遺跡があるという

海だった頃には人が住んでいなかったから
その頃の遺跡はないという

老人は
 遺跡を発掘に来た人たちに聞いた話だから
 間違いはない
と言った

研究者たちの論文より その老人の言葉のほうが
本当のように聞こえるのはなぜだろう

祈る

自分のために祈るのでなく
他人のために祈るのでもなく
すべての生きとしいけるもののために祈る
そんなことがあちらこちらに書いてある
それはいいことかもしれない
でも
それってきれいごとではないか
表面的すぎやしないか
やっぱり
地球のために祈るのではなく
すべての人のために祈るのでもなく
誰か特別な人のために祈る
そのほうが自然なのではないか
とにかく
言われたように祈るのではなく
決められた通りに祈るのではなく
自分が祈りたいように祈りたいことを祈る
道理を勝手に理解しようとしないで
自分で考えて自分がしたいようにする
正しくはないかもしれない
でも自分でいいと思えればそれでいい

・・・よりも

記憶に残された遺書は
文字に残された遺書より
はるかに重い

消えるものは
残っていくものよりも
心を打つ

好きな言葉は
正しい言葉より
こころにしみ入る

楽器が奏でる音楽は
機械から流れてくる音楽より
ずっといい

らくなちゅらる通信

「祈り」は学校教育にも取り入れられています。毎朝の朝礼で児童たちは必ず1分間の瞑想をするのです。朝一番に祈りを捧げることで、授業中の集中力が高まるという調査結果も出ているとのこと。
では、ブータン人のみなさんは、祈るとき一体何を考えているのでしょうか?
質問をしたほとんどの方が真っ先に答えたフレーズは、「生きとし生けるものすべてが、災いから解き放たれ、幸せになりますように」。ブータンの人々は、仏壇に祈りを捧げるとき、お経を唱えながら、まず第一に、「すべての生きとしいけるもの」に祈りを捧げるのです。

John Magufuli

This is time to build our faith and continue praying to God and not depending on face masks. Don’t stop going to churches and mosques for prayers. I’m sure this is just a change of wind and it will go like others have gone.

松原正樹

瞑想する 外出自粛、自宅待機の時間が長くなると、疲労やストレスが溜まってくる。そういった時は、感情をコントロールし、落ち着かせることが大切だと話す松原さんは、「瞑想や座禅、ヨガを取り組むこと」を勧める。
好きなことをやる 外出が制限され1人でいると、物事を悪い方向に考えがちになってしまう。そんな時は「感情で心を癒してくれるものに頼りましょう」と話す。好きな映画を観たり、音楽を聞いたり、おいしいものを食べたりすることを勧める。
ポジティブな展望で「New Normal(新しい常識)」を考える 今は世界の1つの転換期で、この前と後では別の世界になっている。コロナ収束後の世界で、生活や社会に何を残したいのかをポジティブに考えると良い。今は現実を受け止め、ポジティブな展望を持つことが大事だ。

五木寛之

「安全だ」
「いや、安全ではない」
 と、百家百説の論をくりひろげている原子力、放射能の問題ひとつをとってみても、客観的なエビデンスなど現実にはありえないことがよくわかるではないか。
 科学的な根拠も、明確な数字もあることだろう。統計も大きな働きをはたす。
 しかし、それを扱うのは人間である。人間ほど当てにならないものはない。
 三・一一以後、私たち日本国民は、科学者や専門家の言う事を、常に眉にツバをつけて聞くようになった。昨年の大津波のもたらしたものは、単に物理的なダメジだけではないのである。
 メディアに対してもそうだ。政治家に対してもそうだ。そして最大の問題は、専門家、科学者に対する圧倒的な不信感が津波のように人びとの心をおそったことである。
「政府が逃げなくてもいいと言ったら逃げろ。逃げろと言ったら逃げるな」
 そんなふうに子供たちに教えている親もいるという。
 エビデンスが必ずしも客観的真実ではなく、それを用いるのが人間だという、あたり前のことを考えれば今、私たちが身の周りにあふれる情報をどう選ぶかが見えてくる。
 非科学的と笑われようがどうしようが、自分自身の直感に素直にしたがう。
 体の奥から伝わってくる声なき声を聞く。
「そんなことを言ってて、もしそれがまちがっていたらどうする? 」
 と、ある人がたずねた。
 そのとき私が思いだしたのは、親鸞が関東の門徒にむかって言ったこんな言葉だった。
「私は法然上人の言葉を信じる。もし、法然師が大嘘つきで、その言葉を信じたことで地獄に落ちたとしても、私は決して後悔などしない」
 情報を選ぶというのは、賭けることだ。一つの情報を全存在をかけて選んだ以上、その結果は運を天にまかせるしかない。私はそう思う。

Marie-Nicolas-Antoine Daveluy

Les persécutions contre les chrétiens étaient fréquentes en Corée à cette époque. Monseigneur Berneux subit le martyre, il fut remplacé par Antoine Daveluy en tant que vicaire apostolique. Vingt-trois jours plus tard, le 11 mars 1866, il fut arrêté, dénoncé par Yi Soni, un ancien séminariste, interrogé et torturé par les autorités coréennes. De Séoul, il fut emmené à 100 km de la capitale pour y être exécuté, afin de ne pas perturber les cérémonies de mariage du roi.
Il fut martyrisé le Vendredi Saint, 30 mars 1866, avec ses compagnons les prêtres Pierre Aumaître et Martin Luc Huin à Galmaemot près de Boryeong (province de Chungcheong), avec les 103 Martyrs de Corée.

