shinichi Post author03/04/2013 at 6:46 pm NHK BS歴史館 天明の飢饉 災害復興が日本を変えた by 山崎次郎 http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-3d03.html 天明の飢饉とは1782年から6年間にわたって日本を苦しめた大飢饉で、特に東北地方のダメージが大きかった。 東北の八戸藩では約6万人の人口のうち3万人が死亡しており、八戸藩の飢饉日誌によれば犬、猫、鶏、馬を食べつくし最後は死人の肉を食べていたという。 また全国レベルでの集計では総人口3000万人の時代に約100万人が餓死や疾病で死亡したという。 東北地方でなぜこれほどの飢饉が発生したかというと、東北の農業が換金食物コメに特化した農業になっていたからで、コメ作に適さない地で無理にコメ作を行っていたからだという。 この天明の飢饉が発生していた時期の幕府の老中は田沼意次で、意次は商品経済の導入に熱心だった。 「コメを作って大阪と江戸で販売すれば景気が拡大して幕府も藩も裕福になる」との政策だったが、実際に裕福になったのは商人で農民と諸藩は困窮した。 意次の政策は重商主義政策であり商業を保護して市場の活性化を図り、町人から税金(運上金)を徴収して幕府財政を立て直そうとしたものだった。 そしてそのためには換金作物であるコメの生産を奨励し、江戸と大坂にコメを集めて諸藩には通貨での支払いをし、日本全体を商業圏として市場の拡大を図っていた。 注)この政策で幕府の財政は好転したが重商主義政策に乗り遅れた諸藩の財政はひっ迫した。 だが、田沼意次にとって運が彼を見離した。天明2年から始まった冷夏でコメ生産に特化していた東北が壊滅的打撃を受けてしまったからだ(これでソフトランディングができなくった)。 コメは南方系の作物だから冷夏に弱い。もし東北の各藩であわやひえを作っていたらこれほどまでにひどい飢饉にはならなかったが、藩は農民に換金作物のコメを作ることだけを奨励した(各藩はコメだけを作ることで田沼意次の重商主義政策に適応しようとしていた)。 この大飢饉の中でただ一つ東北の白川藩が全く餓死者を出さなかったので日本中から注目された。白川藩の藩主は松平定信、8代将軍吉宗の孫で幼少期より利発といわれ徳川幕府のサラブレッドである。 あまりに利発ゆえ田沼意次にけむたがれ、ていよく白川藩という東北の僻地の小大名の養子にだされていた。 注)定信はすぐさまコメを買い集め、さらに豪商や豪農からカンパを募ってこれを元手に貧窮対策を行った。こうしたことを強権的にできたのもサラブレッドの権威があったからだという。なお田沼意次と松平定信は終世のライバルだが、理由は田沼が定信を島流し同然の措置をしたから。 田沼意次の政治は商人だけを重要視し農民政策をおろそかにしていたので飢饉に弱かった。 農村の危機対策で適切な手が打てなかったため一揆や暴動が頻発して徳川幕府の屋台骨を揺るがした(幕府を重商主義国家に変える前に農業が全滅する危機に襲われた)。 結局田沼は失脚したが田沼の後を襲ったのが重農主義者松平定信で1787年老中に就任した(実際は松平定信が謀略で追い落とした)。 松平定信の政策は徹頭徹尾田沼意次の政策の否定であり、重商主義から重農主義に舵を切り農民保護を最大の特色としている。 当時は日本人のほとんどが農民といってよく、したがって定信の政策は絶対多数の絶対幸福という民政重視政策となった。 注)田沼意次の政策で商業都市の江戸と大坂はにぎわったが、農村地帯は疲弊し農民は困窮化した。今の中国と同じで目端の利く商人だけが裕福になり多くの農民は農奴のような生活に追い落とされていた。 定信が行った政策は白川藩で行った政策の全国版であり、商人を脅して米価を強制的に引き下げ、災害の備えのためのコメの備蓄を奨励し、間引きを禁止して赤子養育手当の支給を行っている。 そして意次の通貨膨張政策(リフレ政策)を否定してデフレ政策を採用した。 定信は自給自足的な強靭な農業社会の再構築を目指していたため、そのための最大の方策が農村地帯の再生で特に人口増大策だった。 この先兵になったのが代官で、有能な代官を全国に配置し代官に絶対的な権限を与えてその地方にあった政策をとらせている(60人いた代官の44人を新規に任命した)。 いわば完全な地方分権といってよく地方の力を引き出すことで日本全体を立て直そうとしたものだ。 定信にとって農業こそが徳川幕府の基礎であり、農村地帯が疲弊し人口が減少しては幕府の存立基盤が崩壊するとの認識があった。 それまで代官とは天領の農民から年貢を取り立てるだけの役人だったが、この時から代官は農業の振興と農村の発展維持を図る民政官に変わっていったという。 松平定信と田沼意次の相反する政策を評価することは難しい。 もし田沼意次の政策が成功すれば日本はヨーロッパ各国のような重商主義国家になり当然鎖国も廃止され、黒船が来る前に植民地獲得に乗り出していた可能性が高い。 しかし実際は松平定信によって一国農業主義国家に再編され、人口も増大し国内的には安定した農業国家にはなったが、世界の潮流からは遅れてしまった。 個人的には松平定信に共感を覚えるが、農業だけで国政を運営できなかったのはその後の歴史が教えている。しかしそれでも農村地帯の立て直しに成功した定信の手腕は評価していいと思う。 Reply ↓
