2 thoughts on “魏德聖

  1. shinichi Post author

    Warriors of the Rainbow: Seediq Bale (賽德克•巴萊, セデック・バレ, literally Real Seediq or Real Men) is a 2011 Taiwanese historical drama epic film directed by Wei Te-Sheng and produced by John Woo, based on Wushe Incident in central Taiwan in 1930.

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  2. shinichi Post author

    霧社事件(むしゃじけん)は、1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)で起こった台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。

    暴動の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特にモーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、暴動を画策したと言われている。

    10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。

    なお、現地の警察には霧社セデック族の警察官が2名おり、彼らは事件発生後にそれぞれ家族とともに自殺した。彼らは日本への義理立てを示す遺書を残したが、遺書は偽造されたものであるとの見解や、実は彼らが暴動を首謀したとの見方もある。

    蜂起の連絡を受けた日本軍や警察は鎮圧を開始した。日本側は10月29日には早くも霧社を奪回した。霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。11月1日の戦闘では暴徒側は日本側の鎮圧に抵抗したが、指揮を取っていたモーナの次男バッサオが死んだ。11月初めにはモーナ・ルダオが失踪し、日本側は親日派セデック族を動員し、11月4日までに暴徒側部族の村落を制圧した。モーナの失踪後は長男のタダオ・モーナが蜂起勢の戦闘を指揮したが、12月8日にタダオも自殺した。12月中に鎮圧軍は現地の治安を完全に回復し、戦闘は終結した。

    日本側は大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾(ルイサイト)などの近代兵器を用いて暴動部族を制圧した。味方蕃の戦闘員たちに対しては敵蕃の首級と引き換えに懸賞金が支給された。この措置は日本統治下で禁止されていた首狩りを許可するものであり、懸賞金の対象は蜂起勢の壮丁のみならず、婦女子まで含まれていた。この措置は同族間での凄惨な殺し合いを助長したとされる。

    戦闘の中で、700人ほどの暴徒が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった。 一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった。

    掃討戦で戦死した日本軍人・味方蕃兵士は靖国神社に祀られている。

    1931年1月、台湾総督石塚英蔵、総務長官人見次郎、警務局長石井保、台中州知事水越幸一が引責辞任した。

    日本統治終了後、国民党政権下の霧社で防空壕建設が行われたが、その際に旧駐在所霧社分室の跡地から30数体の白骨死体が発見された。事件当時の当事者回想録では、この死体は霧社事件の際、日本側の投降呼びかけによって投降した蜂起部族が処刑されたものだと主張してる。この白骨死体発見が契機の1つとなり、「霧社山胞抗日起義紀念碑」が設立された。

    第二霧社事件と川中島遷移

    1931年4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者をタウツア社(タウツア社は反乱側と対立しており、味方蕃として日本に協力した。)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という。霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がなされている。タウツア社への処罰はなされず、逆に蜂起部族の土地を与えられることとなった。

    1931年5月6日、最終的に生き残った人々は北港渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者らは警察からの指導のもとに生活した。その後も蜂起参加者への警察の摘発は続いた。反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても、「反乱協力者」の摘発は行われた。こうして逮捕された摘発者38名を当初警察は毒殺しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名を除き、全員が1932年3月までに留置中に死亡した。 川中島への移住者には当局からの援助があったものの、労働力の不足やマラリヤに苦しめられ、移住から2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただその後は持ち直した。

    影響

    事件前から霧社は台湾総督府による理蕃政策の先進地域であった。事件前、台湾総督府によるセデック族統治政策は一定の効果があがっていた。かつては首狩りを恐れられていたセデック族からの襲撃事件(蕃害と呼ばれていた)は1929年には年間死傷者が5名まで減っていて、また教育も普及が進んでいた。当時日本の植民地支配に対し抵抗をしていた台湾民衆党は事件を機に、理蕃政策の改善や警察政治の改革を訴えた。左派運動を展開していた台湾共産党も当局を批判したが、当時の台湾漢族住民側は霧社事件そのものには関与していないとされる。全国大衆党の衆議院議員であった河上丈太郎と河野密は訪台して事件を調査し、1931年6月に全国大衆党は国会で当局の対応を批判した。昭和天皇までもが事件の根本には原住民に対する侮蔑がある、と漏らした。

    台湾総督府は事件後、原住民に対する政策の方針を修正していく。原住民に対する同化教育と同時に、適農地区への定住化と米作の普及が試みられ、成果を挙げた。霧社事件の生存者が移住した川中島や、霧社でのダム建設のため立ち退きをさせられた人々が移住した中原(川中島に隣接)は、稲作適地であったため結果的に農業生産性が向上し、住民らの生活は以前よりも豊かになった。

    また、天皇と国家に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので、太平洋戦争時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多くいた。一説によると霧社事件での山岳戦でセデック族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われる。こうした事例は映画『サヨンの鐘』にも描かれ、皇民化教育の成果として謳われた。

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