Abraham Joshua Heschel

The seventh day is a palace in time which we build. It is made of soul, of joy and reticence. In its atmosphere, a discipline is a reminder of adjacency to eternity. Indeed, the splendor of the day is expressed in terms of abstentions.

Bertram R. Forer

  1. You have a great need for other people to like and admire you.
  2. You have a tendency to be critical of yourself.
  3. You have a great deal of unused capacity which you have not turned to your advantage.
  4. While you have some personality weaknesses, you are generally able to compensate for them.
  5. Disciplined and self-controlled outside, you tend to be worrisome and insecure inside.
  6. At times you have serious doubts as to whether you have made the right decision or done the right thing.
  7. You prefer a certain amount of change and variety and become dissatisfied when hemmed in by restrictions and limitations.
  8. You pride yourself as an independent thinker and do not accept others’ statements without satisfactory proof.
  9. You have found it unwise to be too frank in revealing yourself to others.
  10. At times you are extroverted, affable, sociable, while at other times you are introverted, wary, reserved.
  11. Some of your aspirations tend to be pretty unrealistic.
  12. Security is one of your major goals in life.

Rod Sterling

There is a fifth dimension beyond that which is known to man. It is a dimension as vast as space and as timeless as infinity. It is the middle ground between light and shadow, between science and superstition, and it lies between the pit of man’s fears and the summit of his knowledge. This is the dimension of imagination. It is an area which we call the Twilight Zone.

麻原彰晃

私が修行生活に入ったのは、今からちょうど八年前のことであった。それまではごく普通の生活をしていたといえる。鍼灸師を職業としていた。わたしが鍼灸師となったのは、長兄がそうだったからにすぎない。自分ではあまり考えることなく、資格を取得して開業していたというわけである。
腕はいい方だった――と私は思っている。毎日毎日、多くの人がやってきて、息をつく間もないほどだった。中には遠く島根県から、年に何回か泊まりがけで来る人もいたくらいである。
ところが、仕事は順調にいっているにもかかわらず、絶えず疑問にさいなまれ続けていたのだ。「自分は無駄なことをしているのではないか」という疑問である。なぜならば、病気の人を一生懸命に治しても、キリがなかったからである。完治したように見える人でも、治療から離れて元の生活に戻れば、すぐに再発してしまうのである。
そんなこともあって、わたしの内面では、自信とコンプレックスの葛藤が続き、次第に疲れ果てていった。精神的にも大変不安定になり、「このままでは駄目になる」という、漠然として不安を感じるようになった。いったい何が、どこから狂ってきてしまったのだろうか。生きていくための仕事の選択を間違ってしまったのだろうか。ひょっとしたら、もともとわたしは治療家には向いていなかったのかもしれない。人生そのものが、違った方向へ向かっているような気さえする。
そのとき初めてわたしは、立ち止まって考えてみたのである。自分は、何をするために生きているのだろうか、と。この〝無常観〟を乗り越えるためには、何が必要なのだろうか、と……。

Alex Baker

Mick Jagger has been a visible presence in the stands at the last few World Cups. In 2010, in South Africa, he was seen in the stands with former U.S. President Bill Clinton, supporting the United States against Ghana. The USMNT went on to lose that match, 2-1, and it was at that World Cup that the legend of the “Jagger jinx” was born.
The U.S. was one of several teams Jagger was seen publicly supporting in South Africa that was eliminated in the knockout rounds. Brazil was another one, and of course the singer’s native England, which was knocked out by one of its greatest rivals, Germany.
Four years later in Brazil, Jagger was back, supporting the home team at the 2014 World Cup with his then-paramour Brazilian model Luciana Gimenez. Gimenez is the mother of Jagger’s youngest son Lucas, who was 15 when he sat in the stands at Estadio Mineirao with his dad and saw Brazil eliminated in the 7-1 loss to Germany in the semifinals of that tournament.
Prior to the 2014 World Cup, Jagger had also predicted good things for Portugal and Italy during concert tour stops in each of the respective countries. Both teams crashed out in the group stage, as did Jagger’s home country England, which finished dead last in its group.
It’s not known who Jagger was supporting at Tuesday’s semifinal if anyone. But if history is anything to go by, it’s probably a safe bet he was backing Belgium. It’s also not entirely certain that Jagger will be present at Wednesday’s match to support England.
But given that he’s off tour and at the World Cup with his sons, and Moscow is just a short flight from St. Petersburg, it seems a fairly safe bet he will be there. In which case, Southgate’s team may get no satisfaction when it takes the field against Croatia at Luzhniki Stadium.

David Icke

You want a home? You want to eat? Then do as we say or you’ll get no money. How many people are not doing what they really want to do with their lives because they ‘don’t have the money’? The number is off the scale and includes almost everyone. Yet money is another illusion, another hoax.

People and families are being thrown on the street for not being able to pay back ‘money’ that has not, does not and will ever exist so coule not have been ‘lent’ in the first place.