福島県会津美里町指定重要文化財「天明飢饉之図」
福島県会津美里町教育委員会所蔵
NHK BS歴史館 天明の飢饉 災害復興が日本を変えた
by 山崎次郎
http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-3d03.html
天明の飢饉とは1782年から6年間にわたって日本を苦しめた大飢饉で、特に東北地方のダメージが大きかった。
東北の八戸藩では約6万人の人口のうち3万人が死亡しており、八戸藩の飢饉日誌によれば犬、猫、鶏、馬を食べつくし最後は死人の肉を食べていたという。
また全国レベルでの集計では総人口3000万人の時代に約100万人が餓死や疾病で死亡したという。
東北地方でなぜこれほどの飢饉が発生したかというと、東北の農業が換金食物コメに特化した農業になっていたからで、コメ作に適さない地で無理にコメ作を行っていたからだという。
この天明の飢饉が発生していた時期の幕府の老中は田沼意次で、意次は商品経済の導入に熱心だった。
「コメを作って大阪と江戸で販売すれば景気が拡大して幕府も藩も裕福になる」との政策だったが、実際に裕福になったのは商人で農民と諸藩は困窮した。
意次の政策は重商主義政策であり商業を保護して市場の活性化を図り、町人から税金(運上金)を徴収して幕府財政を立て直そうとしたものだった。
そしてそのためには換金作物であるコメの生産を奨励し、江戸と大坂にコメを集めて諸藩には通貨での支払いをし、日本全体を商業圏として市場の拡大を図っていた。
注)この政策で幕府の財政は好転したが重商主義政策に乗り遅れた諸藩の財政はひっ迫した。
だが、田沼意次にとって運が彼を見離した。天明2年から始まった冷夏でコメ生産に特化していた東北が壊滅的打撃を受けてしまったからだ(これでソフトランディングができなくった)。
コメは南方系の作物だから冷夏に弱い。もし東北の各藩であわやひえを作っていたらこれほどまでにひどい飢饉にはならなかったが、藩は農民に換金作物のコメを作ることだけを奨励した(各藩はコメだけを作ることで田沼意次の重商主義政策に適応しようとしていた)。
この大飢饉の中でただ一つ東北の白川藩が全く餓死者を出さなかったので日本中から注目された。白川藩の藩主は松平定信、8代将軍吉宗の孫で幼少期より利発といわれ徳川幕府のサラブレッドである。
あまりに利発ゆえ田沼意次にけむたがれ、ていよく白川藩という東北の僻地の小大名の養子にだされていた。
注)定信はすぐさまコメを買い集め、さらに豪商や豪農からカンパを募ってこれを元手に貧窮対策を行った。こうしたことを強権的にできたのもサラブレッドの権威があったからだという。なお田沼意次と松平定信は終世のライバルだが、理由は田沼が定信を島流し同然の措置をしたから。
田沼意次の政治は商人だけを重要視し農民政策をおろそかにしていたので飢饉に弱かった。
農村の危機対策で適切な手が打てなかったため一揆や暴動が頻発して徳川幕府の屋台骨を揺るがした(幕府を重商主義国家に変える前に農業が全滅する危機に襲われた)。
結局田沼は失脚したが田沼の後を襲ったのが重農主義者松平定信で1787年老中に就任した(実際は松平定信が謀略で追い落とした)。
松平定信の政策は徹頭徹尾田沼意次の政策の否定であり、重商主義から重農主義に舵を切り農民保護を最大の特色としている。
当時は日本人のほとんどが農民といってよく、したがって定信の政策は絶対多数の絶対幸福という民政重視政策となった。
注)田沼意次の政策で商業都市の江戸と大坂はにぎわったが、農村地帯は疲弊し農民は困窮化した。今の中国と同じで目端の利く商人だけが裕福になり多くの農民は農奴のような生活に追い落とされていた。
定信が行った政策は白川藩で行った政策の全国版であり、商人を脅して米価を強制的に引き下げ、災害の備えのためのコメの備蓄を奨励し、間引きを禁止して赤子養育手当の支給を行っている。
そして意次の通貨膨張政策(リフレ政策)を否定してデフレ政策を採用した。
定信は自給自足的な強靭な農業社会の再構築を目指していたため、そのための最大の方策が農村地帯の再生で特に人口増大策だった。
この先兵になったのが代官で、有能な代官を全国に配置し代官に絶対的な権限を与えてその地方にあった政策をとらせている(60人いた代官の44人を新規に任命した)。
いわば完全な地方分権といってよく地方の力を引き出すことで日本全体を立て直そうとしたものだ。
定信にとって農業こそが徳川幕府の基礎であり、農村地帯が疲弊し人口が減少しては幕府の存立基盤が崩壊するとの認識があった。
それまで代官とは天領の農民から年貢を取り立てるだけの役人だったが、この時から代官は農業の振興と農村の発展維持を図る民政官に変わっていったという。
松平定信と田沼意次の相反する政策を評価することは難しい。
もし田沼意次の政策が成功すれば日本はヨーロッパ各国のような重商主義国家になり当然鎖国も廃止され、黒船が来る前に植民地獲得に乗り出していた可能性が高い。
しかし実際は松平定信によって一国農業主義国家に再編され、人口も増大し国内的には安定した農業国家にはなったが、世界の潮流からは遅れてしまった。
個人的には松平定信に共感を覚えるが、農業だけで国政を運営できなかったのはその後の歴史が教えている。しかしそれでも農村地帯の立て直しに成功した定信の手腕は評価していいと思う。