Valerie A.Luyckx

The use of alternative medicine is highly prevalent around the world; in many areas, this is so because of lack of access to, or trust in, Western medicine, and also because they are considered “natural” and therefore safe. … The use of alternative medicines is underreported to clinicians. Because many patients strongly believe in the powers of alternative medicines, it is important that alternative medicines not be demonized as a whole, but that their use and consequences be closely observed and reported to build a more comprehensive understanding of their impact in our clinical practice and to foster research on the potential harm or, in some cases, possible benefits.

Masaki Matsubara

Matsubara was born into and grew up in a Zen temple family in the Myoshinji denomination of the Rinzai School in Japan. Following his Zen monastic training in Heirinji Monastery, he earned a PhD in Asian religions from Cornell University (2009). He taught Buddhist studies and East Asian languages and cultures, as well as religious studies, at UC Berkeley (2009-2013) and was the BDK Fellow at the Ho Center for Buddhist Studies at Stanford University (2013-2014). Currently he is a visiting scholar at the East Asia Program at Cornell University. In addition, he is a research associate at the Contemplative Studies Initiative at Brown University. He currently resides in Oakland, California.

Giambattista della Porta

Quando non ci valerà ragione, bontà e giustizia, poneremo mano agl’inganni efurfanterie, ché queste vincono e superanno tutte le cose, e poi che egli cerca coninganni torvi l’amamta, sarà bene che con i medesimi inganni gli respondiamo, efacciamo cader inganno sopra l’ingannatore. E che val l’uomo che non sa far benee male? bene à buoni, e mal a’cattivi?

LOHAS

LOHAS

  • Lifestyles of Health and Sustainability
  • Certain customer market segment of consumers willing to adapt their consumption towards more sustainable and healthier lifestyles

LOHAS profile

  • Higher income, higher educated
  • Early adopters, influencers
  • 40% according to WRI in USA and 44% (Allianz study) in Germany, 36% of Australian shoppers, China: LOHAS alludes strongly to traditional Confucian principle of harmonious coexistence of humanity
  • But only around 15% are really devoted to sustainable consumption

About Islam

We can see that both Judaism and Christianity are not now the original religion taught by their prophets. But at the same time, there are many beliefs and traits of the original religion of God still existing in those two religions.
It is a fact that these two religions are closer to Islam than any other religions. So, there is a strong case for our appealing to the followers of these two religions, considering the common factors they share with Islam.
It is most especially noteworthy that in spite of all the deviations of the Jews and the Christians, Allah Almighty calls them “The People of the Book” and commands us Muslims to address them as such.
So, we must give the Jews and the Christians special respect and consideration, despite the differences.

PBS

Muslims believe that God had previously revealed Himself to the earlier prophets of the Jews and Christians, such as Abraham, Moses, and Jesus. Muslims therefore accept the teachings of both the Jewish Torah and the Christian Gospels. They believe that Islam is the perfection of the religion revealed first to Abraham (who is considered the first Muslim) and later to other prophets. Muslims believe that Jews and Christians have strayed from God’s true faith but hold them in higher esteem than pagans and unbelievers. They call Jews and Christians the “People of the Book” and allow them to practice their own religions. Muslims believe that Muhammad is the “seal of the prophecy,” by which they mean that he is the last in the series of prophets God sent to mankind. Muslims abhor the followers of later prophets.

南鄕継正

認識論的にいえば、学問は自己と対象との矛盾が対象の解明によって、一つまた一つと解決し、それについての安らぎが生じることに着目した解決法といえようし、宗教は、絶対者あるいは己れを信じることによって、つまり己れの常態を乱されざることが安心であることに着目しての解決法なのである。
そして、学問でそれを主題として生き続けてきたものが哲学である、宗教で特に、ここに留意して発展してきたのが禅宗であったといえよう。
日常語を用いていえば、アタマ(知識)が不安を起こす原因であるから、アタマを使ってその不安の元をつきとめて一つ一つと消していくのが哲学だったのである、アタマがいくら騒いでもココロさえ安定していれば、つまり周囲に煩わされなければ、何らの不安もないことを知ってココロの安定を図ってきたのが禅宗だったといえば分かりやすい。
これこそが、哲学と宗教が他に比して見事に人生を語れるゆえんである。

齋藤勝裕

「どちらに優先権があるのか、ハッキリしない」という場合に使われるのが、この「タマゴか先か、ニワトリが先か」という言葉。「タマゴがなければニワトリは生まれないのだからタマゴが先だ」「いや、ニワトリがいなければタマゴは生まれないのだから、ニワトリが先だ」― 一見(一聴)、どちらの言い分ももっともに聞こえ、どちらが正しいとは言いかねる。
しかし、生命科学的に見たら答えは明らかである。交配の実験で考えてみよう。A種のニワトリとB種のニワトリを掛けあわせて新種のC種のニワトリをつくるとしよう。C種の生命体として最初に誕生するのは受精卵であり、タマゴである。
これをDNAの見地から考えると、父親AのDNAはaであり、母親BのDNAはbであるとすると、この両親の生殖細胞が合体して子供CのDNA=cができることになる。そしてDNAこそが生命体の証明であり、戸籍なのである。したがって、「新生物C」が最初に発生するのは受精卵としてなので、「タマゴが先!」である。

Claudia Fritz, Joseph Curtin, Jacques Poitevineau, Fan-Chia Tao

Old Italian violins are routinely credited with playing qualities supposedly unobtainable in new instruments. These qualities include the ability to project their sound more effectively in a concert hall—despite seeming relatively quiet under the ear of the player—compared with new violins. Although researchers have long tried to explain the “mystery” of Stradivari’s sound, it is only recently that studies have addressed the fundamental assumption of tonal superiority. Results from two studies show that, under blind conditions, experienced violinists tend to prefer playing new violins over Old Italians. Moreover, they are unable to tell new from old at better than chance levels. This study explores the relative merits of Stradivari and new violins from the perspective of listeners in a hall.

ブッダ

落ちついて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、 心をつつしむ。 このようにかれらは実によく己をまもっている。

愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生じる。愛するものは変滅してしまうから、ついには狂乱に帰す。

耳で多くのことを聞き、眼で多くのことを見る。思慮ある人は、見たこと、聞いたことをすべて信じてはならない。

Shukyohojin Nihon Diyanet

img_5753People who have faith have always needed a place of worship throughout history. Places of worship are where doctrines have been taught to the people and formal obligations have been fulfilled and are indispensable worldly elements of almost all religions, which direct people’s relations with both God and each other, as well as with other beings. Therefore, these sacred places have played a crucial role in starting communication between people. Thanks to such communication, those people who have known and bonded with each other, who have found solutions for their own problems, or who have taken a common stand, have considered such places as the safest centers as well. Some took refuge in temples to save their own lives, and some saints, who have broken off connections to people or the world, settled in temples to believe in the first step of happiness (nirvana), as well as some wealthy people who regarded temples as a place that they could deposit their wealth or gold. In this context, the theory that modern banking procedures emerged in temples seems not frail at all.

Maria Ladenburger

maria-ladenburger


Anstelle von Blumen bitten wir um eine Spende für Bildungsarbeit der Kirche in Bangladesch (…) oder für die Studenteninitiative Weitblick Freiburg e.V. (…).

Journal du Musulman

lisL’association LIS s’est fixée pour objectif de distribuer gratuitement des exemplaires du Saint Coran aux non-musulmans dans des lieux publics.
« Ceci est un message (le Coran) pour les gens afin qu’ils soient avertis, qu’ils sachent qu’Il n’est qu’un Dieu unique, et pour que les doués d’intelligence s’exhortent. » Sourate 14 – Ibrahim (Abraham) verset 52


ウィキペディア

35歳の釈迦は、ガヤー地区を流れるリラジャン川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で、「今、悟りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラが現れ、この妨害が丸1日続いたが、釈迦はついにこれを退け、悟りを開いた。
この後7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五比丘に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五比丘に対して、法の方法論、四諦と八正道を彼らに実践的に説いた。

Фитнес для мозга

Существует легенда, согласно которой к каждому из нас раз в жизни приходит Бог. Причем он может явиться в любом обличии – промокшего котенка, старика, нищенки – и наша судьба сложится в зависимости от того, как мы поведем себя в минуту такой встречи…

The Economist

refugeeWhen a newly arrived migrant seeks asylum on grounds that going home would mean facing religous persecution, how can the host country test the sincerity of that claim? That is a hard question, especially if the migrant has only recently converted to a different faith. It’s also a very topical one, given the reports that hundreds of newcomers in Germany and the Netherlands have switched from Islam to Christianity. If they come from countries where apostasy from Islam incurs terrible consequences, even the death penalty, then they can make a strong case that their safety depends on finding a new home. So how can authorities tell if they have had a real change of heart or are simply looking for a new way to buttress their case?

Stéphane Allix

Depuis près de vingt ans, je poursuis inlassablement la même enquête : comment le monde fonctionne-t-il ? Qui sommes-nous donc ? Qu’est ce que la réalité ? Rien d’autre ne compte plus pour moi que l’exploration de ces frontières, l’exploration de l’inconnu.

富井健

我々が受けてきた教育は、国家主義、集団主義の教育である。
人間は国家のために、社会や共同体のために存在すると教えられてきた。もちろん、個性の重視とか個の自立が叫ばれてきたが、それは本筋ではないのだ。国家が多額の金を出している義務教育制度において、国家の意思が第一に置かれていることは疑うべくもない。
**
戦前の日本は国家主義教育で、戦後はそうではない、と考えるのは誤りである。世界のすべての近代国家は、戦前も戦後も、ヘーゲル―デューイの社会主義、国家主義の強い影響下にあるのだ。むしろ、戦後、ますます聖書の神が捨てられる傾向がある以上、社会主義、国家主義、集団主義の圧力は強くなるといえるだろう。

遠藤周作

FukaiKawa2この男と結婚していれば、幸福だったろうか、それとも矢野以上に退屈だったろうか、と美津子は思う。
「それにぼくは玉ねぎを信頼しています。信仰じゃないんです」
「あなたは・・・・・破門にはならないの」と彼女はからかった。「今でも破門ってあるんでしょ」
「修道会からは、ぼくには異端的な傾向があると言われますが、まだ追い出されません。でも、ぼくには自分に嘘をつくことができないし、やがて日本に戻ったら」彼はしゃぶるようにスープを口に入れた。「日本人の心にある基督教を考えたいんです」

FukaiKawa「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎ見るものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花を包む、あの大きな命です」

「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変る筈がないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、挙句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。あなたは結局は無力だったじゃないの」


Matthew Chance

After more than decade under construction, the doors of the newly built Moscow Cathedral Mosque have finally opened in the European city with the largest Muslim population.
moscow-mosque

一遍上人

むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の撰集抄に載せられたり。これ誠に金言なり。
念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。
かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。
よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。

長島尚道

Ippenden時宗の宗祖と仰がれている一遍上人(智真)は、日本国中を念仏賦算(お札くばり)と踊り念仏の遊行の旅を続け、五十一歳で兵庫の観音堂において往生した。一遍上人は往生に先立ち「我化導は一期ばかりぞ」、自分の教えは自分一代かぎりである、と述べ、所持していた書籍等を自分の手で焼いてしまった。それよえ、現在は一遍上人の著作はほとんど残っていない。
「一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と説き、最後に、「没後の事は我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨てゝけだものにほどこすべし」と言い残した。まことに捨聖・一遍上人の臨終の言葉として心に残るものである。

Jehovah’s Witnesses

God did not create the Devil. Instead, God created the angel who later became the Devil, also known as Satan. Jesus implied that at one time the Devil had been truthful and guiltless. Originally, then, the Devil was a righteous angelic son of God.
The angel who became the Devil chose to oppose God and incited the first human pair to join him. He thus made himself Satan, which means “Resister.”
Like the rest of God’s intelligent creatures, the angel that became the Devil had the freedom to choose between doing right and doing wrong, but he developed a desire to be worshipped. His desire for glory was stronger than his desire to please God.

山上路夫

そこに行けば どんな夢も かなうというよ
誰もみな 行きたがるが 遥かな世界
その国の名はガンダーラ
何処かにあるユートピア
どうしたら 行けるのだろう 教えて欲しい
        In GandharaGandhara
        They say it was in India
        Gandhara Gandhara
        愛の国ガンダーラ

生きることの 苦しみさえ 消えるというよ
旅立った人はいるが あまりにも遠い
自由なそのガンダーラ
素晴らしいユートピア
心の中に生きる 幻なのか

Bridge for Peace

BridgeForPeaceeEckartaEckart
The Bridge for Peace mission is to reach the nations with the healing message of Jesus Christ our Bridge for Peace. Ed Eckart heads Bridge for Peace worldwide. Ed’s story testifies to how God uses men mightily when they follow Him without regard to personal gain. Annette M. Eckart is an internationally known speaker and servant of the Lord. She and her husband Ed founded Bridge for Peace, a ministry of Healing to the Nations.

内藤正典

0576ムスリムは、世界のどこにいても、世俗国家で生まれている様々な「現象」に疑問をもち、国家の法よりも神の法に従って生きていく道を選ぶようになりつつある。それを支えているのが、イスラムのもつ癒しの力と来世への希望であることに、西洋は気づいていない。イスラムの法を、自由意志を否定し、頑迷固陋に戒律の網から抜け出せないものと決めつけてきたことによる誤認がそこにはある。
**
私は、死を迎えるとき、愛する家族と共にムスリムの友人たちに囲まれていたいと思う。高度な医療も、無機質な病室も、いらない。


Shihab Khan

We’ve heard that again and again. A writer’s right to write. Then people come up with fancy empty platitudes like ‘freedom of expression’ and ‘freedom of thought’ to defend people like Salman Rushdie and likewise. Maybe ‘freedom of thought’ is a too heavy phrase for Mr Rushdie. His apparently ‘blasphemous’ arguments were not something new; he was reiterating old and outdated questions on the authenticity of Prophet Muhammad. The Muslim intelligentsia has a long undisputed legacy of taking criticism constructively and responding accordingly.
But criticism and abuse are two radically different things.
Although Islam itself teaches to respond to evil with good to diffuse the powder keg, but one must also not be surprised by such a frustrated reaction from the Muslims when all limits of decency are transgressed to insult the person they hold higher than themselves.

遠藤周作

視線の向こう、ゆるやかに河はまがり、そこは光がきらめき、永遠そのもののようだった。 …
「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に代わっている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」

Got Questions Ministries

Today, many people are embracing a cultural relativism that denies any type of absolute truth. A good question to ask people who say, “There is no absolute truth” is this: “Are you absolutely sure of that?” If they say “yes,” they have made an absolute statement—which itself implies the existence of absolutes. They are saying that the very fact there is no absolute truth is the one and only absolute truth.

クリスチャントゥデイ

民主主義の宣伝文書を詰め込んだ「風船」を米国の人権団体「ヒューマン・ライツ・ファウンデーション」が韓国の「ファイターズ・フォア・ア・フリー・ノース・コリア」と協力して15日、北朝鮮に向けて、非武装地帯の南側から飛ばした。
厳しい情報統制下にある北の市民に向け、知らされない世界の情報を伝える狙い。
「風船」は透明樹脂で作成された長さ6メートルほどの筒状のもの20個で、タイマーが働くと「風船」が破れ着地するという。宣伝文書は総数50万冊。
昨年7月にも飛ばす計画だったが、韓国当局に阻止された経緯がある。

Michael Luciano

haredimYet again, the takeoff of a flight from New York to Israel was delayed because haredi (ultra-Orthodox) male Jewish passengers refused to sit next to women because their faith forbids it.


木村宣彰

亀の甲より年の劫。年長者の智慧を尊ぶべきことの譬えである。
仏教が説く時間のうちで最も長いのが「劫」であり、最も短いのが「刹那」である。最長の時間の単位 である「劫」は、梵語のkalpa(カルパ)を「劫波」と漢語の音で写 したのを略して用いているのである。では「劫」とは、どれほど長い時間であろうか。実は永遠と言ってよい程であり、我々の日ごろの経験的な時間の数では到底、言い表わすことはできない。そのようなとき仏教では比喩を用いる。仏典では、四十里四方の大石を、いわゆる天人の羽衣で百年に一度払い、その大きな石が摩滅して無くなってもなお「一劫」の時間は終わらないと譬えている。また、方四十里の城に小さな芥子粒を満たして百年に一度、一粒ずつ取り去り、その芥子がすべて無くなってもなお尽きないほどの長い時間が一劫であるという。さらに「劫」の永さを強調し、終わりのないくらいの長い歳月を「永劫」という。ここから「未来永劫」とか「永劫回帰」などの言葉が生まれた。
与謝野晶子に「劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という有名な歌がある。劫初とは『観無量 寿経』に「劫初已来」とあるように、永遠の昔に世界が成立した当初のことである。無始已来、絶え間なく続けられてきた人類の営為である文化・芸術の偉大な殿堂に私も黄金の釘を一本打つように新しい活動をしたいという意気込みを示す感銘深い歌である。
ところが、私たちは「劫初已来」「未来永劫」などと聞けば気後れする。このような心持ちのことを「億劫」という。長い時間の努力を億劫がり、煩悩のままに生きる私たち凡夫にとっての救いとは、常に如来の大悲に照らされていると気づかされ、感謝の生活を送ること以外にはない。

峯浦啓秀

人の行いというのは、基本的に自身の意思に基づきます。時として周りに左右される場合もありますが、日常的なごく普通の行動に関しては概ね自分の思いによるだけのことです。 … 
漢字の「行」は、もともと十字路の形をかたどり、人通りの多い道の意を表したもので、ひいては「ゆく」、転じて「おこなう」となったものです。私の一日の「行い」を突き詰めていくと、結局は「今の自分自身の姿」に行きつくことになります。裏を返せばその人の心根の奥深くにあるものが「行」として表に現れてくるわけです。従って「生かされている」という深い感謝の思いがある人はそれが自然に形に現れてくるということになります。

小田匡保

bukkyou日本の仏教地域は
 
北海道浄土系地域
東北禅系地域
関東天台・真言系地域
中部禅系地域
西日本浄土系地域
四国・岡山天台・真言系地域
沖縄仏教希薄地域
 
の7地域に区分することができる。

仏壇の原田

butsudanharada現在島根県内には、約1,200の檀家(門徒)を持つ寺院があります。特筆すべきは、石見地域で、約半数は浄土真宗本願寺派で出雲部は、西東合わせても2割弱で出雲部に唐木仏壇が多く石見部に金仏壇が多いのがこの宗派別分布図により理解できます。その出雲部の中でも松江市は、曹洞宗が約半数近くを占めていますが浄土真宗は西東合わせても20ヶ寺、出雲市では、臨済宗が4割近くを占めています。

ネルケ無方

悟るということ、それは今ここで、この自分がしなければなりません。しかし、「悟ろう」といくら思い描いても、悟れるわけがないのです。悟りを忘れて、自分を手放して、足下の現実に目を向けたそのときに初めて、悟りが実践されるのです。本当の悟り、それは手放しだったのです。
自己を実現するということも、そういうことではないかと思います。
《本当の自分》があらかじめ用意されていて、それをつかんで、実現する・・・・・・、そういう話ではないはずです。そんな《本当の自分》など、最初からどこにもないのです。自分が今ここで作り上げるにしても、作れるわけがありません。《本当の自分》という幻想を忘れて、やるべきことをただやる。そのとき初めて本当の自分になれる・・・・・・、そういうからくりではないでしょうか。

Antaiji (安泰寺)

Antaiji1
Antaiji2
Antaiji3
Antaiji is a Zen monastery that commits itself to the practice of zazen and the study of the Buddha’s teaching, while cultivating the fields around the temple, cutting grass and trees and doing construction work to keep the community self-sufficient. Here at Antaiji, Zen is practiced without any additions or modifications. This means that Zazen is practiced solely for the purpose of Zazen. Zazen will not get you anywhere. Zazen without gain, Zazen which is one with enlightenment, is what is put into practice here.

内山興正

自己とは何か。これは数量的にいえば「一」だということです。自己が二人いるなどいうことは分裂病でもないかぎりありませんから。キェルケゴールも、宗教とは神の前に一人ぎりで立つことだといっていますが、たしかに宗教的自己とは、この一としての自己をハッキリすることでなければなりません。
ところでえこのように「自己とは一である」ということを前提にしてみますと、この「一」ということについて、

自己 = 1/1 = 2/2 = 3/3 = ・・・ = 人類/人類 = 一切/一切

という式が成り立ちます。
自分は一人だということは、誰だってみとめているわけですけれど、それでいて、お互い「自分は一人だ」ということを実践している人は、まったく稀でしかありません。いつも「勝った負けた」「得した損した」「愛する嫌う」など、そういうことだけで生きている人は、早い話がけっきょく「二分の一の自己」だけしか見ていない人です。「相手に対する自分」でしかないのですから、勝っても負けても、得しても損しても、「二分の一」です。

大岡昇平

人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的な理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。

道元

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

Wikipédia

La Toussaint est une fête catholique, célébrée le 1er novembre, au cours de laquelle l’Église catholique honore tous les saints, connus et inconnus.
Cette fête ne se fonde pas sur des textes bibliques, ni sur la liturgie de Jérusalem.
Elle est dédiée à tous les saints. Selon Mgr Robert Le Gall, « cette célébration groupe non seulement tous les saints canonisés, c’est-à-dire ceux dont l’Église assure, en engageant son autorité, qu’ils sont dans la Gloire de Dieu, mais aussi tous ceux qui, en fait et les plus nombreux, sont dans la béa­titude divine ». Il s’agit donc de toutes les personnes, canonisées ou non, qui ont été sanctifiées par l’exercice de la charité, l’accueil de la miséricorde et le don de la grâce divine. Cette fête rappelle donc à tous les fidèles, la vocation universelle à la sainteté.

Reyhaneh Jabbari

Reihaneh JabbariI am telling you from the bottom of my heart that I don’t want to have a grave for you to come and mourn there and suffer. I don’t want you to wear black clothing for me. Do your best to forget my difficult days. Give me to the wind to take away.
The world did not love us. It did not want my fate. And now I am giving in to it and embrace the death. Because in the court of God I will charge the inspectors, I will charge inspector Shamlou, I will charge judge, and the judges of country’s Supreme Court that beat me up when I was awake and did not refrain from harassing me.
In the court of the creator I will charge Dr. Farvandi, I will charge Qassem Shabani and all those that out of ignorance or with their lies wronged me and trampled on my rights and didn’t pay heed to the fact that sometimes what appears as reality is different from it.
Dear soft-hearted Sholeh, in the other world it is you and me who are the accusers and others who are the accused. Let’s see what God wants. I wanted to embrace you until I die. I love you.

遠藤周作

病気のあいだは照れくさいことながらやはりカミサマのことばかり考えつづけていた。・・・・・・ だが一番イヤだったのはある夜、私は神は本当は存在していないのではないかという不安に捉われた時だった。二千年のあいだ、神がいるものと信じてそのために生きてきた人間が無数にいる。・・・・・・ しかしもし神などは人間がつくりだした架空の幻影だったとするならば、それらの人間はなんとコッケイな喜劇の主人公であったことだろう。・・・・・・ いよいよ最後の手術の時、私は車のついた寝台にのせられて一度目や二度目の時と同じように手術室にはこばれていったが、前の時とはちがって見送ってきた妻とも別れ、手術場の厚い扉がしまった時、これがこの世の見おさめだなという気がおそってきた。その瞬間、私は始めてと言っていいほど口惜しい思いで自分の小説のことを思いだした。ああ、書きたいなあと思ったのである。
**
私は、この小説を書いたために、いままで私に寛大だった多くの神父たちを悲しませ、多くの信者の怒りを買ってしまった。とくに留学以来親友だった一人の神父を傷つけ、絶交せねばならなくなったことはまことにつらいが、しかたがない。

sdthndさん

岸田秀、小滝透『アメリカの正義病、イスラムの原理病―― 一神教の病理を読み解く』春秋社、2002年。
だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根元なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)。(236頁)
多神教優位論が一神教へのヘイトスピーチに過ぎないことがよく分かる文章。最後の一文が秀逸。
 
梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、1995 年。
私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです。(158 頁)
一神教にも多神教にも多種様々な宗教があるのに、安易に「一神教」「多神教」とひとくくりにして二元論で語っている。「一神教より多神教のほうがはるかによい」根拠は「思います」。なんだかなあ……。

Daniel Garber

I can’t believe because I’m not convinced that it is true that God exists. It is as simple as that. Belief is not voluntary, and there are no considerations that move me to believe that God exists. In all honesty, I will admit that I don’t have a definitive argument that God doesn’t exist either. Which is to say that I refuse to make the judgment that some make that it is positively irrational to believe in God in an objective sense. But without convincing affirmative reasons to believe, I’m stuck. If others find reasons that convince them, I’m willing to discuss them and consider them. Who knows? There might be a convincing argument out there, or at least one that convinces me.
On the other hand, it is easy say why I might want to believe. I see people around me — often very smart and thoughtful people — who get great comfort from believing that God exists. Why wouldn’t I want to be like them? It’s just that I can’t.

Keith DeRose

As happens in other areas, sometimes when engaged in philosophical argument, we easily slip into talking as if, and it very much feels as if, we know that our position is correct. But really we don’t. That’s how I feel generally about philosophy. Which is not to put philosophy down. Philosophy is wonderful–and in large part precisely because it deals with questions where we can’t yet know what is right.
So my skepticism about coming to know whether God exists by means of philosophical arguments is very much of a piece with my general thoughts about the limitations of such arguments. Nothing in particular against theists or atheists here.
Since atheists’ only real hope of knowing that God doesn’t exist would be through some kind of philosophical argument (perhaps some argument from evil), their knowing that God doesn’t exist doesn’t seem to me a very serious possibility.

Friedrich Nietzsche

Doubt as sin. — Christianity has done its utmost to close the circle and declared even doubt to be sin. One is supposed to be cast into belief without reason, by a miracle, and from then on to swim in it as in the brightest and least ambiguous of elements: even a glance towards land, even the thought that one perhaps exists for something else as well as swimming, even the slightest impulse of our amphibious nature — is sin! And notice that all this means that the foundation of belief and all reflection on its origin is likewise excluded as sinful. What is wanted are blindness and intoxication and an eternal song over the waves in which reason has drowned.

Jens Braarvig

The basic tenet of Buddhism is the idea of impermanence, relativity and the philosophical premise that nothing is absolute and eternal: existence is an everlasting flux, and each entity is dependent on another. This tenet gives the tradition its identity as distinguished from other ancient traditions of India in whose context Buddhism originated. Thus, believing in an eternal self, the basis of all Brahmanical philosophy, to which the Buddhists aimed their philosophical and rhetorical skills, was according to Buddhist insights the most basic misunderstanding of all: believing in and trying to find a self —or oneself —will always keep sentient beings attached to existence. Giving up the hope that anything is permanent, however, will eventually liberate men from bondage and the circle of rebirth to which we are all doomed by the fruits of our actions “since beginningless time,” as it is expressed in Buddhist literature. There can also be no eternal god, nor any basic cause of existence: everything is created by the actions of sentient beings in various states of existence, men, gods, animals or various classes of spirits. We see that Buddhism in this way is based upon what we might term a philosophical or even a psychological tenet, rather than faith in a transcendent being or a metaphysical reality, a philosophical premise that remains as such in the various philosophical transformations of Buddhism throughout its history. The basic premise of Buddhism, then, can be seen as less a creed based upon faith than an attempt to formulate a philosophical or “rational” premise for the system of knowledge, even though much of Buddhism of course seems irrational in the modern sense. However, this semi-rationality of Buddhism makes it easier to study as a conceptual system producing fields of knowledge, and it can be studied as a fairly limited or closed conceptual system.

島田裕巳

中国では、日本とは逆で、天台宗の後に法相宗が生まれている。そのため、法相宗は天台宗を批判し、衆生にはもともと能力の違いがあり、誰もが悟りに到達できるわけではないとした。正しく修行した者は悟れるが、そうでないものは悟れないとしたのである。
天台宗の立場は、徹底した平等主義であり、その点は高く評価することができるが、そうなると、一切の修行は必要ないということになる。さらに、誰もが究極的に悟りに達することができるのであれば、悪をなそうと、善をなそうと、どちらでも構わないということになってしまう。
 
最澄は、あらゆる衆生が救われる、仏性を備えていると主張しながら、比叡山の僧侶に対しては、厳しい修行の実践を求めた。それは、全体として考えれば、極めて矛盾した試みでもあった。後に道元は、その問題にぶちあたり、それが比叡山を降りることに結びついた。道元以外の宗祖たちも、やはり同じ問題に直面したはずであり、それぞれが独自の道を確立することで、間接的な形でその問いに答えようとしたと言える。
比叡山から、各宗派の宗祖が生まれたのは、たんにそこが仏法の総合大学だったからではない。最澄の思想と実践に根本的な矛盾があり、その矛盾が新たな試みを求めることで、新宗派が生まれていったのである。

岡野守也

仏教では一貫して、人間の心がどういうものなのかを洞察すること、心の表面の現象の問題だけではなく、ふだん自分でも気がっかないような心の奥底まで掘り下げて洞察すること、そして、ただ洞察するだけではなく、修行を通じてその心を変えていくことに、中心があった。

Everyday Zen

Though Buddhist psychology has a lot to say about emotions, both positive emotions (like compassion, loving kindness, acceptance, joy) and negative emotions (like greed, hate, anger) it does not preserve the typical Western division between intellect and emotion. Both are understood as functions of consciousness that are ever-present, influencing each other constantly. More importantly, Buddhism does not assume that emotions are natural conditioned by-products of our conduct; emotions can be cultivated, positive emotions encouraged, negative emotions gently discouraged. The cultivation of positive emotions is a crucial dimension of the Buddhist spiritual path.

tosinobu

お釈迦さまの台座の花は、なぜ蓮の花なのか?
泥水が濃ければ濃いほど、はすの花は大輪の花を咲かせます。泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要です。蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。
蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること、そして、その花の中に実があるのが 「悟り」 です。つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだ、ということをお釈迦さまは教えたかったのだと思います。

The Skeptic’s Dictionary

Confirmation bias refers to a type of selective thinking whereby one tends to notice and to look for what confirms one’s beliefs, and to ignore, not look for, or undervalue the relevance of what contradicts one’s beliefs. For example, if you believe that during a full moon there is an increase in admissions to the emergency room where you work, you will take notice of admissions during a full moon, but be inattentive to the moon when admissions occur during other nights of the month. A tendency to do this over time unjustifiably strengthens your belief in the relationship between the full moon and accidents and other lunar effects.
This tendency to give more attention and weight to data that support our beliefs than we do to contrary data is especially pernicious when our beliefs are little more than prejudices. If our beliefs are firmly established on solid evidence and valid confirmatory experiments, the tendency to give more attention and weight to data that fit with our beliefs should not lead us astray as a rule. Of course, if we become blinded to evidence truly refuting a favored hypothesis, we have crossed the line from reasonableness to closed-mindedness.